五 付箋朱合点奥入傍記(2019年9月2日修正版)

 池田亀鑑氏は、青表紙本原本の形態に共通する特色として、

「七、伊行の源氏釈その他の旧注を本文当該箇所に小紙片を以て掲げてゐること。
 八、句読点・声点等の朱筆は全く加へてゐないこと。
 九、帖末に勘物が存すること。(但し花散里・早蕨にはこれがない)」

と述べた(注1)

 しかし、七の「小紙片」については、「源氏釈その他の旧注」ではなく、それは定家自身の注釈であること。八は、大島本や河内本等に見られるような朱筆による「句読点・声点」を念頭においての記述なのであろうが、「朱筆」に関しては、本文中の引き歌や勘物に関する語句に朱筆による合点が掛けられているので、「全く加へられてゐない」とはいえない。したがって、朱合点も青表紙原本の形態に共通する特色の一つであること。ただ、「柏木」にのみ朱合点が無いだけなのである。
 そして、「行幸」には、本文中に振り漢字が2例見られる。それは青表紙原本の臨模本である明融臨模本(東海大学蔵)にも見られる巻が存することから、傍記が存在することも青表紙本原本の形態に共通する特色の一つとして追加すべきである。これについては後述する。

 以下、具体的に述べていこう。

(1)付箋

 池田亀鑑氏が「小紙片」と呼称しているものは、ここでは「付箋」と呼び替える。既に「書誌」の項において述べたように、すべて同一規格の紙片(ほぼ縦7.2p×横1.7p)で、かつその内容は引き歌に関するものである(精確に言えば、漢詩句の引用も含む)。

 青表紙原本では、和歌や漢詩句のような短い注記は本文中の当該箇所に付箋で注記し、故実や歌謡のような比較的長文になる注記は、帖末の奥入に注記する、という仕分けをしていた。本文中の付箋とはそのような性格のものである。

 なお、付箋の筆跡は定家のそれではない。別人の筆跡である。

 以下、それらが「源氏釈その他の旧注」ではなく、それは定家自身の注釈であることを検証していく。なお、付箋という性格から、後に剥落したり、あるいは貼り位置が移動したりするものが有ることも考慮に入れておきたい。

「花散里」(2枚、あるいは本来3枚であったか)

 藤原定家の自筆本「奥入」には、「花散里」の奥入は欠脱。しかし欠脱する前に転写された「高野本」(注2)によれば、「かこはねと」「いにしへの」「橘の」の3首の和歌が指摘されている。うち、「かこはねと」歌は伊行が未勘であった和歌である。残りの2首は付箋の和歌と重なるものである。
 その付箋に指摘されている和歌は、。

 @「い尓しへのことか多らへはほとゝき春/い可尓し里て可なくこゑ能する」(4オ5)
 A「堂ち可本なつ可し見ほとゝき須/か多らひしつゝな可ぬそ那き」(4オ7)

 青表紙原本の「花散里」の付箋と自筆本奥入との異同は、次のとおりである。

  「なくこゑもする」(奥入)―「なくこゑのする」(付箋)
  「のかを」(奥入)―「堂ち可本」(付箋)

 @に関して、青表紙原本の付箋と自筆本奥入とでは、第五句の本文にわずかな助詞の異同がある。
 出典は、「古今和歌六帖」(第五「ものがたり」2804)「兼輔集」(31)である。しかし、それらには第五句「ふる声のする」とする。奥入や付箋とも違った形である。

 ところで、藤原伊行の「源氏釈」では下句に関して、第一次本一類の「源氏或抄物」では「心にしりてかふるこゑになく」、同第二類の「冷泉家本」では「いかにしりてかふる(なく)こゑに(の)する」、第二次本の「前田家本」では「いかにしりてかふるこゑになく」(増補本の「吉川家本勘物」も同じ)というように、本文の異同があるが、定家の奥入や付箋とは違った本文である。。
 よって、この点から見ただけでも青表紙原本の付箋が源氏釈の注記を掲げているものではないことは明白である。
 定家は、源氏釈の「ふるこゑになく」とも、また「古今六帖」や「兼輔集」の「ふるこゑにする」とも違った、独自の「なくこゑの(も)する」を指摘しているのである。
 なお冷泉家本の傍記「なく」「の」は後からの対校(青表紙原本の付箋と同文)かとも考えられので、本行本文を対象とする。源氏釈における和歌本文の変化は伊行の研究の進展と関わるものと考えられる。

 Aに関しては、仮名遣いの異同であるが、奥入の「を」(格助詞)が正しく、付箋の「ほ」は誤りである。付箋は、定家周辺の人物が書記したものであろうか。定家ならば、このような過ちはしないだろう。

 そして、青表紙原本には、「うへしかきねも」(3オ1)に朱合点が掛けられていて、付箋が無い。それは、あるいは剥落したのではないかと考えられる。なお、逆に、朱合点が掛けれれていないで、付箋Aが貼付されているのは、この場面が橘とほととぎすを基調として語られているために、どの箇所にと特定しがたいという事情があったのであろう、と思われる。

「行幸」(糊痕 1枚存在していたか)

 「行幸」には、現在付箋は無いが、藤本孝一氏は「糊痕」が2箇所あることを指摘する(注3)。複製本では確認できないが、うち1箇所は、「このをとなしのたき」(1オ2)の語句にも朱合点があるので、本来はここに付箋が存在していたものであろう。
 なお、「自筆本奥入」には「とにかくに人めつゝみをせきかねて/したになかるゝをとなしのたき」という引き歌の注記が有る。また大島本「行幸」にも、同歌が付箋で注記されているところである。

 しかし、もう1箇所(6オ2)の「糊痕」は不審。それは「太政大臣」(6オ2)の語に「朱合点」が掛けられているという指摘の誤記ではないか、と考えられる。

「柏木」(6枚 本来7枚であったか)

@「うくも思心尓かな者ぬ可/多れもちとせのらなく尓」(2オ7)
A「むしのをい多つら尓な春/ことも/悲と徒おもひ尓よりてなり个り」(2ウ2)
B「をおいを者て尓しせまし/可ハ/个ふ可あ春可もいそ可佐らまし」(4ウ1)
C「こそこ布るくせつ氣連/あふより本可のやむくすりなし」(30ウ2)
D「とにのさ可りハあ里なめと/あひむこと者いのちなり个り」(42ウ4)
E「よりあ者せてなくなるこゑをいと尓/して/わ可なミ多をハ多万尓ぬ可なむ」(42ウ9)

 なお、この青表紙原本を臨模した明融臨模本には「天与善人吾不信/右将軍墓草初青」(48ウ2)の詩句がある。その付箋には、さらに「右大将保忠カコトヲ作レル也」「クミスルニ」「秋」「紀在昌」の傍記等がある。それらのどこまでが原本に有ったものかは未詳であるが、その紙片の規格から他の引き歌に関する付箋と同列のものなので、この詩句を記した付箋が有ったことは確かである。剥落したものであろう。

 藤原伊行の 「源氏釈」(冷泉家本・前田家本)では、「柏木」に引き歌及び引詩句に関する注記が11項目存在する。
 藤原定家の「自筆本奥入」には10項目あり、うち9項目が「源氏釈」の注記に重なり、伊行が指摘した在原業平の「つひにゆく」(古今集861・伊勢物語209)歌が除かれている。そして、もう1項目の「此身何足恋」(白氏文集577「逍遥詠」詩句)に替って、「自嘲詩」(白氏文集2821)が指摘し直されている。定家は「源氏釈」を踏まえながらも、更なる注訳研究の進展を図っているのである。

 さて、青表紙原本「柏木」の本文中付箋の7項目は、すべて「自筆本奥入」と重なる。逆に「自筆本奥入」に有って、付箋にない注記は、「なげきわび」歌と「とりかへす」歌の2項目である。それら2首は、いずれも「源氏釈」が指摘した出典未詳の和歌である。定家は「自筆本奥入」では、いったんそれらをそのまま書承していたが、青表紙原本の本文中に引き歌として貼付する際には、それら2首は外したのである。ここにも定家の、「自筆本奥入」の記載時から青表紙原本本文中の付箋貼付際への注釈研究の進展が窺えよう。

 なお定家の注釈(自筆本奥入・本文中付箋)と 「源氏釈」との異同を示すと、次のとおりである。時系列的に掲載する。
 藤原伊行「源氏釈」(抄:源氏或抄物 冷:冷泉家本 前:前田家本)
 藤原定家「奥入」「付箋」(奥:定家自筆本奥入 箋:青表紙原本付箋) 
 *:参考出典

@「うくも世に」(抄・冷・前)―「うくも世の」(奥・箋) *古今六帖「うくもよに」
B「人のよを」(冷/奥・箋)―「人のよの」(前) *朝忠集「人のよの」
 「けふかあすかと」(冷)―「けふかあすかも」(前/奥・箋) *朝忠集「けふかあすかと」
C「我こそは」(抄)―「我こそや」(冷・前/奥・箋) *拾遺集「我こそや」
 「くせつけれ」(抄・前/奥・箋)―「くせつけれ(やまひすれ)」(冷) *拾遺集「くせつけれ」
 「あふよりほかの」(抄/奥・箋)―「あふよりほかに」(冷・前) *拾遺集「あふ日ならでは」
E「なくなるこゑを」(抄/奥・箋)―「なかれるこゑを」(冷) *古今六帖・伊勢集「なくなるこゑを」 前ナシ

 今、出典とはせずに参考出典としたのは、出典とは言いながらも、たとえば、「古今和歌六帖」などは定家本系統の本文(注4)でありながらも、それが近世の写本であったり、「朝忠本」にしても「白河・堀河両朝頃」(注5)の転写本であったりしてして、必ずしも現存本を即出典と考えるには問題が多いからである。

 @は助詞「に」「は」の違いであるが、定家の注釈は定家本系統の「古今六帖」も本文とも異なる。
 Bも助詞「を」「の」、「と」「も」の違いであるが、「源氏釈」内でも異同があり、定家の注釈は「源氏釈」諸本のそれぞれと部分的に一致している。
 CもBと同様な傾向であるが、何よりも第4句が定家本「拾遺集」(注6)の本文とも大きく異なっている。定家が「源氏釈」に指摘された和歌をそのまま書承していることは明らかである。細かく見れば、助詞「の」「に」の相違ではあるが、「源氏釈」の第一次本一類といわれる「源氏或抄物」と同文になっている。
 Eは「源氏釈」の第一次本(抄・冷)には指摘されているが、第二次本(前)には指摘されていない和歌である。ということは、定家は、第一次本に拠ったというのではなく、現存本「源氏釈」以外の、第2次本に近い本文を参照していたと考えるのが適切であろう。

「早蕨」(付箋4枚 貼り誤りがあり、本来は9枚あったか)

 「早蕨」には、4枚の付箋が貼付されている。しかし、1枚のみが本来の位置に貼付されている他は、すべて違った位置に貼付されている。( )内に、矢印で正しい位置を示す。

@「のひ可りやふしわ可ねハいそ/布り尓しさと尓もさき个り」(見返し→1オ1)
A「春霞多徒をすてゝゆく可りハ/き佐と尓す見やならへる」(8オ→7ウ2)
B「やあらぬやむ可しのらぬ/わ可飛とつハもとの尓して」(9ウ→11ウ3)
C「おほ可多のわ可ひとつのうき可ら/に/なへてのをもうらみつる」(13オ3)

 以上、4首の和歌が、藤原伊行の「源氏釈」を書承しながらも、必ずしもまったく同じというものではなく、定家自身の注釈であることを、その本文の違いから見ておこう。

@「ふりにしさとも」(冷)―「ふりにしさとの」(前)―「ふりにしさとに」(奥・箋)
 「はなさきにけり」(冷・前)―「花もさきけり」(奥・箋) 
B「我身ひとつを」(冷)―「我身ひとつは」(前/箋) *古今集・伊勢物語「わが身ひとつは」
C「おほかたは」(冷)―「おほかたの」(前/箋) *拾遺集「おほかたの」

 @の異同については、下句、定家本「古今集」には「ふりにしさとに花もさきけり」とあるから、定家は源氏釈を踏まえながらも、自家の「古今集」の本文の形に改めたのであろ。なお「源氏釈」所引の第5句「はなさきにけり」は、元永本・基俊本・雅俗山荘本・真田本等に見られる本文である注7

(2)朱合点

 次に、朱合点について述べる。青表紙原本の本文中の朱合点は、その語句に関して、引き歌や故実等があることを意味したものであろう。そして、それを本文中当該箇所の行天に付箋で、あるいはまた帖末の奥入に注記したことを示したものである。なお、「柏木」にそれが無いのは、他の巻とは違って、定家がその巻の書写に直接関わっていたことと関係するのだろうか。

「花散里」(2箇所)
 「花散里」には、次の2箇所の語句に朱合点が付けられている。すなわち、

@「うへし可きねも」(3オ1)
A「い可尓しりて可」(4オ5)

 いずれも引き歌に関する朱合点である。

 しかし、@は朱合点のみ。付箋ナシ。糊痕の有無は未詳。なお、「源氏釈」では未勘であったが(注8)、「自筆本奥入」では「かこはねと蓬のまかき夏くれハ/うへしかきねもしけりあひにけり」(高野本による)が指摘されている。もし、剥落したものであるとすれば、「花散里」の付箋は本来3枚有ったことになる。そうであれば、この朱合点はその付箋との関係を示すものとなろう。

 Aの朱合点は同行頭に貼付されている付箋との関係を示すものである。


「行幸」(2箇所)
 「行幸」には2箇所の語句に朱合点が付けられている。すなわち、

@「このをとなしのたき」(1オ2)
A「太政大臣の可ゝ累行幸」(6オ2)

 それぞれ、引き歌と故実に関する朱合点である。

 @の朱合点は、藤本孝一氏によってその行頭に「糊跡」が指摘されている。「自筆本奥入」には、「とにかくにひとめつゝみをせきかねてしたになかるゝをとなしのたき」という引き歌の指摘がある。本文中の語句「をとなしのなき」の引き歌に関する本来存在していたはずの付箋との関係を示すものである。

 Aの朱合点は、帖末の奥入に「仁和二年十二月十四日」云々という芹川野行幸の故実が注されているので、それとの関係を示すものである。

「柏木」ナシ

「早蕨」(9か所)
 「早蕨」には以下の9箇所の語句に朱合点が付けられている。藤本孝一氏は、それら9箇所について、いずれも「(朱合点の)行の天の部分に付箋の糊痕あり」注9と指摘している。したがって、「早蕨」の朱合点はすべて引き歌付箋に関係するものであった。

@「や布し王可ね者」(1オ1) 付箋@
A「い者せのもり能」(6オ10) 
B「堂つをみすてむことも」(7ウ2) 付箋A
C「者るやむ可しのと」(11ウ3) 付箋B
D「いとふ尓はえて」(13オ1)
E「なへてのを」(13オ3) 付箋C
F「もの尓も可なやと」(19オ2)
G「ぬしなきやと能」(20ウ2)
H「心やすくやなと」(20ウ3)

 ところで、「自筆本奥入」の「早蕨」には、引き歌が5項目指摘されている。しかし、5項目めの引き歌「さ月まつ」歌は、ちょうど上句で改丁されていて、下句は次丁に書かれているはずのところが、それがな無く、以下白紙となっていて、その裏面には次の「宿木」が書かれている。「早蕨」にはなお引き歌が存在しているはずなのであるが、それらが無い。
 しかし、池田亀鑑氏が『源氏物語大成研究資料篇』の「奥入(第二次)定家自筆本」の「早蕨」の脚注に、「高野本ニ「此間一丁本ニキレタリトミユ」ト注記す。夕霧巻に混入セル八七丁ト関係アルカ」と記し、「夕霧」の箇所で、「月やあらぬ以下八七丁オウ。一一五丁の次早蕨ニアルベキモノ」(注10)と指摘しているように、実は「自筆本奥入」の綴じ誤りなのである。ところで、「高野本」にもそのようになっているということは、枡形六半本源氏物語の本体から奥入部分を切り離して仕立て直した際の綴じ誤りであろうか。遅くとも、「高野本」が書写されるまでの間には綴じ誤られたものであろう。

 今、「夕霧」に混入されている「早蕨」を繋げて、「自筆本奥入」と青表紙原本の朱合点(付箋の糊痕)との関係を見ると、だいたい対応しているが、両者に有る引き歌とそうではないものとがある(奥:算数字、箋:丸数字で記す)。

奥・箋にある引き歌:@ABCDEFG
奥にあり箋にない引き歌:4・5
奥になく箋にある引き歌:H

 すなわち、青表紙原本に付箋で記された引き歌は、基本的にすべて「自筆本奥入」にある歌である。 しかし、H「心やすくやなと」に関する引き歌は不審。『源氏物語事典下巻』(玉上琢弥「所引詩歌仏典」)や伊井春樹『源氏物語引歌索引』等で検してみても、この語句およびその前後にこれに該当するような引き歌は指摘されていない。朱合点および付箋の糊痕は何かの付け誤りであろうか。

 一方、定家「自筆本奥入」にあって、青表紙原本の付箋に無い引き歌とは、

4: 定家は、行間に細字で、本文「やとをはかれし」を引用し、その下に「未勘」と注し、
「今そしるくるしき物と人またむ/さとをはかれすとふへかりけり」
に削除符号の合点を掛けている。つまり、引き歌の第4句が「里をばかれず」とあって、本文中の「宿をばかれず」と合致しないという理由からで削除したのであろう。
 ところで、この歌は「源氏釈」に「いまそしるくるしき物と人またんさとをはかれすとふへかりけり」(前田家本)と指摘されたものである。
 出典は「古今集」「古今六帖」「業平集」「伊勢物語」等で、本文は同じある。
 つまり、定家は初め、「源氏釈」から引用したが、その後、本文と合致しない歌であると考え直し、削除符号を付けたのである。そして、青表紙原本では、もはや引き歌とはしなかったのである。

5:「さ月まつ花たちはなのかをかけは」とあって、次の改丁された所に下句が無い歌である。あるいは有ったのだが、切り離される折に取り残されて失われてしまったものか。いずれにせよ、上句だけでもそれが有るということは、その歌を指摘したことに違いはない。。
 ところで、この歌は「たち花ならねとむかしおもひいてらるゝつまなり」(『源氏物語大成校異篇』1685頁7行)に関するものであるが、藤原伊行「源氏釈」では指摘されていない歌である。となると、藤原定家が「自筆本奥入」に初めて指摘した歌となる。しかし、青表紙原本では、引くに及ばないと考え直したものか、引き歌とはしなかったのだろう。

 以上のように、藤原定家の注釈過程をみると、定家は、初め藤原伊行の「源氏釈」に拠って、それを批判的に修正を加えながら継承し、自分の枡形六半本「源氏物語」の帖末に書き付けた。そして、その注釈を再検討しつつ、さらに追加や削除していったのである。

 ある時その本を他人に貸し出したところ、その注釈部分に誹謗を受けたことがあり、それに懲りて、定家は物語本体から注釈部分を切り離して、一冊に仕立て直して「奥入」とした。

 定家の注釈研究は不断に続けられ、その途上のある折に、縦長四半本の青表紙原本を作成した。その際には、本文中の当該箇所に朱が合点を掛けて、比較的長文の勘物は巻末に記し、短い和歌や詩句の注記はその行の天の部分に付箋を貼付して指摘するという仕分けをしたのだった。

 よって、「自筆本奥入」の紙面上には、定家の注釈研究の初期の状態から最新のものまでが併存していたのである。青表紙原本の付箋は、そのある時点の整理された定家の注釈として出来上がっているのである。

(3)奥入

 「花散里」「早蕨」の帖末には奥入ナシ。「自筆本奥入」にもナシ。そもそも「花散里」や「早蕨」には比較的長文で記さねばならないような勘物が存在しなかったからである。
 「行幸」と「柏木」の帖末には奥入がある。「自筆本奥入」の「行幸」や「柏木」には、和歌と故実や催馬楽に関する注記がある。その故実や催馬楽に関する長文の勘物が帖末に注記されている。なお和歌は本文中の当該箇所の行の天に付箋で貼付されて注記されていることは既に見て来たとおりである。
 次に、その帖末の勘物について掲げよう。なお、< >は割注・細字、< >は振り仮名である。

「行幸」(1条)
@「仁和二年十二月十四日<戊/午>寅四剋行幸芹川(河&川)野用
 鷹鷂也式部卿本康親王常陸太守(+貞固)親王太政大臣<藤原/朝臣>
 左大臣<源朝臣>右大臣<源朝臣>大納言藤原朝臣<良世>中納言源朝臣<能有>在原朝臣<行平>
 藤原朝臣<山蔭>已下参議皆扈従其狩猟之儀一依承和故事
 或考舊記付故老口語而行事乗輿出朱雀門留輿砌上
 勅召太政大臣云皇子源朝臣定ー宜賜佩釼太政大臣傳勅
 定ー拝舞輿前帯釼騎馬皇子源朝臣正五位下藤原時平着
 摺衣午三剋亘猟野於淀河邊供朝膳<行宮在泉河鴨河/宇治河之會>海人等
 献鯉鮒天子命飲右衛門督諸葛朝臣奏歌天子和之群臣以次
 歌謳大納言藤原朝臣起舞未二剋入猟野放鷂撃鶉
 如前放隼撃水鳥坂上宿祢ム献鹿一太政大臣馬上奏之乗輿
 幸於左衛門権佐高経別墅供夕膳高経献贄勅叙正五位下
 太政大臣卒高経拝舞」

@は「太政大臣の可ゝ累行幸」(6オ2)に関する勘物である。
 玉上琢弥氏は「定家の自筆と認められる」注11と述べる。今、「自筆本奥入」と青表紙原本「行幸」の奥入の筆跡をそれらの影印複製本によって見比べると、青表紙原本の奥入は定家の筆といえば、そうとも見られ、また違うといえば違うとも見える筆跡である。しかし、わたしは別人ではないか、と考える。

 「自筆本奥入」の勘物と比較すると、次のような異同が見られる。

 ・「芹川野」(自)―「幸芹川(河&川)野」(青) *初め「河」と書いた字の上に重ねて「川」と訂正
 ・「芹川野為用鷹鷂也」(自)― 「芹川野用鷹鷂也」(青) *「為」の字を脱す
 ・「本康」の振り仮名「ヤスノ」(自)―ナシ(青)
 ・「泉川」(自)―「泉河」(青)
 ・「鴨川」(自)―「鴨河」(青)
 ・「宇治川」(自)―「宇治河」(青)

 特に、「自筆本奥入」にある「川」字に4箇所に関して、青表紙原本では4回ともすべて「河」字を使用しているという顕著な書き癖が見られる。そのうちの「芹川野」に関しては、初め「河」と書いたものである。後にその字の上に重ね書きして「川」と訂正しているが、その訂正の墨跡は太く濃い字体で、いかにも定家の訂正跡を思わせるのだが、他の3例は「河」のままになっている。
 自筆本奥入の筆者が定家であるとすれば、青表紙原本「行幸」の奥入の筆者は、「河」字の使用癖の強い別の人物であるということが指摘できよう。

 源氏物語は、「師走に大原野の行幸」(1ウ3)があり、それに太政大臣以下がその行幸に奉仕したという内容である。定家はその故事として、仁和二年十二月十四日の芹川野行幸を指摘した。「大原野」と「芹川野」とでは場所が異なるが、今その問題はおき、このような長文の勘物を定家は巻末の余白に記した。
 なお「自筆本奥入」の「行幸」は「音無しの滝」を詠んだ「とにかくに」歌1首とこの「芹川野行幸」勘物とがあるが、定家は、和歌は本文中に付箋で、そしてまた長文の勘物は巻末に、それぞれ仕分けして注記したのである。

「柏木」(2条)
 「柏木」には、2条の注記が有る。その筆跡は、石田穣二氏が「別筆である」(注12)というように、明らかに定家のそれではない。殊に仮名文字の箇所を見比べれば、「柏木」の11丁ウ6行目以降の書写者の筆跡に近い印象を受けよう。

@「文集
 五十八自嘲詩
 五十八翁方有後静<シツカニ>思堪<タヘタリ>喜亦堪嗟<ナケク>
 持盃祝<イノリ>願<ネカフコト>無他語慎<ツヽシテ>勿<ナカレ>頑<カタクナニ>愚<ヲロカナルコト>似汝耶<チニ>
 白楽天ハ子なくして老にのそむ人也
 五十八にてはしめて男子むまれたりむまるゝ
 事をそきによりて生遅と名つくその子に
 むかひてつくりける詩也」

A「妹与我 呂」

 @は、藤原伊行が「源氏釈」に「白氏文集」の「逍遥詠」を指摘していたのを否定して、それは引用せずに、同「自嘲」を指摘し直したものである。
 「自筆本奥入」の青表紙原本の奥入と比較すると、次のような違いが見られる。

 ・「自嘲詩云」(自)―「自嘲詩」(青)
 ・「おいのゝちはしめて生遅<セイチ>といふ子いてきて」(自)―「五十八にてはしめて男子むまれたり」(青)
 ・「(+名を)生遅とつけたり」(自)―「生遅と名つく」(青)

 「自筆本奥入」と青表紙原本の奥入とを比較すると、自筆本の方が文章が長く、しかもその長さの理由が「生遅」の語が2度出てきて「生遅といふ子いてきてむまるる事をそきによりて名を生遅とつけたり」といういかにも整理されていない印象を受けるのである。それに比して、青表紙原本の表現はすっきりとしている。そこで今、文章の後先の問題として見れば、自筆本奥入の文章が先で、青表紙原本の奥入の文章が後というように考えるのが自然であろう。

 Aは、当巻に該当するような本文なし。『源氏物語事典下巻』(玉上琢弥「所引詩歌仏典」)や伊井春樹『源氏物語引歌索引』等で検してみても、この巻に「妹与我」の指摘はない。よって誤って書かれたものである。太田晶二郎氏は「『末摘花』に「里わかぬかけをは見れと行く月のいるさの山を誰かたつぬる」の歌が有るから、本来、それに対する注であろうか」(注13)と述べているが、次の「横笛」巻にも「いもとわれといるさの山の」(大成1278頁4行)という箇所がある。「横笛」からの竄入であろう。

 ところで問題は、付箋の移動ならまだしも、このような誤記がどうして生じたか、という点である。
 Aの注記は、@の注記が51丁オで終わった後、次の51丁ウの1行目に書き付けられたものである。したがって、1紙の表面と裏面という続きからして、綴じ誤りという錯簡ではない。
 となると、この書き付けは当「柏木」の本文にも、また「自筆本奥入」の注記にも、直接的には基づいてはいない、注記者の何かの思い違い、あるいは見間違いによって、ここに書き付けられたとしか考えられない。
 その原因理由の一つに、「柏木」には朱合点が無かったことが影響したのではないか。もし、朱合点が存すれば、その対応関係から、このような過ちは生じなかったであろう、と考えられるからである。
 つまり、「柏木」は本文の完成後に、改めて、付箋や勘物が書き加えられた。その時に、その基づく資料にこのような過ちを生じさせた原因があったと考えたい。

(4)傍記

 池田亀鑑氏が触れなかった点である。「花散里」「柏木」「早蕨」にはナシ。「行幸」に2例存在するものである。

 「行幸」(2箇所)
@「ころうのすけ」(15オ2) 「ころう」の右傍に「古老」とある。
A「いとしうとく尓」(19ウ4) 「しうとく」の右傍に「宿徳」とある。

 いずれも振り漢字である。
 前者は「ら」の文字が流れて「え」に近い字体となっており、その左傍には「ら」という傍記も書かれている。
 @Aのいずれも本文と同筆ともまたそうではないとも見られるような墨跡である。前者にせよ後者にせよ、本文中の本文訂正跡の墨跡(定家の筆跡)と比較すると、明らかにそれとは異なるから、定家による振り漢字ではなさそうである。


 ところで、青表紙原本を臨模した「明融臨模本」の「桐壺」「若菜上」「若菜下」「橋姫」にも、振り漢字や訓が見られるのである。
 よって、青表紙原本における本文中の傍記の存在ということも大きな特徴の一つとして挙げ、そのような性格の本文である、ということを指摘しておきたい。

 以上、青表紙原本における付箋・朱合点・奥入・傍記から、この本の特徴として、次の二点を指摘しておきたい。すなわち、その一つは、定家の注釈が巻末の奥入と本文中の付箋とに仕分けられて注記されているということ。いま一つは、浄書本ではあるが、朱合点や傍記の存在に窺われるような心覚え的な性格を有している本でもあること等である。

  注

(1)『源氏物語大成 研究資料篇』(「青表紙本の形態と性格」66頁 中央公論社 昭和31年1月)
(2)「高野本奥入」(『大東急記念文庫善本叢刊 中古中世篇物語1』汲古書院 平成19年2月
(3)藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』(「解題」5頁 八木書店 2018年1月)
(4)相馬万里子「現存諸本は、すべて藤原定家の所持本を嘉禄二年〜三年に源家長が書写し校合した本の系統に入るとみられ、ほとんどが江戸期の書写(最も古いものが文禄四写)」(『和歌大辞典』明治書院 昭和61年3月)
(5)平野由紀子「その書写年代は白河・堀河両朝頃と推定される」(新編国歌大観「朝忠集 解題」)
(6)『藤原定家筆拾遺和歌集』(巻第十一恋一 665 題しらず よみ人しらず)、汲古書院本に拠る。 
(7)西下経一・滝沢貞夫『古今集校本』(笠間書院 2007年11月
(8)第一次本二類「冷泉家本」には「たつぬへし」とあり、第二次本「前田家本」では一行分の空白を遺している。
(9)藤本孝一『定家本源氏物語 行幸・早蕨』(「解題」8頁 八木書店 2018年1月)
(10)池田亀鑑『源氏物語大成研究資料篇』(「奥入(第二次)自筆本」306・406頁)
(11)玉上琢弥『源氏物語評釈 第6巻』(20頁 角川書店 昭和41年初版、54年3月7版)
(12)石田穣二『柏木(源氏物語)』(「校訂私言」51頁 桜楓社 昭和34年初版、63年4月重版)
(13)太田晶二郎「源氏物語(青表紙本)解題」(17頁 前田育徳会尊経閣文庫 昭和53年11月)