七 字母の種類とその使用傾向(2021・1・28増補版)
本稿では、新出資料の「若紫」を加えて、青表紙原本「源氏物語」(5帖)における字母の種類とその使用傾向について考察する。
従来の翻字法は、作品研究には有効であったが、文献学的研究において、筆者の問題や写本関係を追究する上では限界があった。
近年、今西祐一郎氏によって、「表記情報学」が提唱され(注1)、写本の書承関係や位相の新しい解明が始まった。その研究プロジェクトメンバーの田坂憲二氏は新たな翻字法として「字形表示型」を提案され(注2)、大島本「桐壺」(聖護院道増筆)と同「帚木」(伝飛鳥井雅康筆)のそれぞれ一部をその翻字法によって例示され論じられた。また同じくそのメンバーでもあった伊藤鉄也氏は「変体仮名翻字」を提案され(注3)、「国立歴史民俗博物館蔵『源氏物語』「鈴虫」」の全文をその翻字法で公刊された。
しかし、田坂氏の「字形表示型」の翻字法では、例えば「の」に関して、その字形の相異から「の」と「乃」とを表示し分けるが、字母と漢字の表示法が同じになっているので見分け難い、という難点がある。
一方、伊藤氏の翻字法では字母と漢字との違いについて、漢字は【 】括で表示して区別しているが、字形を区別しないために例えば、「乃」が「の」と同じに翻字されてしまう、という難点がある。
さらに、活字に無い字形については、新たに活字を起こすか、あるいは手書きで表示するしかないという限界があった。
そこで、私は次のような方法を考え、本稿の「三 行頭字母の書き分け」の中で試みてきた。
第1に、漢字と字母の違いについては、漢字は太字で表示することで区別した。
第2に、仮名(平仮名・片仮名・変体仮名)の字形の違いについては、例えば「の」と「乃」の区別には、「乃」には漢字体に近い字形として「1」を付けて、「の1」として表示し分けた。
第3に、さらに活字では表現できない字形の違いに関しては、通常の字形とその筆数を基準にして、より元の漢字体に近い字形には「1」を付け、通常字形以外の字形には「2」を付けて区別した。例えば、「尓」(筆数1)と「尓1」(筆数3)、「そ」と「そ2」(逆湾曲形)、「こ」と「こ2」(筆数1)などである。
この漢字仮名字母翻字法は、あくまでも「定家本原本源氏物語」の本文研究を目的とした翻字法である。よって、それ以外の定家本原本については、また改めて作り直す必要のあるものであることを断っておく。
定家本原本源氏物語には、二種類が存在する。すなわち、枡形六半本源氏物語(自筆本奥入残存本文)と縦長四半本源氏物語(いわゆる青表紙本原本)である。いずれも全文が定家筆というものではなく、その一部が定家筆というもので、残りは非定家・別人筆というものである。
したがって、ここで見ていこうとする、定家本原本源氏物語における字母・字形というものも、定家筆と非定家筆のそれということになる。
そして、それらの特徴を見極め、その峻別を試みようとするものである。
一 「青表紙原本」(5帖)の字母・字形の種類
以上の方法によって、「青表紙原本」(5帖)における「いろは47音節+ん」の字母と字形について見ると、以下のような、113種類の字母・字形が見られた。
今、それらについて、すべて字母で表示し、異字形については数字「1」または「2」を付けて表示しよう。
い(以・伊)ろ(呂)は(者・八・波・盤)に(尓・尓1・仁・二・耳)ほ(保・本)へ(部)と(止・登) ち(知・地)り(利・里)ぬ(奴)る(留・留1・累)を(遠・越) わ(和・王)か(可・加)よ(与)た(堂・多・太)れ(礼・連)そ(曽・曽2) つ(川・川1・徒)ね(祢・年)な(奈・奈1・奈2・那)ら(良・羅)む(武) う(宇)ゐ(為・井)の(乃・乃1・能)お(於・於1)く(久・具)や(也)ま(万・末・満) け(个・遣・計)ふ(不・布・婦)こ(己・己2・古)え(衣・衣2・江・盈)て(天・天2・亭) あ(安・阿)さ(左・佐)き(幾・支・起)ゆ(由)め(女・免)み(美・三・見)し(之・志・新) ゑ(惠・衛)ひ(比・日・悲・飛)も(毛・毛1・母)せ(世・勢)す(寸・春・須・須1) ん(无) |
字形について、少し補説しよう。
「尓」と「尓1」:「尓」は変体仮名1筆、「尓1」は字母「尓」に近い字形3筆
「留1」:1筆であるが、その入筆部に字母の形(心に近い字形)を留めた字形
「曽2」:湾曲が逆で、「う」に似た字形
「奈」「奈1」「奈2」:「奈」は現行の仮名字形、「奈1」は字母「奈」に近い3筆の字形、「奈2」は変体仮名1筆の字形
「己」と「己2」:「己」は現行の仮名字形で2筆、「己2」は1筆(一点)、「ゝ」に似た字形
「衣」と「衣2」:「衣」は現行の仮名字形で2筆、「衣2」は1筆、やや大きめの「ゝ」または「く」や「天2」に似た字形
「天2」:屈折があり「く」や「衣2」に似た字形
「毛1」:入筆部に字母の字形を留めた字形
「須1」:右側の旁部が「欠」に近い字形
以上、これら113種類の字母・字形を「青表紙原本字彙」と呼ぶことにしよう。
次に、各巻において使用されている字母・字形について見てみよう。
巻によって、長短の違いがあるので、墨付面を併せて記す。
「若紫」(1オ1~61ウ2)の字母字形:84種類
「花散里」(1オ1~5ウ6)の字母字形:75種類
「行幸」(1オ1~37ウ10)の字母字形:100種類
「柏木(定家親筆部)」(1オ1~11ウ5)の字母字形:89種類
「柏木(非定家筆部)」(11ウ6~50ウ2 ただし、13ウと14オは白紙)の字母字形:84種類
「早蕨」(1オ1~23ウ4)の字母字形:82種類
そして、「青表紙原本」(5帖)すべてにおいて使用されている字母字形は、
い(以)ろ(呂)は(者・八・波)に(尓・仁)ほ(保・本)へ(部)と(止) ち(知)り(利)ぬ(奴)る(留・累)を(遠・越) わ(和)か(可・加)よ(与)た(堂・多)れ(礼)そ(曽2) つ(川・徒)ね(祢)な(奈・奈2・那)ら(良)む(武) う(宇)ゐ(為)の(乃・乃1・能)お(於1)く(久)や(也)ま(末・満) け(个・遣・計)ふ(不)こ(己・己2)え(衣)て(天) あ(安)さ(左・佐)き(幾)ゆ(由)め(女・免)み(美)し(之・志) ゑ(惠)ひ(比・日)も(毛)せ(世)す(寸・春) ん(无) |
以上の70種類である。全体に占める比率は61.9%である。
残りの43種類(38.1%)の字母・字形は各巻において出入りのあるものということになる。
今、藤原定家筆の「柏木(定家筆)」を基準(89種類)にして他の巻をみると、明らかな別人筆の「行幸」は100種類で、5巻の中で最も多く、定家の使用字母字形数よりも約10ポイント増である。
対して、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」は75~84種類で、いずれも「柏木(定家筆)」よりも少なく、14~5ポイント減である。
なお、「花散里」は小さな巻なので、それを除いて考えれば、残りの3巻は82~84の幅である。すなわち「柏木(定家筆)」より7~5ポイント減ということである。
そして、それらのうち70はすべての巻で使用されている字母字形である。
以下、各巻毎にその特徴について具体的に見ていこう。
二 「柏木」(定家親筆部)の字母・字形の種類と使用傾向
初めに、基準とすべき藤原定家筆の「柏木(定家筆)」における字母・字形の特徴から見ていこう。
まず最初に、他の書写者たちが使用していない定家独自使用の字母と、逆に他の書写者たちが使用していて定家は使用していない字母というものについて見てみよう。
すると、以下のような定家独自使用の字母として7文字が見られる。( )の中に使用回数を記す。以下、同じ。
①「飛」(8)
②「伊」(4)
③「地」(2)
④「具」(1)
⑤「盈」(1)
⑥「亭」(1)
⑦「起」(1)
「飛」8回を筆頭に、「伊」4回、「地」2回が使用されている他に、「具」「盈」「亭」「起」はそれぞれ1回ずつ使用されている。
ところで、「伊」に関しては、その2回は行頭字母の書き分けとして使用されているものであるが、他はすべて本文中における使用である。よって、定家は行頭字母の書き分けの必要性に関係なく、随意に複数の字母を使用していることがわかる。
そして、わずかに1度くらいしか使用しない字母をあえて交えているというところに、定家独特の書き癖が窺える。
なお、「行幸」は、明らかな別人筆であるので、「行幸」と共通して使用されていて、他の書写者たちには使用されていない字母、またその逆というのも、定家の字母使用の特徴を考える上で参考になろう。
⑧「里」(14)
⑨「連」(2)
「里」は「行幸」に54回使用されているが、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」では0である。
「連」も「行幸」に2回使用されているが、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」では0である。
よって、これら2文字についても定家使用字母の特徴の中に数え上げておいてよいだろう。
以上、「柏木(定家筆)」中の9種類の字母を「定家使用字彙」と呼ぶことにしよう。
一方、逆に他の書写者たちがいずれも使用している字母で、定家は使用していない字母というものについて見てみよう。
①「三」(0)
字母「三」(み)に関しては、 「若紫」(101)、「花散里」(3)、「行幸」(59)、「柏木(非定家)」(32)、「早蕨」(16)というように、いずれも使用している。
小さな巻である「花散里」でさえ3回使用されているほどである。したがって、定家が「柏木(定家筆)」において、字母「三」(み)を使用していないのは、やはり顕著な特徴といえよう。
さらに、「王」「婦」と「盤」「井」に関して、
②「王」は、「若紫」(3)、「花散里」(0)、「行幸」(8)、「柏木(非定家)」(2)、「早蕨」(17)というように、使用されている。
③「婦」は、「若紫」(15)、「花散里」(0)、「行幸」(16)、「柏木(非定家)」(6)、「早蕨」(1)というように、使用されている。
「花散里」は小さな巻なので、そこでの使用0を例外として考えれば、「王」と「婦」も定家の非使用の特徴を考える上で参考となろう。
④「盤」は、「若紫」(7)、「花散里」(1)、「行幸」(0)、「柏木(非定家)」(14)、「早蕨」(24)というように、「行幸」を除いていずれも使用している。
「行幸」は明らかな別人筆であるから、これも除外して考えれば、「盤」も定家の非使用の特徴を考える上で参考となろう。
⑤「井」は、「若紫」(19)、「花散里」(0)、「行幸」(0)、「柏木(非定家)」(8)、「早蕨」(4)というように、「花散里」と「行幸」を除いていずれも使用している。
よって、「井」についも②③④と同様に考えれば、定家の非使用の特徴を考える上で参考となろう。
以上、5種類の字母については、先の「定家使用字彙」に対して、「定家非使用字彙」と呼ぶことにしよう。
そして、青表紙原本の中では、定家が使用していない字母として留意しておこう。
以上、これら使用・非使用の両者を合せた「柏木(定家筆)」14字の内容が、定家筆の特有性(固有性ではない)ということになろう。
その14という数は、「青表紙原本113語彙」の中に占める比率として、12.4%ということになる。
以下、これを基準にして考えていこう。
なお、例えば、字母「三」について、定家はその字母をまったく使用しないというのではなく、他の作品(例えば、定家本土左日記・古今集・近代秀歌・更級日記・天福本伊勢物語)の書写においては、使用しているのである(注4)。
そしてまた、字母の使用に関しての、有か無かということだけでは、偶然性や見落とし等も伴うことゆえ、絶対的とはいえない。
あくまでも、以上の特性は青表紙原本源氏物語(5帖)中においてという限定付きのものである。
そこで、次に、定家の用字表記法について、他の書写者たちに比して、相対的に多用する傾向の字母、また逆に比較的使用数の少ない字母、という使用頻度の傾向から考えていこう。
例えば、複数の字母が使用されている場合に、その使用順位が他の書写者たちの使用順位と顕著に異なっている字母がある。
①「万」(71)
「柏木(定家筆)」では、「ま」の字母として、「万」「末」「満」の3種類が使用されているが、その使用順位が
「万」(71)-「末」(15)—「満」(14)
という順位で使用されている。
ところが、他の青表紙原本では、
「若紫」: 「末」(748)-「満」(52)-「万」(8)
「花散里」:「末」(37)-「満」(9)-「万」(0)
「行幸」: 「末」(402)-「万」(42)-「満」(40)
「柏木非」:「末」(342)-「満」(60)-「万」(1)
「早蕨」: 「末」(264)-「満」(23)-「万」(1)
というように、「末」が最も多く頻用され、「行幸」では「万」が第2位で「満」と拮抗した順位になっているが、他では「万」は最も使用頻度の少ない字母となっている。
定家の字母の使用傾向が顕著に窺われる事例である。
なお、定家の「万」の頻用傾向については、前出の他の作品(例えば、定家本土左日記・古今集・近代秀歌・更級日記・天福本伊勢物語)の書写においてもまったく同傾向である(注5)。
わずか「万」1字だけであるが、これを「定家多用字彙」と呼称しておこう。
以上、「柏木(定家筆)」における「使用字母」「非使用字母」そして「多用字母」について、その周辺まで目を広げて考察してきた。
「柏木(定家筆)」のみに見られる「使用字母」「非使用字母」そして「多用字母」となれば、さらに絞られたものとなろう。だが、どんなに精確さを求めても、字母の有無に関しては、たまたまという偶然性があるので、厳密性を追及してもあまり意味がない。
字母の有無よりもむしろその使用傾向の方にこそ、書写者の書き癖が顕著に反映されているといえよう。
次に、青表紙原本(5帖)の中でも、定家や他の筆者とは明らかに違った別人筆「行幸」の特徴について見ていこう。
三 「行幸」(別人筆)の字母・字形の種類と使用傾向
「行幸」の使用字母・字形の種類は100種類と、青表紙原本5帖の中で最も多く多様性に富んでいる。
そして、第1に「行幸」独自使用の字母・字形数も最も多い。次のような字母・字形、16種類である。
①「曽」(58)
②「衣2」(55)
③「天2」(19)
④「羅」(16)
⑤「二」(12)
⑥「尓1」(11)
⑦「古」(10)
⑧「見」(3)
⑨「留1」(2)
⑩「悲」(2)
⑪「耳」(1)
⑫「登」(1)
⑬「年」(1)
⑭「支」(1)
⑮「新」(1)
⑯「母」(1)
「行幸」書写者の特徴として、特にその字形に独特の書き癖が窺える。すなわち、字母に数字を付加させた形で表示されるものが多いということである。
例えば、「衣2」は、1筆書きで、やや大きめの「ゝ」または「く」や「天2」に似た字形で書かれている。
「天2」は、下部に屈折があり「く」や「衣2」に似た字形で書かれている。
「留1」は、入筆部に字母の形(心に近い字形)を留めた字形で書かれている。
なお、これらの字形はけっして「行幸」書写者の個人的な書き癖というわけでなく、他の古写本中にも見られる字形であるから、字形としては普遍性をもったものであることを付言しておく。ただ、青表紙原本5帖の中ではやはり特異であると言わねばならない。
次にそれら特異な字形の使用頻度を見ると、
「尓1」は字母「尓」に近い字形で3筆の字形である。「尓」(325)に対して「尓1」(11)という割合で使用している。
「曽」は現行の仮名文字「そ」と同じ字形で、他の青表紙原本の書写者には見られない字形であるが、下部が逆湾曲形の「曽2」(60)に対して「曽」(58)というように拮抗する割合で使用されている。
「衣2」は通行の仮名字体の「え」をさらに崩したような字形で、1筆の字形、そして、やや大きめの「ゝ」または「く」の途中に屈曲を入れた字形や「天2」(屈曲字形)に似た字形である。「衣」(33)に対して、「衣2」(55)というように、むしろ勝る使用頻度である。
「天2」は通行の仮名文字「て」の湾曲部が屈曲している字形である。したがって、「く」や「衣2」などの字形に似通った字形である。「天」(368)に対して「天2」(19)という割合で使用されている。
そして、そうした「行幸」独特の字形が同文字の中でかなり高い比率を占めて使用されているのである。
なお、先述した、「柏木(定家筆)」と共通使用の字母である、
⑰「里」(54)
⑱「連」(1)
の2字についても、「若紫」や「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」と対比する意味で、数え入れてよいだろう。
以上、18種類の字母・字形を 「別人(行幸)使用字彙」と呼んでおこう。
ところで、逆に他の青表紙原本ではすべて使用されているのに、「行幸」では使用されていない字母字形についても見ておこう。
①「勢」(0)
「勢」1例が挙げられる。ただ、他の青表紙原本でも「勢」に関しては、「若紫」(20)・「花散里」(1)・「柏木(定家筆)」(1)・「柏木(非定家)」(4)・「早蕨」(2)というように、「若紫」を除いて、比較的少数使用の字母である。
さらに、
②「阿」(0)
③「衛」(0)
「阿」に関しては、「若紫」(2)・「花散里」(0)・「柏木(定家筆)」(1)・「柏木(非定家)」(4)・「早蕨」(1)と使用されている。
また「衛」に関しても、「若紫」(17)・「花散里」(0)・「柏木(定家筆)」(1)・「柏木(非定家)」(4)・「早蕨」(3)と使用されている。
小さな巻である「花散里」の使用0を例外とすれば、「阿」と「衛」も含めて考えてよいだろう。
これら3字も、先の「定家非使用字彙」に倣って、「別人(行幸)非使用字彙」と呼んでおこう。
以上 それら両者を合せた「行幸」(別人筆)の21字という数は、「青表紙原本113字彙」の中で、18.6%を占める数値である。
先に見た「柏木(定家筆)」の12.4%よりも約6ポイント高いものである。
次に、その使用傾向から見た顕著な特徴について見ていこう。
①「八」
「行幸」では、「は」に関して、「八」(238)-「者」(201)-「波」(35)-「盤」(0)の順位で、「ハ」が最も多く使用されている。
ところが、他の巻では、
「若紫」 :「者」(375)—「八」(316)-「波」(81)-「盤」(7)
「花散里」:「者」(51)—「八」(12)-「波」(7)-「盤」(1)
「柏木定」:「者」(107)—「八」(14)-「波」(6)-「盤」(0)
「柏木非」:「者」(327)—「八」(176)-「波」(63)-「盤」(14)
「早蕨」 :「者」(173)—「八」(83)-「波」(27)-「盤」(24)
というように、いずれも「者」が最も多く頻用され、「八」は第2位使用の字母となっているのである。
しかもただ第2位というだけでなく、第1位「者」と第2位「八」との落差に注目すれば、「若紫」は大差ないものの、「柏木(非定家)」と「早蕨」では「八」が「者」の半数前後の使用であるが、「花散里」と「柏木(定家筆)」では2割前後の使用程度であることだ。
②「保」「本」
次に、「行幸」では、「ほ」に関して、「保」(74)-「本」(74)というように同値で拮抗しているのに対して、他の巻では、
「若紫」 :「保」(206)-「本」(56)
「花散里」:「保」(29)-「本」(12)
「柏木定」:「保」(25)-「本」(21)
「柏木非」:「保」(121)-「本」(71)
「早蕨」 :「保」(74)-「本」(38)
とあるように、いずれも「保」が第1位となっている。「柏木(定家親筆部)」がやや勝るという以外、その間には2倍近くの差異がある。
これら2種類(3字母)については、「別人(行幸)多用字彙」と呼んでおこう。
以上、青表紙原本5帖の中における、「行幸」(別人筆)の用字表記法の特徴として、その周辺までを含めて「別人(行幸)使用字彙」18字、「別人(行幸)非使用字彙」3字、そして「別人(行幸)多用字彙」2種3字、計24の字母・字形を考察してきた。
「行幸」固有の「使用字母」「非使用字母」そして「多用字母」を絞り込めば、より精確なものになるが、今厳密性を求めてもあまり意味がないので、広く「行幸」の特徴を見ておきたい。
青表紙原本5帖の中に、「行幸」の書写者を「別人甲(行幸)」と呼称しよう。
これらのデータも、今後の青表紙原本系統の本文研究において、何らかのヒントや手がかりを与えるものとなるであろう。
四 「若紫」「花散里」「柏木(非定家筆部)」「早蕨」の字母・字形の種類と使用傾向
次に、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」について。
筆跡の似ているこれら4巻は、字母の種類と使用傾向から検討しても、やはり同一書写者によるものであろうことを検証していく。
最初に、これら4巻に共通して見られる用字表記法について、次いで、各帖の特徴について見ていこう。
(1)4巻共通の使用・不使用の字母・字形の種類と使用傾向
まずは、4巻に共通して見られる字母、及び逆に4巻に共通して見られない字母という視点から見ていこう。
①「盤」 (若紫7・花散里1・柏木非14・早蕨24) ⇔ (行幸0・柏木定0)
がある。
さらに、「花散里」は小さな巻なので、その使用0を例外として見れば、
②「井」 (若紫19・花散里0・柏木非8・早蕨4) ⇔ (行幸0・柏木定0)
が挙げられる。
ところで、4巻のまとまり性を見る上で、「行幸」は明かな別人筆の巻なので、これを無視して、共通して使用されている字母というものを見ると、
③「三」 (若紫101・花散里3・柏木非32・早蕨16) ⇔ (行幸563・柏木定0)
が挙げられる。
さらに、「花散里」は小さな巻なので、それを例外として見れば、
④「婦」 (若紫15・花散里0・柏木非6・早蕨1) ⇔ (行幸16・柏木定0)
が挙げられる。
4巻共通の使用字母は、厳密には1字だけであるが、しかし少し広げて見れば、上記の4字が4巻で共通して使用されている字母と見ることができる。
これら4種類の字母を、「別人(若紫・花散里・柏木非・早蕨グループ)使用字彙」と呼んでおこう。
次に、4巻に共通して見られない字母について。
これは、すなわち、先に考察した「柏木(定家筆)」と「行幸」の共通使用字母ということの裏返しである。
①「里」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸54・柏木定14)
②「連」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸1・柏木定2)
ここでも、別人筆の「行幸」を無視して見ると、
③「伊」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定4)
④「地」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定2)
⑤「具」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定1)
⑥「盈」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定1)
⑦「亭」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定1)
⑧「起」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定1)
⑨「飛」 (若紫0・花散里0・柏木非0・早蕨0) ⇔ (行幸0・柏木定8)
これら③~⑨までの字母も、4巻独自の共通して使用されない字母というわけではないから、あくまでも参考的な意味合いになる。
4巻に共通して使用されていない字母は、厳密には2字だけであるが、ここでも少し広げて見れば、9種類の字母が使用されていない字母と見ることができる。
これら9種類の字母もまた、「別人(若紫・花散里・柏木非・早蕨グループ)非使用字彙」と呼んでおこう。
なお、上記4巻共通の多用字母というものは無い。
以上、4巻固有の「使用字母」「非使用字母」以外にも目を広げてその周辺まで見てきた。
その結果、それらを合せた13字という数は、「青表紙原本113字彙」に11.5%を占める数値である。
「行幸」17.7や「柏木(定家筆)」12.4という数値に比して最も低い位置である。
そして、これをさらに4巻固有の「使用字母」「非使用字母」に絞れば、もっと小さな数値となる。
つまり、これら4巻は、「柏木(定家筆)」や「行幸」のような個性豊かな字母・字形ではなく、ほとんど青表紙原本のベーシックな字母・字形で書写されているということである。
ベーシックであるがゆえに逆に個性がないのである。
そのことは、以下の各巻の検討からもうなづけるだろう。
(2)「若紫」の固有性
まず、上記の4巻中において、「若紫」に使用されていて、他の3巻には使用されていない字母字形について。
「若紫」単独でというものは無くて、何れも「行幸」や「柏木(定家筆)」と共通してであるが、以下のような字母がある。
①「太」 (若紫1・行幸23・柏木定3) ⇔ (花散里0・柏木非0・早蕨0)
②「於」 (若紫5・行幸34・柏木定1) ⇔ (花散里0・柏木非0・早蕨0)
③「江」 (若紫1・行幸5・柏木定1) ⇔ (花散里0・柏木非0・早蕨0)
①「太」と③「江」はいずれも1例ずつである。
なお、「江」については、「柏木(定家筆)」ではヤ行「江」の仮名として、「行幸」でもヤ行「江」の仮名として4、そして副詞「え」の仮名として1使用されている。
「若紫」は副詞「え」の仮名として使用されているものである。
②青表紙原本において、「お1」(於)の用例は多いが、「お」の用例は比較的希少である。そうした中で、「行幸」(34)は措き、「柏木(定家筆)」1に対して、「若紫」に5例見られるのは注目される。
その逆に、「若紫」には使用されていなくて、他の3巻ではすべて使用されている字母というものは、これもない。
そこで、小巻の「花散里」を例外とした場合では、
①「川1」 (若紫0・行幸34・柏木定0) ⇔ (花散里0・柏木非3・早蕨25)
②「毛1」 (若紫0・行幸46・柏木定19) ⇔ (花散里0・柏木非14・早蕨11)
が挙げられる。
最後に、上記4巻中における「若紫」の字母の使用傾向について見ると、そのような異なった使用傾向というものはない。
以上、「若紫」では字母字形の有無において、上のような特徴が見られる。
しかし、4巻の一まとまり性から逸脱するようなものではない。
(3)「花散里」の固有性
次に、上記の4巻の中にあって、「花散里」に使用されていて、他の3巻には使用されていない字母字形は無い。
その逆に、「花散里」に使用されていなくて、他の3巻では使用されている字母字形について見る。
①「万」 (花散里0・行幸41・柏木定71) ⇔ (若紫8・柏木非1・早蕨1)
「行幸」を例外として見れば、
②「衛」 (花散里0・行幸0・柏木定1) ⇔ (若紫17・柏木非4・早蕨3)
以上、2字が挙げられるが、「花散里」はもともと小さな巻なので、そこで使用されていない、といってもあまり意味がない。
次に、「花散里」における字母の使用傾向について見ると、以下のような3字母が挙げられる。
①「堂」
「花散里」:「堂」(40)-「多」(24)-「太」(0)
「若紫」 :「多」(594)-「堂」(400)-「太」(1)
「行幸」 :「多」(349)-「堂」(177)-「太」(23)
「柏木定」:「多」(89)-「堂」(15)-「太」(3)
「柏木非」:「多」(408)-「堂」(102)-「太」(0)
「早蕨」 :「多」(246)-「堂」(87)-「太」(0)
「花散里」では、「た」に関して、「堂」(40)-「多」(24)-「太」(0)の順位で使用されている。
しかし、他の巻では、いずれも「多」が最も多く使用されている。
「花散里」における第1位「堂」(40)と第2位「多」(24)の使用差違についても留意しておきたい。
②「遣」
「花散里」:「遣」(14)-「个」(12)-「計」(6)
「若紫」 :「个」(120)-「遣」(102)-「計」(88)
「行幸」 :「个」(103)-「遣」(72)-「計」(36)
「柏木定」:「个」(36)-「遣」(14)-「計」(6)
「柏木非」:「个」(136)-「計」(69)-「遣」(65)
「早蕨」 :「个」(71)-「計」(46)-「遣」(24)
また、「け」に関して、「遣」(14)-「个」(12)-「計」(6)の順位で使用されている。
それに対して、他の巻では、いずれも「个」が最も多く使用されている。
さらに、「柏木(非定家)」と「早蕨」では、「遣」と「計」とが逆の関係になっていて、「遣」が最下位である。
③「免」
「花散里」:「免」(8)-「女」(5)
「若紫」 :「女」(112)-「免」(60)
「行幸」 :「女」(99)-「免」(29)
「柏木定」:「女」(29)-「免」(2)
「柏木非」:「女」(89)-「免」(40)
「早蕨」 :「女」(67)-「免」(13)
そして、「め」に関しても、「免」(8)-「女」(5)の順位で使用されている。
しかし、他の巻ではすべて「女」が最も多く使用されているのである。
「花散里」は小さな巻であるので、使用字母の有無に関しては、強くは言えない。
しかし、3字母の使用傾向に関しては、上記4巻の中だけでなく、青表紙原本5帖の中において、書写者の書き癖、個性を十分に現しているものと考えられる。
「花散里」における「多用字彙」3字をどう考えたらよいか、それが問題となる。
(4)「柏木(非定家)」の固有性
次に、「柏木(非定家)」について見ていこう。
まず、上記4巻の中において、「柏木(非定家)」にのみ使用されていて、他の他では使用されていない字母字形は無い。
逆に、「柏木(非定家)」にのみ使用されていなくて、他の巻では使用されている字母字形というものも無い。
そして、「柏木(非定家)」における字母の使用傾向について見ても、特に顕著な使用傾向を示すような字母は無い。
総じて、「柏木(非定家)」はほとんど特徴性の無い巻である。
(5)「早蕨」の固有性
最後に、「早蕨」について。
上記4巻の中において、「早蕨」にのみ使用されていて、他の巻では使用されていない字母字形について見ると、そのような字母字形は無い。
逆に、「早蕨」にのみ使用されていなくて、他の巻では使用されている字母字形として、
①「奈1」 (早蕨0・行幸26・柏木定55) ⇔ (若紫12・花散里2・柏木非2)
以上のように、「奈1」の字形が使用されていない。ただ、「花散里」と「柏木(非定家)」もそれぞれ使用回数2回ずつという少数回なので、先に見てきた「花散里」の「万」の場合と同様に、ほとんど大差のないものである。
最後に、「早蕨」における字母の使用傾向について見ると、特に顕著な傾向を示すような文字は特に無い。
総じて、「早蕨」も「柏木(非定家)」に次いで特に特徴性のない巻であるといえよう。
以上、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」のそれぞれの固有性について考えていくために、その周辺まで目を配って見てきた。
その結果、使用字母の種類の問題としとしては、「若紫」と「早蕨」に特徴性がわずかに認められた。特に「若紫」には「於」(5)という特異性があった。
また、使用字母の多用傾向という視点からは、「花散里」に「堂」「遣」「免」の3字に顕著な「多用字彙」が認められた。これは使用字母の有無以上に、筆者の書き癖を現すものとして重いものがある。
しかし、それらの事由をもって、上記4巻の中から「若紫」や「花散里」をそれぞれ別人筆者であると考えるには、まだ根拠薄弱であろうと判断する。
やはり、青表紙原本5帖中における使用字母の種類と使用傾向という全体的な視点から見て、「若紫」「花散里」「柏木(非定家)」「早蕨」の4巻の一まとまり性が優先するだろう、と考える。
よって、これら巻の筆者(書写者)を「別人乙(若紫・花散里・柏木非・早蕨グループ)」と呼称する。
むすび
以上、考察の結果、「青表紙原本「源氏物語」(5帖)の筆者(書写者)は、藤原定家(「柏木(定家親筆部)」と別人甲(「行幸」)、別人乙(「若紫」「花散里」「柏木(非定家筆部)」「早蕨」グープ)の3人である、ということを結論とする。
そして、上に考察した各巻、グループの「使用字彙」「非使用字彙」「多用字彙」に関して、より厳密性を加えた、それぞれ固有の「使用字彙」「非使用字彙」「多用字彙」表を作成した。
今後の定家本原本源氏物語の本文研究のデータとしたい。
注
(1)今西祐一郎「「表記情報学」事始め―序文にかえて―」(研究代表者今西祐一郎『日本古典における【表記情報学】の基盤構築に関する研究Ⅰ』科研基盤(A)2011年度研究成果報告書 2012年3月)
(2)田坂憲二「字形表示型データーベースの提案――大島本桐壺巻から――」(研究代表者今西祐一郎『日本古典における【表記情報学】の基盤構築に関する研究Ⅲ』科研基盤(A)2013年度研究成果報告書 2014年3月)
(3)伊藤鉄也『国立歴史民俗博物館蔵『源氏物語』「鈴虫」』(新典社 2015年4月)
(4)植喜代子「藤原定家の変体仮名の用法について」(広島大学『国文学攷』第82号 昭和54年6月)
(5)植喜代子氏、前掲論文。
表(各巻筆者固有の使用及び非使用、多用の字母字形)
筆者 | 使用字彙 | 非使用字彙 | 多用字彙 |
定家 | 伊・地・具・盈・亭・起・飛 | 三 | 万 |
別人甲 | 尓1・二・耳・登・留1・曽・年・羅 古・衣2・天2・支・見・新・悲・母 |
勢 | 八・保/本 |
別人乙 | 盤 | 里・連 |
若紫 | |||
花散里 | 万 | 堂・遣・免 | |
柏木非 | |||
早蕨 | 奈1 |
但し、字母字形の有無は絶対的なものではなく、あくまでも目安的なものである。