六 本文訂正跡(2019・6・5訂正版)

  はじめに

 青表紙原本「源氏物語」(4帖)の本文訂正跡といえば、即ち藤原定家の本文の校訂の跡と思ってしまいそうだが、実はそうではない。

 青表紙原本における本文の訂正跡には、本文書写者(定家とは別人筆)による訂正跡と監修者である定家による訂正跡とがあるのである。

 そして、原本の本文訂正跡ならば、その後の全ての青表紙本の本文に影響を与えているものであろうと考えるが、これも実はそうではない。

 青表紙原本の本文訂正跡が影響を与えているのは一部の青表紙本のみであって、鎌倉期の青表紙本の古写本の中にはその訂正以前の本文の形が見られるのである。

 かつて石田穣二氏が「柏木」の本文訂正跡について、およそ50箇所ほどの訂正跡を検証して、「これらの訂正は、書本以外の他本による訂正ではなく、書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したものと認められる。(略)ある一本に忠実な書写と考えられる」(注1)と指摘された。
 そして、阿部秋生氏も「青表紙原本とは、書本を尊重し、これを忠実に書写した伝本で、定家が他の諸本の本文と比校して、書本の本文を改訂して作った伝本ではない」と言い、それは定家が諸本の中からその見識によって選び出した「一本」で、それは「平安時代書写の伝本の系統の諸本を別本第一類、古伝本系別本と称するならば、青表紙原本の書本はその中の一つである」(注2)とされた。

 この考え方は近年多くの本文研究者に支持されているように思う。そして青表紙原本「柏木」についてのこの言説が、青表紙原本全体についても当てはまるように考えられているようだ。

 しかし、この青表紙原本(4帖)において、定家はまったく本文の改訂をしていないのだろうか。そこにある本文訂正の跡はすべて書写時の単純な誤謬の訂正だけなのであろうか。
 そしてまた、青表紙本原本の親本は平安時代書写の流れをくむ伝本の一本であったろうか。
 青表紙原本(4帖)における本文訂正跡を詳細に見ていくと、さまざまな疑念が生じて来るのである。

 そもそも、この「青表紙原本」(縦長四半本「源氏物語」)が作成される(「柏木」の定家筆部の筆跡は晩年の筆跡である)以前に、すでに「自筆本奥入」付載「源氏物語」(枡形六半本「源氏物語」)が作成されていた(「自筆本奥入」中の源氏釈からの引用部分の筆跡は、青表紙原本「柏木」の定家筆部よりも以前の筆跡である)のであれば、その本を措いて、どこに新たに他本を求める必要性が存在するのだろうか(「奥入」を切り離す前までは存在していたし、また切り離したことによって、物語本体部を失ったとはとても想像しがたい)。

 逆に又、枡形六半本「源氏物語」が作成される以前に、この縦長四半本「源氏物語」が作成されていたのであれば、どうして「家中の小女」をして、再び枡形六半本「源氏物語」が作成される必要性が生じようか。繰り返し言うが、青表紙原本「柏木」の定家筆跡は晩年のものである。そして「自筆本奥入」に記されている「伊行朝臣勘」部の筆跡はきちんと整った字体で書記されていて、決して晩年のものではない。いわんやその物語本体部の作成時期においてをやである。

 そして、その先行して作成された「自筆本奥入」付載の「源氏物語」巻尾本文には、現に定家の筆による本文の変更に関わる訂正跡が存在しているではないか(第1章第1節「定家自筆本『奥入』所載「源氏物語」(枡形六半本)の末尾本文と抄出本文」参照)。

 かつまた一方で、定家自身、彼の日記「明月記」の嘉禄2年(1227)10月13日条の記事の中で、「日来給置源氏二部、返上于室町殿<以家本粗見合、/用捨其詞>」(注3)とあるように、同じく2年半前の嘉禄元年(1225)2月16日記事にある「家中小女等」をして作成した「源氏物語」に室町殿(道家)から借り受けていた「源氏二部」を「粗見合」せて「用捨其詞」と校合をしたことを言っているではないか。

 したがって、定家が「源氏物語」の本文についてまったく手を加えていない、と考えるのは間違いである。

 要するに、縦長四半本「源氏物語」(青表紙原本)は、枡形六半本「源氏物語」の浄書本なのである。そして、その浄書本の上にも、定家はさらに又、本文内容及び仮名遣い、表記等の変更を加えているのである。

 定家監督の下に作製される「家本」また「証本」の制作において、主人の定家以外の人物が本文内容の変更に関わるような校訂をするというのは難しいのではないか。
 その一方でまた、定家以外の本文一筆の本文の変更に関わるような内容の訂正跡が存在することも事実である。しかしそれは、実は、親本の定家の本文訂正跡をそのままの形で書写したものではないか、と考えると落ち着くのではなかろうか。
 青表紙原本の作成主であり監修者である定家とその協同書写者の立場や役割を考えれば、そう考えるのが自然でありまた当然なところではなかろうか。

 ところで、言うまでもないことだが、その訂正跡が定家とは別人の書写者筆か、それとも定家筆の筆跡であるかを見極めるのは至難のわざである。そこで、文字の筆線の太さ、同様の他例との比較、書写者と定家のそれぞれの書き癖等から私なりの判断を下した。複製本からの判読なので、限界もあるが、これによって、おおよその特徴は掴めるものと信じる。

 さて、青表紙原本(4帖)における本文の訂正方法は、大きく3つの型と、さらに5つの方法、9つの内容に分類される。すなわち、

 T型:本行本文の文字には係らず、行間に訂正する(1)補入(補入符号ナシ・補入符号あり)と(2)併記
 U型:本行本文の文字を抹消する、あるいは、さらに行傍に訂正する(3)ミセケチ(ミセケチ・ミセケチ訂正)と(4)墨滅(墨滅・墨滅訂正)
 V型:本行本文の文字上に重ねて訂正する(5)重ね書き訂正(直接重ね書き訂正・擦り消し上重ね書き訂正)

 なお、(2)併記の中には、例えば「イ」と注記されたような異本校合はない。(3)ミセケチと(4)墨滅の違いは、その抹消した元の文字が読めるように配慮されているか、否か、というやや主観的な判断による。ミセケチの方法には、符合「ヒ」を付けた抹消方法は見られない。(5)重ね書き訂正には、胡粉や水消し等による抹消方法は見られない。

 定家別人の書写者自身による訂正では、第1に、(5)の擦り消し上重ね書き訂正が最も多く多く、きれいで丁寧な本文訂正法で、つとめて親本を正確かつ丁寧に書写している姿勢が窺える。協同者としての立場によるか。
 第2に、その誤写(誤字、脱字、衍字等)の傾向から、その書写者の性格(性急、思い込み等)が窺える。

 一方、監修者かつ校訂者としての定家による訂正では、第1に、(5)の直接重ね書きした訂正跡や(3)ミセケチ・(4)墨滅した跡などが、歴然としていて、清書本としてやや汚い印象を遺している。主人としてかつ自分の本であるという意識からか。
 第2に、その、かろうじて判読できる元の文字・字形と訂正後の文字との違いから、本文の変更や仮名遣いの変更、表記の変更等に関する、定家の本文校訂が窺える。

 ところで、その本文訂正が本文の変更に関わる箇所について、その訂正以前の本文と、訂正以後の本文とを、いわゆる青表紙本「源氏物語」(源氏物語大成校異篇)の本文生成の流れの上に捉えたとき、定家本系「源氏物語」全体の中における「青表紙原本」の位置づけと、その性格および問題点が明らかになって来るのである。

 結論から先に述べれば、この「青表紙原本」は青表紙本の中でこそ原本であれ、定家本「源氏物語」全体の中では原本ではない。
 すなわち、「青表紙原本」(4帖)は縦長四半本「源氏物語」系「明融臨模本」(8帖)「大島本」(浮舟欠)の原本ではあるが、一方で、「自筆本奥入」付載「源氏物語」巻尾本文が存在する。
 そして、その本文との関連性が指摘されている鎌倉期写本の「池田本」や「横山本」「御物本」等の本文(注4)は、枡形六半本「源氏物語」系とでも呼ぶべきもので、時に、その本文が青表紙原本の訂正以前本文と同じ形であることがある。
 「自筆本奥入」付載「源氏物語」巻尾本文は、奥入と切り離されて以後も、その本文上には、定家の本文校訂の手が引き続き加えられていったものであろうと、想像される。
 そこで「奥入」と切り離される以前・以後のいつどの時点で書写されたかによって、微妙な本文の相異をもった定家本が誕生し、さらに定家の許から離れていった源氏物語の本文には、その書写者によってさらに改変が為されていったものだろうと考えられ、池田本などもそうしたものの一つではないかと考えられるのである。

 以下、各巻に即して具体的に検証していこう。

 「花散里」(2箇所)

 「花散里」は全文が定家とは別人の筆である。「大成校異篇」には記載されていないが、本文と同筆(書写者自身)による訂正跡と定家の訂正跡の存在が認められる。すなわち、以下の2例である。

(1)本文同筆(書写者自身)による訂正(1箇所)
 
 @「ことな(+め)れと」(1オ2・大成387@)

 「なめれど」(「な」は変体仮名の字形)の「め」を脱して、それを右傍らに補入(補入符号ナシ)したものである。

 書写者の単純な誤脱と考えてみるが、念のため、「大成校異篇」に当って諸本を確認する。

 すると、「大成校異篇」には青表紙諸本、異同ナシ。ただ、河内本に「なれど」とある。

 青表紙原本の親本には河内本と同様に「なれと」とあったのだが、それを青表紙原本において「め」を補入したことによって、以降の青表紙本はすべて「なめれど」の本文となった、と考えることもできよう。
 しかし、そう結論づける前に、少し検討してみよう。
 補入文字「め」の書体は本文書写者のそれである。とすると、定家とは別人の書写者が独自の判断で「め」を補ったとなる。しかし、はたして協同書写者の立場にあってそのようなことができたろうか。それは難しいのではないかと考える。

 やはり「め」は単純に書写者が脱字を補入したものと考えられる。ただ、さらに考えを致せば、あるいは親本にあった補入の形をそのままの形で書承したとも考えられうる。となると、青表紙原本の親本は「なれど」とあったのだが、それを定家が親本において「め」を補入して、「なめれど」と改訂した、よって、それ以降、青表紙本ではすべて「なめれど」となった、というようにも考えられてくるのである。今、それを証明するすべはないが、以下、特にその訂正以前の本文が判読できる有意の語である場合には、他本の在り様を参照しつつ、その訂正跡を慎重に検討していく。

(2)定家による訂正(1箇所)
 
 A「おほさる(る&る)ほとも」(4オ5・大成389H)
 
 「る」の上に「る」を直接重ね書き修正したものである。

 太田晶二郎氏は「さるゝほとノ「る」、初メ他ノ字(モシクハ他ノ字体)ヲ書キカケタト思ハレル線ガ重ナツテヰル」(注5)と指摘するが、私は下の文字を「る」か、と見る。そして、その訂正文字の墨線の太さ、「行幸」に同じような「る」の重ね訂正の事例が頻出して見られること、直接重ね書きした訂正の仕方という点から、この訂正を定家の訂正跡と認めた。

 以上、「花散里」は、小さな巻であり、特に本文訂正跡については言及されることはなかったが、この巻にも本文訂正跡が見られること、そしてこの巻の書写者が定家とは別人であることを確認し、さらにはこの別人が青表紙原本の他の巻の非定家筆の別人とどう関わるか、つまり同一人物かまたは別人か、という問題意識をもって次の巻の考察に移ろう。

二 「行幸」(57箇所)

 「行幸」の筆跡は、他の青表紙原本の定家別人筆とは異なった、独特の他筆である。玉上琢弥氏はこれを「家中の小女」(注6)と述べていたが、「家中の小女等」は、枡形六半本型「源氏物語」を書写した人たちである。
 その本文訂正跡として全57箇所が認められる。すなわち、本文同筆(書写者自身)による訂正跡22箇所と監修者定家による訂正跡35箇所とである。
 書写者自身の訂正跡よりも定家の訂正跡が多いというのは、この「行幸」のみである。

(1)本文同筆(書写者自身)による訂正(22箇所)

 本文同筆(書写者自身)による22箇所の訂正方法は、以下のような4種類である。すなわち、

 a「擦り消した上に重ね書き訂正」(10箇所)
 b「補入」(10箇所 うち、符号ナシ6箇所、符号あり4箇所)
 c「併記」(1箇所)
 d「ミセケチ削除」(1箇所)

 なお、誤字を擦り消した上に重ね書きした訂正が最も多いというのは、他の青表紙原本の定家別人筆とも共通した傾向である。青表紙原本の協同書写者はいずれも丁寧できれいに書写しようとしている態度が窺えるのである。
 「補入」は脱字を補入し、「削除」は衍字を削除した、いずれも書写者自身のうっかりミスを訂正したものと思われるが、しかしなお考えるべきものがある。
 
 以下、その訂正以前の本文が判読できて、しかも有意の語である箇所について採り上げ、青表紙原本の本文の性格について考えていく。
 
 @「多ゝいさゝ可徒ゝ(+うち)ちりて」(2オ8・大成885L)

 接頭語「うち」を補入(補入符号ナシ)したものである。
 書写者が単純な誤脱を補入したものと考えることもできるが、念のため「大成校異篇」によって、この箇所を検すると、訂正以前の本文の形と同じ古写本が存在する。
 訂正以前の本文―本文訂正跡―訂正以後の本文という順序で並べてみよう。

 「ちりて」池/河・陽保―「(+うち)ちりて」定―「うちちりて」大横御肖三

 接頭語「うち」の無い訂正以前の本文の形の古写本として、青表紙本系の池田本があり、他系では河内本、古伝本系別本とされる陽明文庫本・保坂本等がある。訂正以後の写本としては、青表紙本系の大島本・横山本・御物本・肖柏本・三条西家本がある、ということになる。

 ところで、池田本が、なぜ青表紙原本の訂正以前の本文の形で存在しているのか。これは明らかに矛盾ではないか。後に他本との接触によって改変されたとでも見るべきものか。あるいは、他に事由が考えられるか、という問題意識をもって、引き続き見ていこう。

 A「お者し(+まし)つきて」(5オ5・大成887I)

 「おはし」に「まし」を補入し、「おはしまし」としたものである。前項同様に、「大成校異篇」によって諸本を検すると、次のようになる。

 「おはしつきて」保―「お者し(+まし)つきて」定―「おはしましつきて」大池横御肖三/河・陽

 ここでは、書写者が、動詞「まし」あるいは、「おはしまし」の語の一部の脱字、その補入とも見られるが、古伝本系別本の保坂本が「おはし」とある。

 ところで、もし、この「まし」の補入が書写者の誤脱ではなく、この時点で初めて補入されたものであると仮定したら、青表紙本の原本は古伝本系別本の保坂本と同様に「まし」が無かった本文ということになり、この補入によって、以降の青表紙本がすべて「まし」の有る本文になったといえよう。

 しかし、ここは本文一筆の協同書写者の補入跡と見られる訂正跡である。そのような立場にあって、本文を改めるようなことが、はたして出来たであろうか、という疑問が出てくる。では、書写者が親本に存在していた補入跡をそのままの形で書写したものと考えてみたらどうであろうか。しかも、その訂正跡が、親本に定家が加えた補入跡であったらどうであろう。

 次に、本文一筆の書写者の併記について考えてみよう。

 B「こら(=ら)う」(15オ2・893J)

 「ら」の左傍らに「ら」と記した併記である。それが左傍らであるというのには理由がある。実はその右傍らに振り漢字「古老」と記していからである。

 ところで、ここもまた、書写者が独自の判断で振り漢字「古老」と記したり、かつ曖昧な字体「ら」の傍らに「ら」と記しただろうか。

 そのように考えるよりも、ここは親本に存在していた振り漢字と併記をそのままの形で書承したと考えるほうが自然ではなかろうか。
 青表紙原本「行幸」には、もう1箇所の振り漢字「宿徳」(19ウ4)がある。これも、書写者が付け加えたとするよりも、その親本に存在していたものをそのままの形で書写した、と考えるべきものではないか。

 以上、本文一筆の書写者の本文訂正跡には、書写者自身による訂正の他に、実は親本の訂正跡をそのままの形で書写しているものがあるのではないか、ということを指摘しておきたい。

 (2)定家による訂正(35箇所)

 @「のひ万(そら&ひ万)なく」(9オ4・大成890E)

 この直接重ね書き訂正は、いかにも定家らしい、線太の訂正跡である。幸いに訂正以前の元の文字が判読できる。
 定家は「そら」の上に直接「ひま」と重ね書きして、「心のそら」を「心のひま」と訂正したのである。
 「大成校異篇」によれば、この箇所、諸本によって以下のような異文がある。

 「そらなく」横池肖/河・陽―「ひ万(そら&ひ万)なく」定―「ひまなく」御大/麦―「そらもなく」保―「うらなく」三

 書写者は「心のそらなく」と書写したのだ。しかし、それは文字からしてけっして見間違いによるような誤写ではなかろう。青表紙原本の親本には「心のそらなく」とあったのを忠実に書写したものであろうと考えられる。
 それを定家はこの青表紙原本において初めて、「心のひまなく」と訂正したのである。したがって、この青表紙原本以降の青表紙本、すなわち御物本・大島本の本文はその訂正本文に従っている。
 ところが、横山本や池田本等は河内本や古伝本系別本の陽明文庫本同様の、定家の訂正以前の本文の形である。
 そこで、この矛盾を、後世に河内本や別本等との接触によって改変された本文であると見做せようか。
 そのように考えるよりも、この青表紙原本の訂正に従っていない複数の青表紙本、すなわち横山本や池田本等は定家の訂正以前の青表紙原本、あるいは青表紙原本の親本であった本文を書写しているからであると考えるほうがむしろ自然であろう(三条西家本の「うらなく」の「う」は「そ」(変体仮名「そ」の逆湾曲の字形)の誤写)。

 岡嶌偉久子氏は、「行幸」巻の池田本について、まず定家本(青表紙原本)と大島本そして池田本との本文が表記の相違はあるものの非常に近い関係にありながらも、時に定家本・大島本グループと池田本とが対立する箇所があることを指摘し、「2〜5の例(略―渋谷注)はすべて定家本(文化庁保管)と大島本とが一致、対立する本文として池田本と横山本とがすべて一致、時にそれを三条西家本(日大本)等の少数の定家本伝本が支持する、といった構図である。当巻中の一、二文字単位の小異についてもほぼ同様の傾向である」と同様のことを述べて、池田本の本文について「書写時の混入とは思えない」「池田本の親本にはあったもの」(注7)と述べている。

 つまり、いわゆる青表紙本の中には、青表紙原本における定家による本文訂正に拠っている青表紙本とそれには拠ってはいない青表紙本とがあることを確認しておきたい。
 そして、その原本に拠っていない青表紙本となれば、もはや青表紙本と呼ぶのは正しくない。原青表紙本とでも仮称すべきであろうことを付言しておきたい。

 次に、定家の表記の訂正または修正に関する本文訂正跡について見ておきたい。

A「き/き(者&)へり(へり$)てこゝ(ゝ&ゝ)尓さへ(へ&へ)なむ可す免やう」(13ウ2・大成892K)
 
 定家の訂正は、「はへり」の「は」の上に直接「侍」と漢字表記し、「へり」をミセケチ削除し、さらに踊り字「ゝ」と「へ」の文字をはっきりさせるために、同じくそれらの文字の上になぞって重ね書き修正したものである。

 次に、定家は不明瞭な文字の字形については、それをなぞって重ね書き修正している。
 定家の本文訂正跡は、それが大多数である。特に、「行幸」では、

 「る」の修正(16箇所)
 「へ」の修正(5箇所)

 等の2文字の修正が顕著である。

三 「柏木」(63箇所)

 池田亀鑑氏は「大成校異篇」(注8)の青表紙本の中に、定家本の本文異同として51箇所を掲載している。石田穣二氏は「原本には、書写に際しての訂正が五十箇所ほど数えられる」(注9)と述べている。太田晶二郎氏は、さらに13箇所を指摘している(注10)。

 ところで、青表紙原本「柏木」は、定家親筆部(1オ1〜11ウ5)と非定家筆部(11ウ6〜50ウ2)の寄合書である。
 その定家親筆部に定家自身による訂正跡が1箇所ある。
 一方、非定家筆部には62箇所の訂正跡が認められるが、その書写者自身による訂正跡48箇所と監修者定家による訂正跡14箇所である。

(T)定家親筆部(1オ1〜11ウ5)1箇所

 定家親筆部における定家の訂正跡は、「直接重ね書き訂正」1箇所である。すなわち、

@「う多可ひ万し里堂(□&堂)る尓/て者」(11オ6・大成1234A)
 
 太田晶二郎氏は「ましりたるノ「た」、書キ僻メタト見エ、上部、字形ガ紊レテヰル」(注11)と注している。
 元の文字不明、あるいは書き掛けた途中で書き改めたものか。いずれにせよ、変更が加わった文字のようである。元の文字が判読不能のため今は措く。

(U)非定家筆部(11ウ6〜50ウ2)62箇所

(1)本文同筆(書写者自身)による訂正(50箇所)

 さて、その大多数を占める非定家筆部における書写者自身の筆による48箇所の訂正方法は、以下のような6種類である。

 a「擦り消し重ね書き訂正」(21箇所)
 b「補入」(符号ナシ)(17箇所)
 c「ミセケチ」(6箇所)
 d「直接重ね書き訂正」(3箇所)
 e「ミセケチ訂正」(2箇所)
 f「墨滅訂正」(1箇所)

 この巻の書写者も、書写中に誤字を書いた場合には、それを丁寧に摺り消して、その上に重ね書き訂正、またうっかり誤脱した場合には行間に補入する、というのが基本的方針のようである。
 となると、ミセケチあるいは墨滅して削除したり行間に訂正があるのはなぜか。また、元の文字の上に直接重ね書き訂正があるのはなぜか。それらは、見直しの際に気づいて訂正したゆえに、方法が違っているか。あるいは、例外的少数事例もあるというのか。それとも他に事情があるのだろうか。丁寧に検討していこう。

 訂正以前の本文が判読できる箇所の本文の異同に関わる訂正跡を採り上げて考えてみよう。

 @「佐す可(+尓)いとあ者れなり可し」(31オ8・大成1249D)

 太田晶二郎氏は「さすかいとノ「か」ト「い」トノ間ノ右傍、蠧蝕ニ罹ツテヰルガ、「に」(字原、尓)ヲ補入シタモノデアル」(注12)と指摘する。

 「さすか」大―「佐す可(+尓)」定―「さすかに」横榊陽肖三/河・御保麦阿―ナシ国

 この訂正跡は筆跡の判別に迷うところである。
 さて、書写者の単純な誤脱の補入、あるいはその親本の訂正跡をそのままの形に書写したものではないかと考えられるが、いずれにもせよ、横山本以下にもその訂正が継承されているのでどちらでも同じことになる。
 なお、青表紙原本の訂正以前の本文がその系統の大島本と同じであるということは矛盾である。他系統の諸本もほぼ異文ナシ(別本系国冬本除く)。よってここは大島本の単純な誤脱と考えられる。

 A「世のおほえも(+つ可さ)くらゐも」(44ウ9・大成1260K)

 この補入「つかさ」も、本文と同筆(本文書写者)の筆跡と見られる。青表紙本の中で、「つかさ」の語の無い古写本も存在するので、慎重に考えたい。

 「くらゐ」陽/河・御保国麦阿―「(+つかさ)くらゐ」定―「つかさくらゐ」大横榊肖三

 「柏木」巻の陽明文庫本は、青表紙本である。したがって陽明文庫本の誤脱と考えることもできるが、河内本他、古伝本系別本の多くにも「つかさ」の語が無いので、慎重に考えたい。

 ここの異同は、河内本・別本諸本対定家本という二大対立関係を示している。
 そこで、定家本には初めから「つかさ」の語があったと考えることもできるが、あるいはある時点で定家が「つかさ」の語を補入したと考えることもできる。
 もし後者であると考えれば、ここの補入は書写者のうっかり誤脱の補写ではなく、親本の補入跡をそのままの形で書写したものとなる。とすると、青表紙原本の親本・源流は河内本や別本諸本と同様に「つかさ」の無い本文であったが、ある時点で定家は「つかさ」の語を補入して「つかさくらゐ」とした、そして陽明文庫本は定家が「つかさ」の語を補入する以前の形の本文を書写した(必ずしも時間的に以前というのではなく、補入の形があったが、その補入を採用しなかったとも)と考えることもできるのだ。

 なお、池田利夫氏は、陽明文庫本「柏木」が青表紙本の中でも孤立していることを指摘する一方で、横山本と親近性をもつことをも数値をもって言及しているが(注13)、その事例の中に、「くものけしき」(45オ4・大成1260M)の箇所を挙げている。そこでは、陽明文庫本と横山本の訂正以前の本文の形が共通本文で、これに古伝本系別本の国冬本もそれらと同文であるという箇所である。上記と同様に整理して示すと、

 「そらのけしき」陽/国―「そら($くも)のけいき」横―「くものけしき」定榊大肖三/河・御保麦阿

 となる。つまり、青表紙原本の本文以前に原本の本文と同じ形に訂正した青表紙本(横山本)とその訂正以前の青表紙本(陽明文庫本)とが、既に存在していたということだ。これは矛盾である。青表紙原本の本文が生れる以前に、それとは違った本文からその本文が生れていたことを示す事例である。
 青表紙原本における書写者一筆の本文訂正跡というもの中には、親本における本文訂正跡をそのままの形で書写していたものであったことを、上の事例は考えさせるのではないか。

(2)定家による訂正(13箇所)

 本文の異同に関わる訂正跡から考える。

 @「いそき多つ心ちの(の#)し者へる」(27ウ5・大成1246A)

 池田亀鑑氏は、この箇所を「大成校異篇」に採り上げていない。しかし太田晶二郎氏が「いそきたつ心ちノ次「の」ヲ消シテアル(大成、此ノコトヲ言ハズ)」(注14)と指摘するように、見た目にも明らかな墨筆によって削除した跡がある。そして、幸いにも元の文字「の」が読める箇所である。

 ところで、この箇所、「大成校異篇」によれば、青表紙諸本に異同があり、今それを青表紙原本の訂正跡を軸に訂正以前と訂正以後の諸本の流れを見ると、次のようになる。

 「こゝちの」横榊陽肖三―「ちの(の#)」定―「心ち」大

 つまり、青表紙原本における定家の訂正は大島本のみに継承されているが、他の青表紙本は訂正以前の本文の形なのである。このことは、横山本等の鎌倉期写本は青表紙原本から派生したと仮定しても、その原本に定家が本文訂正の筆を入れる以前の段階の本文を書写したもの、あるいはまた、青表紙原本の親本から派生した本文である、ということを考えさせる。私は、これも前者よりは後者の方が自然であろう、と考える。

 次に、定家の仮名遣いに関する訂正と表記の訂正に関する訂正跡があるので、それらの事例をみておこう。
 まず、仮名遣いに関する訂正。2例ある。

@「お(を&)やこのみちの」(39オ8・大成1256G)

 「親子の道」の「お」の仮名遣いに関して、元の表記は「をやこ」とあった。定家は「を」の文字上に直接に重ね書きして、「お」(字母の「於」に近い字形)と訂正している。歴史的仮名遣いに合致した仮名遣いであるが、定家の仮名遣いへの訂正である。

A「お(を&)まへのこ多ちとも」(46ウ9・大成1262D)

 「御前の」の「お」の仮名遣いに関して、元の表記は「をまへ」とあった。定家は「を」の文字上に直接に重ね書きして、「お」(字母の「於」に近い字形)と訂正している。これも歴史的仮名遣いに合致した仮名遣いであるが、定家の仮名遣いへの訂正である。

 次に、踊り字に関する表記上の訂正である。漢字表記された終りの音は、踊り字で表記はしない、その音は仮名表記する、ということである。これも2例ある。

@「御物の(ゝ&の)けいてきて」(22ウ6・大成1242A)

 「御物のけ」に関して、元の表記は「御物ゝけ」とあった。定家は「ゝ」の文字上に直接に重ね書きして、「の」と訂正している。

A「こ殿の(ゝ&の)个者ひ」(38オ7・大成1255H)

 「殿の」に関して、元の表記は「殿ゝ」とあった。定家は前者同様に「ゝ」の文字上に直接に重ね書きして、「の」と訂正している。

 なお、他にも誤解を生じかねないような字体に関しては、その文字の上に直接重ね書きして修正をしている。例えば、

@ 「あることはあへ(阿へ&あへ)なむ」(34ウ6・1252F)

 「大成校異篇」には、校異欄に「あへなむ―あ(そノ上ニ重ネテあヲ書ク)なむ」とあり、元の文字を「そ」と判読している(なお「へ」を脱字)。
 しかし、太田晶二郎氏は「あへなむノ「あへ」、初メ「阿へ」ト書イタカト思ハレル上ニ、重ネ書キシテ改メテアル(大成、「そノ上ニ重ネテあヲ書ク」ハ誤リデアラウ)」(注15)と指摘する。
 太田氏が言うように「そ」ではなく「阿」である。定家は、「阿へ」の上に直接重ね書きして「あへ」と修正をしている。字母「阿」を他の仮名の「あ」に替えた事由はよくわからないが、次の文字「へ」が「つ」と紛らわしい字体であるとして、併せて「あへ」と修正したのではないかと考えてみる。

A「きゝすくさむは(い&は」のち能」(19オ6・1239E)

 太田晶二郎氏は「きゝすくさむはノ「は」、初メ「い」ト書イタ上ニ、重ネ書キシテ改メテアル」(注16)と指摘する。定家は、元の文字が「ハ」とも「い」とも読めるような字体であったのを、はっきりと別の仮名文字「は」と改めたのであろう。

 以上、青表紙原本「柏木」における本文訂正跡について、それを書写者一筆の訂正跡と、監修者定家筆の訂正跡とを区別してそれぞれの訂正跡の性格を見てきた。
 併せて、青表紙原本「柏木」における本文訂正跡がその系統の大島本に継承されていることを確認し、青表紙原本「柏木」で訂正される以前の本文が青表紙本にあるというのは、実は、青表紙原本の親本から派生したものではないかということ、そして青表紙原本「柏木」の定家別人の本文書写者一筆の訂正跡は書写者の訂正以外に、実は親本の本文訂正跡をそのままの形に書承したものがあるのではないか、ということを述べて来た。

四 「早蕨」(26箇所)

 「早蕨」は他の青表紙原本とは違って、本文と一筆の書写者自身による訂正跡のみで、監修者定家による訂正跡は無いようである。26箇所数えられる。ただ1箇所、他の訂正跡とは異なった墨色の補入跡がある。あるいは、これだけは別人の可能性が否定できない(今、定家とは別人として、本文書写者の訂正跡の中で言及する)。

 他の青表紙原本の書写者の訂正方法と同様に、

 a「擦り消し重ね書き訂正」(14箇所)
 b「補入」(9箇所、うち補入符号なし4箇所、印の符号あり5箇所)
 c「ミセケチ」(2箇所
 d「ミセケチ訂正(1箇所)。

 この方法とその傾向は、「柏木」の書写者とほぼ同じである。ただ、墨滅訂正と直接重ね書き訂正が無い点が異なるだけである。

 青表紙原本「早蕨」の本文訂正跡が他の本文とは関わらない単純な誤写と考えられるものは措き、その訂正以前と訂正以後の本文の形が、他の青表紙本と関連する事例について考えていく。
 2例ある。いずれも補入符号ありの補訂である。

@「可多ら(+者)むと」(3ウ9・大成1679C)
 
 青表紙原本「早蕨」では、「語らはむ」と「は」を補入している。その訂正以前の本文と訂正以後の本文が青表紙本は次のように分かれる。

 「かたらん」御横池/七・保麦阿―「可多ら(+者)むと」定―「かたらはむ」大肖三/宮尾為大鳳・陽平

 本文と一筆と見られる書写者による補入である。書写者自身がうっかり誤脱した「は」字を補入したものと考えると、その訂正が受け継がれているのは、大島本と室町期写の肖柏本と三条西家だけである。
 ところが、鎌倉期写の御物本や横山本、池田本等には「は」字がない。となると、ここは青表紙原本書写者の誤脱とばかり済ませない。
 もし、青表紙本原本が「かたらむと」とあったのを、本文書写者が「は」を補入したと考えることが出来ようか。やはり、協同書写者の立場にあって、本文を改変することが許されただろうか、という疑問が出て来る。
 となれば、その補入は、やはり青表紙原本の親本すなわち定家が補入したものと考えるのが自然であろう。書写者は、定家の本文訂正跡をそのまま形で書写したものとではないか、と考える。

A「堂い(+ふ)のといふ」(16ウ5・大成1689E)
 
 藤本孝一氏は「「いの」の間に青墨で「」を付けて「ふ」を補入する」(注17)と指摘する。「青墨」というように、独特のものである。その筆跡は定家ともまた書写者とも言い難く、第三者といえばそうともいえそうな補入文字である。もし、この青墨の補入が後人のものであれば、どういうことになろうか。その時点によっては、のちの青表紙本系統には影響を与えない、無関係なものとなろう。
 さて、その訂正以前の本文と訂正以後の本文が青表紙本では次のように分かれる。

 「たいのきみ」横池三/鳳尾―「堂い(+ふ)の」定―「たいふの君」大肖/為・陽平麦阿―「大貳君」御/七宮大・保

 宇治の中君付きの女房名であるが、ここに「対の君」、「大輔の君」、「大弐の君」の三様が見られるが、他の巻でも「大輔の君」(宿木)、「大輔」(宿木・東屋・浮舟)、「大輔の御」(浮舟)と見える人物であるので、「大輔の君」が適切である(注18)
 したがって、本来は、「たいふの君」とあったところであろう。源氏物語の伝流の早い段階の時期において「ふ」字の誤脱によって「たいのきみ」の異文が生じ、また「ふ」を「に」と誤読したことによって「たいにのきみ」の異文が生じたものと想像される。

 もし、そうであれば、定家が拠った青表紙原本の親本も既に「ふ」を脱字した本文であったのだろう、と考えられる。私はこの「ふ」字の補入も、前項同様に、青表紙原本の親本において、定家が補入したもので、書写者による補入ではないと考える。定家の「家本」作成の協同書写者がその立場にあって、「対の君」を「大輔の君」と改めたとは考え難い。書写者は親本にあった補入の形をそのままに書承したものだろうとみる。

 その理由は、青表紙原本「早蕨」におけるその補入は、後の大島本と肖柏本には継承されているが、同じく青表紙本とされる鎌倉期写の横山本・池田本等には「ふ」字のない本文があるからである。
 横山本・池田本等の複数の青表紙本が河内本(鳳来寺本・尾州家本)との接触によって、「ふ」字を削除したとは考え難い。横山本・池田本は、青表紙本原本「早蕨」を、その補入がなされる前の形の本文を書承したものと考えるよりも、さらにそれ以前の枡形六半本型源氏物語から書写されたものと考えるのが最も自然であろう。

 以上、青表紙原本「早蕨」では、本文の内容変更に関わる事例を取り上げて、検討してきた。「早蕨」上における本文訂正跡が書写者一筆の訂正跡であれば、それはその親本における定家の訂正跡をそのままの形で書承したものであろうと考えた。

  まとめ

 以上、青表紙原本(4帖)における本文訂正跡について見てきた。その結果、まとめると、

 @青表紙原本(4帖)の本文訂正跡には、定家の訂正跡と定家とは別人の本文一筆の訂正跡との二種類が存在すること。
 A青表紙原本は親本を忠実かつていねいに書写した浄書本のように見られるが、それでもその本紙上には定家による若干数の本文の改訂や仮名遣い、表記等の訂正、修正の跡が見られること。また、定家別人の本文書写者の訂正跡の中には親本の訂正跡をそのままの形で書承しているものがあるのではないかと考えさせるものがあること。
 B青表紙原本における本文訂正跡は、その後の全ての青表紙本に影響を与えているものではなく、原本における訂正以前の形の本文をもったいわば原青表紙原本とでも称すべき青表紙本が存在していること。たとえば、鎌倉期写の御物本・横山本・池田本等である。
 Cそして青表紙本原本の親本もまた鎌倉期写の御物本・横山本・池田本等の親本も、源は同じ定家本、すなわち定家の本文校訂の手の入った枡形六半本型「源氏物語」であること。
 D現存する青表紙本の諸本間における本文の二系統とさまざまな小異、出入りは、枡形六半本型「源氏物語」における定家の本文の校訂段階に起因することとその後の書写者の本文改変等によって生じたものであろうこと、等である。
 E最後に、定家別人筆の本文訂正跡の種類とその内容や定家による訂正跡から、その同一人物性について考えると、「行幸」だけは明らかに別人であることが分かるが、その他の「花散里」「柏木」(非定家筆部)及び「早蕨」間には特に大きな違いは見い出せない。

青表紙原本「源氏物語」(4帖)の本文訂正の種類と訂正数(書:書写者 定:定家)

 種 類  記号 花散里
書  定
行 幸
書  定
柏 木
書  定
早 蕨
書  定
 補入符号ナシ  +  1   6  1  17  1   4
 補入符号あり  +     4     5
 併記       1      1  
 ミセケチ       1   1   6   1   2
 ミセケチ訂正          1   2     1
 墨滅            1  
墨滅訂正          1  
 直接重書訂正       1     32   3   9  
 擦消重書訂正      10  21    14
    計     1  1  22  35  50  13  26  0


  

(1)石田穣二『柏木(源氏物語)』(「校訂私言」52頁 桜楓社 昭和34年初版、63年4月重版)
(2)阿部秋生『源氏物語の本文』(「別本の本文」107〜108頁 岩波書店 1986年6月)
(3)『翻刻明月記三』(冷泉家時雨亭叢書別巻4 朝日新聞社 2018年5月)
(4)片桐洋一「もう一つの源氏物語」(『中古文学』26号 1980年10月 『源氏物語以前』(所収、笠間書院 平成13年9月)
(5)太田晶二郎『古典籍覆製叢刊 源氏物語(青表紙本)使用上の注意』(3頁 前田育徳会尊経閣文庫 昭和53年11月)
(6)玉上琢弥『源氏物語評釈 第6巻』(19頁 角川書店 昭和41年6月)
(7)岡嶌偉久子『源氏物語 池田本』(第5冊「解題」14頁 八木書店 2017年4月)
(8)池田亀鑑『校異源氏物語』(中央公論社 昭和17年10月)、同『源氏物語大成校異篇』{中央公論社 昭和31年1月)
(9)石田穣二、注1同書、52頁。
(10)太田晶二郎、注3同書4〜23頁。
(11)太田晶二郎、注3同書7頁。
(12)太田晶二郎、注3同書14頁。
(13)池田利夫『源氏物語十』(陽明叢書「翻刻・解題」91頁 思文閣 昭和56年6月)。
(14)太田晶二郎、注3同書12頁。
(15)太田晶二郎、注3同書16頁。
(16)太田晶二郎、注3同書9頁。
(17)藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』(「解題」9頁 八木書店 2018年1月)
(18)『源氏物語事典下』(稲賀敬二「作中人物解説」362頁 東京堂出版 昭和35年3月)