六 本文訂正跡(2020・12・23訂正版)

  はじめに

 青表紙原本「源氏物語」(5帖)の本文訂正跡といえば、即ち全て藤原定家の本文の校訂の跡と思ってしまいそうだが、実はそうではない。

 ある意味で当然のことながら、青表紙原本における本文の訂正跡には、本文書写者自身による訂正跡と監修者である藤原定家による訂正跡との両方がある。

 更に言えば、「訂正跡」イコール「校訂跡」ではない。訂正跡の中には単純な親本からの誤写を訂正したものや字形を修正したものもある。
 訂正の結果、訂正以前の本文と訂正以後の本文との間に、文意が異なる場合、これが校訂の問題となる。仮名遣い等の表記の統一もこれに含まれよう。

 青表紙原本の現存5帖中、定家が自ら書写した巻は、「柏木」の冒頭1丁表1行目から11丁裏5行目までだけである。11丁裏6行目から末尾50丁裏2行目は別人筆である。
 そして、他の「若紫」「花散里」「行幸」「早蕨」4帖は、すべて別人筆である。

 監修者定家による訂正跡と別人本文書写者による訂正跡とは区別して考えねばならない。従来、このことがなされずに検証されてきた。

 ところで、青表紙原本の制作に際して、定家筆の本文校訂は理解できるが、その協同者の立場である書写者たちが、はたして本文校訂を為しうる立場にあっただろうか、という疑問が起こる。
 しかし、だからといって、本文訂正跡=書写者、本文校訂跡=定家、と考えるのも危険である。実態に即して考えるべきであることは言うまでもない。

 青表紙原本「源氏物語」(5帖)は、これまで「青表紙本」系統の祖本と考えられてきた。

 しかし、『源氏物語大成 校異篇』所収の、この「定家本」(青表紙原本)がいわゆる「青表紙本」の祖本ではないことは、この『大成校異篇』を丁寧に見れば、容易に推測されることである。

 定家が直接制作に関わった「定家本」には、枡形六半本型「源氏物語」(「自筆本奥入」所載の巻尾本文と抄出本文の断簡が現存)と縦長四半本型「源氏物語」(現存5帖、紺色の表紙が付けられているので「青表紙原本」と呼称する)との2種類が現存する。

 その後者の「青表紙原本」(5帖)の本文訂正跡を詳細に辿ってみると、その訂正以前の本文が鎌倉期書写の青表紙本系統の写本と一致しているという事例に出くわすのである。

 つまり、「青表紙原本」(縦長四半本「源氏物語」)以前に、既に「定家本」系統の本文が存在していたということである。

 そしてまた、「青表紙原本」(5帖)にける訂正本文が、以降の全ての「青表紙本」に継承されているのでもないことも分かる。
 すなわち、一部の「青表紙本」(東海大学蔵・明融臨模本や大島本等)にしか継承されていないのである。その意味での「青表紙原本」でしかないことが分かる。

 したがって、「縦長四半本「源氏物語」」(青表紙原本)は、決して「定家本」の淵源本ではない。むしろ、定家による「定家本」生成過程の中では最終的な方に位置づけられるような本文である。

 以下、本稿では、「青表紙原本」における本文訂正跡から、そのことを検証していきたい。

  一 石田穣二・阿部秋生――「青表紙原本」無校訂本説

 かつて、石田穣二氏は尊経閣文庫所蔵の青表紙原本「柏木」に関して、その本文訂正跡について、およそ50箇所ほどの訂正跡を検証して、「これらの訂正は、書本以外の他本による訂正ではなく、書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したものと認められる。(略)ある一本に忠実な書写と考えられる」(注1)と指摘された。

 次いで、阿部秋生氏もまた「青表紙原本とは、書本を尊重し、これを忠実に書写した伝本で、定家が他の諸本の本文と比校して、書本の本文を改訂して作った伝本ではない」と言い、それは定家が諸本の中からその見識によって選び出した「一本」で、それは「平安時代書写の伝本の系統の諸本を別本第一類、古伝本系別本と称するならば、青表紙原本の書本はその中の一つである」(注2)と、さらに一歩進められた。

 この考え方は近年多くの本文研究者に支持されているように思う。そして青表紙原本「柏木」についてのこの言説が、青表紙原本全体についても同様に考えられているようだ。

 ところで、上記の石田・阿部の両氏の説は、「花散里」と「柏木」の複製本(注3)時代の説であったが、今や、「行幸」「早蕨」の複製本(注4)が原寸カラー版で公刊され、さらに新出の「若紫」の複製本(注5)が同様に原寸カラー版で公刊されている。
 よって、改めて青表紙原本(5帖)について、検証してみる必要があろう。

 結論から言えば、青表紙原本(5帖)においても、大体において「書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したもの」ということは言えそうだが、しかしまったくそうとも言い切れないような本文の訂正跡もあるのである。それらに関しては検証してみる必要があろう。

  二 青表紙原本(5帖)の本文訂正跡

 本文の訂正跡の筆跡鑑定は、本文の筆跡鑑定以上に、さらに困難なことである。
 しかし、だからと言って手を拱いているばかりでは先に進まない。

 そこで、主観に基づくが、第1に、本行本文の墨色、筆跡の印象を基に、その本文と一筆と目される書写時中の訂正跡を、書写者自身による訂正跡と認める。あるいは、見直しの際の訂正も有るかもしれないが、それは少し印象の異なったものとして見られよう。
 一方、第2に、墨色、筆跡が本行本文の文字とは異なり、いかにも定家筆らしい筆癖の訂正跡を定家筆と認める。
 そして、第3に、いずれとも判じ難い訂正跡、あるいはさらに別人の筆かとも思れるような訂正跡をその他として、3区分してみよう。
 精確ではないにせよ、これによって、ある程度の傾向は掴めよう。

 私見によれば、青表紙原本の「若紫」には25箇所(26例)、「花散里」では2箇所、「行幸」では57箇所、「柏木」では65箇所(66例)、「早蕨」では26箇所の本文訂正跡が認められる。

 それらについて、書写者自身による訂正跡(書)、定家による訂正跡(定)、いずれとも判じ難い訂正跡(他)とすると、およそ以下の表のようになる。

青表紙原本「源氏物語」(5帖)の本文訂正の種類と訂正数
(書:書写者 定:定家 他:不明)

 訂正方法  記号   若 紫
書 定 他
 花 散 里
書 定 他 
 行 幸
書 定 他
 柏 木
書 定 他
 早 蕨
書 定 他
 補入符号ナシ  + 14    1   2   1  4  15  1   2   3    1
 補入符号あり  +       1     3      1        1   5
 併記  =            1         1  
 ミセケチ削除  $       2        1   1      2   5        2
 ミセケチ訂正  $          1     1   1   1
 墨滅削除  #       2         1  
 墨滅訂正  #                  1  
 直接重書訂正  &     4     1     32   1 12  
 擦消重書訂正  &   3    10  22  14
    計    17  4  5   1  1  0  15 35  7  38 17 11  23  0  3

 旧稿では、書写者と定家とのいずれとも判じ難いものという分類を設けず、そのいずれかに分類していたが、その内実は主に書写者の訂正の中にほとんど含めていたものである。
 本稿では改めて分離させた(「行幸」書22→書15・他7、「早蕨」書26→書23・他3)、「柏木」ではさらに3箇所の訂正跡を加えた(書50・定13→書38・定17・他11)。

 「若紫」では、25箇所(26例、うち1箇所に複数の訂正跡あり)中、その多くは書写者自身による訂正17例で、そのうちの14例は補入符号ナシの補入14例、残り3例は元の文字を擦り消した上に訂正したもの3例である。
 それに対して、定家の訂正と見られるものはわずか4例である。いずれも、元の文字の上に直接重ね書きした訂正である。
 そして、本文書写者、定家のいずれとも判じ難いのが5例で、ミセケチして削除2、墨滅して削除2、補入符号有りの補入1である。
 
 「花散里」では、2箇所中、書写者自身による訂正1例は、補入符号ナシの補入である。『大成校異篇』ではこのことを掲出していない。
 定家筆による訂正1例は、直接重ね書きした訂正である。

 「行幸」では、57箇所中、書写者自身による訂正跡15箇所。元の文字を擦り消してその上に訂正したもの10例、残りは補入符号ナシの補入2例と補入符号有りの補入3例である。
 それ対して、定家による訂正跡35箇所で、書写者による訂正の倍以上あるが、最も多いのは元の文字の上に直接重ね書きした訂正で32例、残りは補入符号なしの補入1、ミセケチして削除1、ミセケチして訂正1である。
 いずれとも判じ難いもの7箇所で、補入符号ナシの補入4、補入符号有りの補入1、併記1、ミセケチして削除1である。
 
 「柏木」は、定家親筆と別人筆の寄合書の巻である。その定家親筆部には定家自身による訂正跡が1箇所ある。すなわち、元の文字の上に直接重ね書き訂正したもの1例である。
 全65箇所(66例、うち1箇所に複数の訂正跡あり)中、別人書写者自身による訂正跡と見られるもの38例で、元の文字を擦り消した上に訂正したもの22、補入符号ナシの補入15、元の文字の上に直接重ね書きをしたもの1例である。
 それに対して、定家による訂正跡と見られるもの17例である。うち1例は、定家書写部(1オ1~11ウ6)中の定家自身による訂正である。元の文字の上に重ね書き訂正したもの12、ミセケチして削除2、ミセケチして訂正したもの1、墨滅して削除1、補入符号ナシの補入1である。
 そして、いずれとも判じ難いもの11例で、ミセケチして削除5、ミセケチして訂正1、補入符号ナシ1と補入符号有り2の計3補入、併記1、墨滅して訂正1である。

 「早蕨」では、26箇所中、書写者自身による訂正23例で、元の文字を擦り消したうえに訂正したもの14、補入符号有りの補入が5、補入符号ナシの補入が3、そしてミセケチして訂正したもの1である。
 なお、はっきりと定家による訂正と見られるような筆跡は無いようである。
 いずれとも判じ難いものが3例である。すなわち、ミセケチして削除2、補入符号ナシの補入1である。

 別人書写者によると見られる訂正跡と定家によると見られる訂正跡を概観すると、

 第1に、誤写の訂正の仕方、すなわち擦消重書訂正と直接重書訂正に見られるように、別人書写者たちは元の本文を擦り消した上に訂正するという丁寧な訂正態度であるのに対して、定家は元の文字の上に直接重ね書きして訂正るいは字形修正をするという仕方である。
 これは協同者と主宰者との立場の違いによるのであろう。

 第2に、誤脱の訂正、すなわち補入に関して、「若紫」ではそれが多く、「行幸」「柏木」「早蕨」ではそれが減っている。これは書写者たちの性格と学習度を反映していると理解されようか。

 第3に、元の本文をミセケチあるいは墨滅してその傍らに訂正するという全体的少ないということだ。
 そして、その内訳をみると、書写者たちの訂正はほとんどなく(早蕨に1例)、見られるのは定家、ないしはいずれとも判じ難い筆跡である。

 なお、一つの巻の中において、補入方法に、補入符号有りと補入符号ナシの補入があったり、また削除方法に、ミセケチと墨滅があったりするのはどうしてか。それと書写者や定家の訂正方法とどう関係するのかは、現在の時点では未詳。今後の課題としたい。

 以上の訂正跡の傾向から、「青表紙原本」(5帖)における書写者及び定家等の「これらの訂正は、書本以外の他本による訂正ではなく、書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したもの」ということは大体においていえそうだ。
 とはいえ、これだけではまったくそうであるとも言い切れないものがある。

 次に、各巻の訂正内容から検証していこう。

三 青表紙原本(5帖)の本文訂正

 ここでは、単純な誤写の訂正(その訂正がなければ語形や文意が不全)は除き、有意の(訂正が無くても語形や文意が成り立っている箇所)における訂正跡について、『源氏物語大成校異篇』を参照しながら、検証していく。
 なお、「書」は書写者の訂正、「定」は定家の訂正、「他」はいずれとも判じ難い訂正。訂正以前から訂正以後への変更を→で示す。

 (1)「若紫」
 25箇所・26例中、単純な誤写の訂正17例、有意の異文箇所は、次の9例である。
 その有意の異同とは、

①「わすら(ら$)れてるを」(2オ8・大成151⑭) 他:自発の助動詞→削除して普通形へ

 書写者とも定家とも判じ難い筆跡である。
 訂正以前の本文「わすられて」は独自異文である。「ら」をミセケチ削除して「わすれて」と訂正する。

②「いとうれし可るへきおほ勢(+こと)なるを」(15オ9・大成162④)  書:「仰せ」→「仰せ言」

 書写者の筆跡。補入符号ナシ「こと」を補入して「仰せ言」と訂正する。
 河内本に「おほせ」とある。
 書写者が親本の本文を他本(例えば河内本)に拠って改変したか。しかし、そうと考えるよりも、単なる誤脱の補訂したものと考えるのが自然ではなかろうか。

③④「可(+う)やうのつい(い)てなる」(17オ・大成164③) 書:「かやう」→「かうやう」 他:「次いで」→「伝」。

 図示すると、「かやうのついてなる」→「かうやうのつてなる」となるが、それぞれ訂正の筆跡が異なるので、分けて考えねばならない。
 朱筆による削除は本文一筆の訂正よりも後のものであろう。とすると、
 「かやうのついてなる」→「かうやうのついてなる」→「かうやうのつてなる」となる。
 しかし、最初の本文一筆の訂正が単なる誤写の訂正あれば、
 結局、「かやうのついてなる」(親本)→「かうやうのつてなる」(定家本)となる。

 青表紙諸本・河内本に本文の異同がある。整理して示すと、

 a「かうやうのつゐてなる」大
 b「かやうの人つてなる」御
 c「かうやうのつてなる」榊池三
 d「かやうのつてなる」肖
 e「かやうに人つてなる」河(宮尾大鳳)

 a大島本の本文は、青表紙原本の朱筆訂正以前の本文の形と同じである。
 大島本を底本とした最新の校注本『岩波文庫本』では、「「ついでなる御消息」は解しにくい。青表紙他本多く「つてなる」。明融本(実践)・各筆本など「人づてなる」。これらの本文では、取り次を介したやりとりへの不満を示唆する」(注6)と注する。
 この朱筆削除は後世のものであろうか。そのために削除以前の本文が大島本に書承されていると見るべきか。

 b御物本の本文は「人」の語がある点で河内本と同じ。河内本等との混態を疑うべきか。

 c榊原家本・池田本等の本文は青表紙本原本と同形。よってその訂正本文が書承されている形と考えられる。

 d肖柏本に「かやう」とある。しかし、後世の写本であるから措いておこう。

⑤「可(+う)やうのともハ」(23オ9・168④) 書:「かやう」→「かうやう」 ③と同例。

 肖柏本に④dと同様に「かやう」とある。しかし、同じく措いておこう。

⑥「ひとつきさき者らなれハ(+尓)やなと」(28オ5・171⑪) 書:ナシ→断定助動詞を追加
⑦「そうつの可へりことのみ(+あり)」(40オ5) 他:ナシ→動詞を追加
⑧「き多まへ(まへ$)るのお者する」(42ウ4) 他:尊敬→削除して普通形へ
⑨「や者ら可なるなむよき(+な)と」(57オ2) 書:「と」→「など」

 ⑥⑦⑧⑨の訂正以前の本文はいずれも独自異文である。

 以上、「若紫」9か所の訂正箇所に関して、『大成校異篇』収録本に同形の本文があるのは、上に検討した②③④⑤である。他はすべて独自異文である。有意の独自異文ではあっても、あるいは書写者の誤脱や誤写の可能性が高い。

 就中、④の大島本「つゐて」の位置が注目される。広義の定家本系統の中で、大島本が青表紙原本の朱筆訂正以前の本文と一致し、対して榊原家本や池田本等は青表紙原本の朱筆訂正以後の本文と一致しているという関係である。

 以下、訂正以前の本文の形が、『大成校異篇』に見られない有意の独自異文については略して考察していこう。
 
 (2)「花散里」

 「花散里」2例中、有意の訂正跡は次の1例である。他の1例は同じ文字の重ね書き修正である。

 ①「ことな(+め)れと」(2オ8・大成387①) 書:「なれど」→「なめれど」 断定から婉曲推量へ

 河内本に「なれど」とある。既に考察した「若紫」②と同様に、書写者が他本に従って補入したと考えるよりも単なる脱字を補入したものと理解する。

 (3)「行幸」


 「行幸」の筆跡は、他の青表紙原本の定家別人筆とは異なった、独特の他筆である。玉上琢弥氏はこれを「家中の小女」(注7)と述べているが、しかしそれは、枡形六半本型「源氏物語」を書写した人たちのことである。
 57箇所中、その多くは、文字を明確にした字形の修正と単純な誤写の訂正で、有意の訂正ではあっても、その訂正以前の本文が独自異文であるような、単なる誤写の訂正であろうと推測されるものを除くと、検討に値する有意の異文箇所は、わずか3例である。

 ①「多ゝいさゝ可徒ゝ(+うち)ちりて」(2オ8・大成885⑬) 他:「散りて」→「うち散りて」

 書写者とも定家とも断じ難い筆跡による補入跡である。接頭語「うち」を補入している。
 『大成校異篇』によって、この箇所の本文異同を、青表紙原本(定)を軸に、その訂正以前の本文―本文訂正跡―訂正以後の本文という順序で並べてみよう。

 「ちりて」池/河・陽保―「(+うち)ちりて」定―「うちちりて」大横御肖三

 接頭語「うち」の無い訂正以前の本文の形の古写本として、青表紙本系の池田本があり、他系では河内本、古伝本系別本とされる陽明文庫本・保坂本等がある。訂正以後の写本としては、青表紙本系の大島本・横山本・御物本・肖柏本・三条西家本がある、ということになる。

 青表紙原本の訂正以前の形の本文として、青表紙本系の池田本があることが注目される。池田本の誤脱ということも考えられるが、以下にも池田本が青表紙原本の訂正以前の形と同じという事例が出て来るので、看過できない。

 ②「お者し(+まし)つきて」(5オ5・大成887⑩) 書:「おはし」→「おはしまし」

 書写者による補入符号有りの補入跡である。「おはす」よりもさらに敬意の高い「おはします」に補入して訂正する。
 前項同様に、掲載すると、次のようになる。

 「おはしつきて」保―「お者し(+まし)つきて」定―「おはしましつきて」大池横御肖三/河・陽

 保坂本は別本である。定家本の訂正跡は書写者自身の筆のようであるから、書写者が他本(例えば、別本保坂本のような本文)に拠って訂正したと考えるよりも、単なる誤脱の訂正と理解するのが自然であろう。

 ③「のひ万(そら&ひ万)なく」(9オ4・大成890⑥) 定:「心の空」→「心の隙」

 この訂正は単なる訂正ではない。校訂というに値する訂正である。
 この直接重ね書き訂正は、いかにも定家らしい、線太の訂正跡である。玉上琢弥氏も「関戸本は「そら」と書いた上に筆太に(定家か)「ひま」とかく」(注8)と注記している。幸いに訂正以前の元の文字が判読できる。

 定家は「そら」の上に直接「ひま」と重ね書きして、「心のそら」を「心のひま」と訂正したのである。
 『大成校異篇』によって、この箇所の本文異同を上掲同様に示すと、

 「そらなく」横池肖/河・陽―「ひ万(そら&ひ万)なく」定―「ひまなく」御大/麦―「そらもなく」保―「うらなく」三

 書写者は「心のそらなく」と書写した。それを定家は「心のひまなく」と訂正した。これ以降の青表紙本、すなわち御物本・大島本の本文はその訂正本文に従っている。
 しかし、青表紙本系の横山本や池田本等の本文は定家の訂正以前の本文の形と同じであることが注目される。
 
 岡嶌偉久子氏は、「行幸」巻の池田本について、まず定家本(青表紙原本)と大島本そして池田本との本文が表記の相違はあるものの非常に近い関係にありながらも、時に定家本・大島本グループと池田本とが対立する箇所があることを指摘し、「2~5の例(略―渋谷注)はすべて定家本(文化庁保管)と大島本とが一致、対立する本文として池田本と横山本とがすべて一致、時にそれを三条西家本(日大本)等の少数の定家本伝本が支持する、といった構図である。当巻中の一、二文字単位の小異についてもほぼ同様の傾向である」と同様のことを述べて、池田本の本文について「書写時の混入とは思えない」「池田本の親本にはあったもの」(注9)と述べている。

 ①に続いて、再び池田本の本文が横山本と共に、青表紙原本の定家の訂正以前の本文の形と一致していることが注目される。

 以上、青表紙原本「行幸」の原寸カラー写真版の公刊によって、新たな知見を得た。

 すなわち、第1に、③の事例から、青表紙原本において、定家の本文校訂の跡が確認できることだ。したがって、「書本を尊重し、これを忠実に書写した伝本で、定家が他の諸本の本文と比校して、書本の本文を改訂して作った伝本ではない」とは言えないことになる。

 第2に、青表紙本系諸本の鎌倉期写本の中には、池田本や横山本等のように青表紙原本の訂正以前の形の本文と一致した写本が見られることだ。
 つまり、青表紙原本の訂正跡は以降のすべての定家本に継承されているのではなく、一部の定家本系統にしか継承されていないということだ。
 その意味で、青表紙原本は一部の青表紙本の原本ではあっても、定家本系統全体の祖本ではなく、青表紙原本に先立つ定家本系統の本が既に存在していたということだ。
 
 (4)「柏木」

 池田亀鑑氏は『大成校異篇』(注10)の「青表紙本」の中に、定家本の本文異同(訂正跡)として51箇所を掲載している。石田穣二氏は「原本には、書写に際しての訂正が五十箇所ほど数えられる」(注11)と述べている。太田晶二郎氏は、さらに13箇所を指摘している(注12)。
 私見によれば、65箇所・66例を数える。

 その訂正が無ければ、語や文意が不自然な訂正跡は除き、訂正が無くても語や文意が通じる有意の箇所における訂正の中で、その訂正以前の本文が独自異文であるようなものは除くと、他本と共通本文を有するような箇所における検討に値する箇所は、次の3例である。

 ①「いそき多つ心ちの(の#)し者へる」(27ウ5・大成1246②) 定:「ここちの」→「ここち」

 池田亀鑑氏は、この箇所を「大成校異篇」に採り上げていない。しかし太田晶二郎氏が「いそきたつ心ちノ次「の」ヲ消シテアル(大成、此ノコトヲ言ハズ)」(注13)と指摘するように、見た目にも明らかないかにも定家の所為らしい太い墨筆によって削除した跡がある。そして、幸いにも元の文字「の」が読める箇所である。

 ところで、この箇所、『大成校異篇』によれば、青表紙諸本に異同があり、今それを青表紙原本(定)の訂正跡を軸に訂正以前と訂正以後の諸本の流れを見ると、次のようになる。

 「こゝちの」横榊陽肖三―「ちの(の#)」定―「心ち」大

 つまり、青表紙原本における定家の訂正は大島本のみに継承されているが、他の青表紙本は訂正以前の本文の形なのである。
 このことは、横山本等の鎌倉期写本は青表紙原本から派生したと仮定しても、それは定家が青表紙原本に本文訂正の筆を入れる以前の段階の本文を書写したもの、あるいはまた、青表紙原本の親本から派生した本文である、ということを考えさせる。

 ②「佐す可(+尓&尓)いとあ者れなり可し」(31オ8・大成1249⑤) 書・定:「さすか」→「さすかに」

 太田晶二郎氏は「さすかいとノ「か」ト「い」トノ間ノ右傍、蠧蝕ニ罹ツテヰルガ、「に」(字原、尓)ヲ補入シタモノデアル」(注14)と指摘する。書写者の補入文字「尓」の上に定家がなぞって「尓」と修正した跡である。
 『大成校異篇』によって、青表紙本の本文異同を、同様に並べてみよう。

 「さすか」大―「佐す可(+尓)」定―「さすかに」横榊陽肖三/河・御保麦阿―ナシ国

 柏木①の事例と逆の関係になった。
 大島本は独自異文であるため、単純な誤写であろうと考えられる。

 ③「世のおほえも(+つ可さ)くらゐも」(44ウ9・大成1260⑫) 書:「くらゐ」→「つかさくらゐ」

 自立語の名詞「つかさ」の語の補入であるから、その有意の意味は大きい。
 しかし、この補入「つかさ」は、本文と同筆(本文書写者)の筆跡と見られる。
 とすると、書写者が勝手に補入したとは考え難いというのが、これまでの論理である。
 やはり、書写者の誤脱補入か。『大成校異篇』を見ると、

 「くらゐ」陽/河・御保国麦阿―「(+つかさ)くらゐ」定―「つかさくらゐ」大横榊肖三

 「柏木」巻の陽明文庫本は、青表紙本である。陽明文庫本の単純な誤脱あるいは他本との接触による改変と考えることもできるが、河内本をはじめとする別本すべてが「つかさ」の無い本文であることが気にかかる。

 池田利夫氏は、陽明文庫本「柏木」の本文について、青表紙本の中でも孤立していることを指摘する一方で、また横山本とも親近性をもつことをも数値をもって言及しているが(注15)、その事例の中に、「くものけしき」(45オ4・大成1260⑭)の箇所を挙げている。
 そこでは、陽明文庫本と横山本の訂正以前の本文の形が共通本文で、これに古伝本系別本の国冬本もそれらと同文であるという箇所である。上記と同様に整理して示すと、

  「そらのけしき」陽/国―「そら(そら$くも)のけいき」横―「くものけしき」定榊大肖三/河・御保麦阿

 となる。つまり、青表紙原本の本文以前に原本の本文と同じ形に訂正した青表紙本(横山本)とその訂正以前の青表紙本(陽明文庫本)とが、既に存在していたということだ。これは矛盾である。青表紙原本の本文が生れる以前に、それとは違った本文からその本文が生れていたことを示す事例である。

 横山本の本文訂正(校訂)跡の事例は、あるいは青表紙原本における書写者一筆の本文訂正跡というもの中には、実は、書き本における本文訂正跡をそのままの形で書写していたものであったのではないかということをも、考えさせるのではないか。

 以上、青表紙原本「柏木」は定家親筆と別人筆による寄合書ではあるが、①は明らかな定家筆の訂正跡である。②は書写者の訂正跡の上に定家がなぞって字形を修正したものである。③は書写者筆と目される訂正跡である。

 青表紙原本における①と③の訂正跡は、①では大島本に、また③では横山本、榊原家本、大島本等にその訂正が継承されている。
 このことは、訂正というようりも校訂という名に値するものと言えよう。
 また、その一方で、青表紙原本の訂正以前の本文の形が、①では横山本・榊原家本・陽明文庫本等に、また③では陽明文庫本に見られるということは看過できない。

 (5)「早蕨」(26箇所)

 「早蕨」は、26箇所中、その多くは単純な誤写の訂正や文字の修正である。有意の訂正であっても、その訂正以前の本文が独自異文であるようなものは除くと、検討に値する有意の異文箇所は、次の2例である。

①「可多ら(+者)むと」(3ウ9・大成1679④) 書:「かたらむ」→「かたらはむ」
 
 本文と一筆と見られる筆で、「語らはむ」と「は」を補入している。その訂正以前の本文と訂正以後の本文が青表紙本は次のように分かれる。

 「かたらん」御横池/七・保麦阿―「可多ら(+者)むと」定―「かたらはむ」大肖三/宮尾為大鳳・陽平

 青表紙原本の訂正以前の本文の形が、御物本や横山本、池田本等と同文で、その訂正後の本文が大島本や・肖柏本・三条西家本と同文ということである。
 
②「堂い(+ふ)のといふ」(16ウ5・大成1689⑥) 他:「たいの君」→「たいふの君」
 
 藤本孝一氏は「「いの」の間に青墨で「」を付けて「ふ」を補入する」(注16)と指摘する。「青墨」というように、他の訂正跡とは異なった独特のものである。その筆跡は定家ともまた書写者とも言い難く、第三者といえばそうともいえそうな補入文字である。もし、この青墨の補入が後人のものであれば、どういうことになろうか。その時点によっては、のちの青表紙本系統には影響を与えないものとなろうが、大島本と肖柏本には継承されている。
 
 「たいのきみ」横池三/鳳尾―「堂い(+ふ)の」定―「たいふの君」大肖/為・陽平麦阿―「大貳君」御/七宮大・保

 宇治の中君付きの女房名である。青表紙本系に、「対の君」(横池三)、「大輔の君」(定大肖)、「大弐の君」(御)の三様が見られるが、他の巻でも「大輔の君」(宿木)、「大輔」(宿木・東屋・浮舟)、「大輔の御」(浮舟)と見える人物であるので、「大輔の君」が適切である(注17)

 以上、①は書写者筆と目される訂正跡、②は定家とも第三者とも考えられる訂正跡である。
 その訂正跡が、①②共に大島本等に継承されている。
 これらも本文の校訂と考えるべきではないか。
 また、その訂正以前の本文の形が、①②共に横山本、池田本等に見られることは、「行幸」「柏木」同様に重大であろう。
 
  まとめ

 以上、青表紙原本(5帖)における本文訂正跡について見てきた。その結果、まとめると、

 ①青表紙原本における本文訂正跡は、石田穣二氏が指摘したように、そのほとんどが「書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したもの」ではあるものの、わずかではあるが、定家が本文を校訂したと考えられる事例も存在すること。
 よって、必ずしも「ある一本に忠実な書写」とは言えないこと。

 ②いわゆる「青表紙本」といわれる古写本の中には、青表紙原本における訂正以前の形の本文をもった本が存在していること(たとえば、鎌倉期写の御物本・横山本・池田本等)。

 ③となると、阿部秋生氏の「書本を尊重し、これを忠実に書写した伝本で、定家が他の諸本の本文と比校して、書本の本文を改訂して作った伝本ではない」「平安時代書写の伝本の系統の諸本を別本第一類、古伝本系別本と称するならば、青表紙原本の書本はその中の一つである」という指摘も再考されよう。
 すなわち、そう想定するよりも、定家の手許にあった「自筆本奥入」付載の枡形六半本「源氏物語」、ないしはそれを土台にしてさらに校訂の手を加えた手稿本を想定するほうが自然ではないか。
 つまり、青表紙原本の親本は、定家の校訂の跡の入った手稿本ではないか、と。
 そして青表紙原本はそれを整理した浄書本ではないか、と。
 
 ④定家の筆跡による本文の校訂なら分かるが、別人書写者の訂正跡の中にも本文の校訂ではないかと考えられるものが存在していること。
 また「行幸」では書写者とも定家筆とも判じ難い筆跡であるが、「こらう」の右に「古老」と振り漢字があり、「ら」の左傍に「ら」と傍記した事例がある。なお、「柏木」の併記は後に擦り消されているので、厳密には、補入であったものか未詳。
 本文書写者たちは誤写の訂正はしているが、本文の変更に関するような校訂はしていないとしたら、これらをどう考えたらよいものか。
 私は、親本(定家の書き入れ)がそのようになっていたのをそのままの様態で書写したものではないか、と想像しているが、どうであろうか。
 補入の際の補入符号有りとナシ、訂正の際のミセケチと墨滅の混在など、なお検討しなければならない問題が残されている。
 もし、それが言えるならば、いわゆる「青表紙本」(広義の「定家本」系諸本)の中にも、定家の校訂の手の加わった手稿本の一部の様態をそのままの形に書写している本もあるのではないかと想像される。
 たとえば、「柏木」の横山本のような事例である。
 鎌倉期書写の「青表紙本」(広義の「定家本」系諸本)諸本の本文関係が錯綜しているのは、あるいは定家の手許にあった「自筆本奥入」付載の枡形六半本「源氏物語」、ないしはそれを土台にしてさらに校訂の手を加えた手稿本を、後人が思い思いにその書き入れを採用して書写していったからではなかろうか、と私は推測する。

  

(1)石田穣二『柏木(源氏物語)』(「校訂私言」52頁 桜楓社 昭和34年初版、63年4月重版)
(2)阿部秋生『源氏物語の本文』(「別本の本文」107~108頁 岩波書店 1986年6月)
(3)太田晶二郎『古典籍覆製叢刊 源氏物語(青表紙本)』(前田育徳会尊経閣文庫 昭和53年11月)
(4)藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』(八木書店 2018年1月)
(5)藤本孝一『定家本源氏物語 若紫』(八木書店 2020年3月)
(6)藤井貞和・陣野英則他『源氏物語一』(岩波文庫 403頁 2017年7月)
(7)玉上琢弥『源氏物語評釈 第6巻』(19頁 角川書店 昭和41年6月)
(8)玉上琢弥、注7同書46頁。
(9)岡嶌偉久子『源氏物語 池田本』(第5冊「解題」14頁 八木書店 2017年4月)
(10)池田亀鑑『校異源氏物語』(中央公論社 昭和17年10月)、同『源氏物語大成校異篇』(中央公論社 昭和31年1月)
(11)石田穣二、注1同書、52頁。
(12)太田晶二郎、注3同書4~23頁。
(13)太田晶二郎、注3同書12頁。
(14)太田晶二郎、注3同書14頁。
(15)池田利夫『源氏物語十』(陽明叢書「翻刻・解題」91頁 思文閣 昭和56年6月)。
(16)藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』(「解題」9頁 八木書店 2018年1月)
(17)『源氏物語事典下』(稲賀敬二「作中人物解説」362頁 東京堂出版 昭和35年3月)