枡形六半本「源氏物語」本文の性格

 

(1)自筆本「奥入」奥書と「明月記」記事の再検討

これまで考察してきた自筆本「奥入」所載の巻尾本文と抄出本文の本体である、枡形六半本「源氏物語」が、定家の日記「明月記」元仁2年(1225216日条に記されている源氏物語であることを明らかにしていく。

はじめに、自筆本「奥入」奥書の記述から明らかにし、次いで「明月記」元仁2216日条の記事が枡形六半本「源氏物語」であることを明らかにしていく。

まずこの奥書が書かれた時期について、「前事に懲りて毎巻の奥に注付くる所の僻案を切出して別紙と為す」とあり、そして「非人桑門明静」と署名しているので、奥入が物語本体から切り離された時点であり、それは定家が出家した天福元年(1233101172歳)以後のことであることを確認しておこう。

言い換えれば、物語本体と奥入とはそれ以前に既に成立していたものである、ということを理解しておかねばならない。ただしかし、現存の「奥入」の状態に関しては、切り離され仕立て直されて以後に、定家の手がいっさい加わっていないとは保証しがたいことだ。むしろ、その奥書の内容から、定家はなおも考勘の手を加えていたのではないか、と想像されることである。今は、物語本体について考えているところなので、奥入の問題はここでは措いておく。

さて、切り離される以前の物語本体には、その巻尾本文に本文に関する校訂・修正跡が存在していたが、それは元仁221664歳)から天福元年101172歳)以後頃までの約10年弱の間の所為のものであるということだ。

次に、そのことを明らかにしていこう。まず奥書の冒頭に「此愚本」とあるのが、切り離されて1冊に仕立て直された「奥入」を指すことは間違いないが、しかしそれに続く「数多の旧手跡の本を求め」云々の内容は、奥入に関していっている内容としては不適当で、むしろ物語本体に関していっている内容であることだ。

池田利夫氏はこの奥書を「このつまらぬ本ができたのは、数多い『源氏物語』の古写本を私が求め、書き込みの注のあれこれ取捨して、浅慮の及ぶ限り吟味を重ねる心づもりに始まるが、まだ九牛の一毛にも及ばない」(注48と解釈しているが、確かに古写本の中にはその行間に書き入れ注記の存在するものもあるが、はたして定家の時代に定家が「奥入」を作成するにあたって参考となる注釈が、「旧手跡の本」の中に「彼れ此れ抽んでたり用いたり捨てたり」できるほど多数の注記を含んだ写本がどれほどあったであろうか、というのが疑問の1である。

例えば、定家の「奥入」に先行する注釈書として藤原伊行「源氏釈」があるが、現存する写本はすべて独立した注釈書として仕立てられているものである。そして、その「源氏釈」は「弘安源氏論義」に「くたれるたゝ人のなかにしては宮内少輔が釈よりそあらはれける一条三条のふるき御代には人のさとりふかくしてをの/\ことの心をわきまへけるにやちかき世となりては黄門禅門の筆にそおほつかなきことをひき詩を釈し哥をかんかへける」(注49とあるように、源氏物語の注釈書の嚆矢として知られていたものであり、その次の注釈書として「黄門禅師の筆」になる「奥入」が位置づけられていたのである。よって、その間にさらには源氏釈以前に、定家が参照し引用できるようなさまざまな書き入れ注記を含んだ古写本が「数多」あったとは考えがたい。

2の疑問として、そのために、なぜあえて「旧手跡の本」を求める必要があったのか、という点である。注釈のための参考資料であれば「旧手跡」に限る必要はないではないか。定家が参考にした藤原伊行(永暦元年〈1160〉頃の人)の「源氏釈」にしても、さして時代は違わないものではないか(時代的には定家と重なる時期がある)。定家は「伊行朝臣勘」「伊行朝臣」「伊勘」「伊行釈」「伊行」「伊」、「安家説」「多久行説」「或人云」などと、その出典を明記しているが、「源氏釈」以外、さらにはそれよりも古い源氏物語の注釈書の出典名は無い。「安家説」「多久行説」「或人云」などは個別的に問い合わせたりして得た注記であろう。「旧手跡の本」から採ってきたと推測される注記は奥入には無いのではないか。

3に、定家の奥入の注釈は主として引き歌や引詩の句、さらには故事典拠等に関する内容である。そうした内容の注釈作成を「彼是抽んで用捨し」て作成したというのは不自然な言い方ではないか。なるほど、定家の「奥入」は伊行の「源氏釈」を丸写しにはしていない。適切な「証歌」であるか否かを判断した上で引用し、いったん引用した後にもさらに検討を加えて「非証歌」として削除した痕跡が残されている。しかしそれは「彼是」とはいわないだろう。「彼是」というのは複数の本を並べてそれらの中から適切なものとそうではないものとを選び取るときにいう表現であろう。

つまり、第1から第3まで挙げた疑問点は、実はすべて物語本文の校勘に関していっているものであるということである。

そのことを支持するように、5行目に「以前に慮ざる△△事により此本が華夷遐迩に披露され門々戸々に書写されて」と此本」と出てくることである。「此本」が切り離されて仕立て直された「奥入」についていっているものではなく、切り離される以前の枡形六半本「源氏物語」ついていっていることは明白である。とすると、冒頭の「此愚本」云々からこの「此本」云々まで、定家は切り離される以前の物語本文に対して校勘の手を入れてきた経緯をいっていると解するのが正しい理解となろう。

そして「誹謗」を蒙ったというのは、主として注釈の奥入に関してだろう。なぜならば、それゆえに定家は物語本体と奥入とを分離させ、この本すなわち奥入については「向後は他見を停止すべし」といっているのだからである。

なお、「僻案を切出して別紙と為す間に哥等を多く切り失ひ了んぬ」と別冊に仕立て直す際に歌等を多く切り失ったというのは、例えば多久行から得た踏歌の歌詞などを貼付しているが、これと同じように心覚えの和歌などを貼付したり挟み込んでおいた紙片などが切断の際に紛れ込んで行方不明になってしまったものがある、ということなのではなかろうか、と推測する。

さて、元に戻って、枡形六半本「源氏物語」の定家の本文校勘についての問題である。

この奥書の内容が定家の本文校訂について自らいっていることとしてみると、すんなり解釈されていくのである。

すなわちこれに続く「短慮の及ぶ所、琢磨の志有りと雖も、未だ九牛の一毛に及ばず、井蛙の浅才、寧んぞ及ばんや。只だ嘲弄を招くべし。纔に勘を加ふる事有りと雖も、又た是れ言ふに足らず、未だ尋ね得るに及ばず」といっているのは、定家がこの枡形六半本「源氏物語」の本文に対して「数多の旧手跡の本を求めて」は「彼れ是れ抽き用捨」しつつ、本文の校勘をしてきたことであり、謙虚を交えながら述べているが、この切り離す時点に至っても、本文の校勘がいまだ満足なところまで至っていない、といっていることである。

その本文を校勘した箇所について「纔に勘を加ふる事有りと雖も」というように、定家にいわせれば「纔に」という程度であったということだ。それが自筆本「奥入」の巻尾本文における本文訂正跡の量である。

この定家の物語本文に対する情熱は、物語本体の切り離して失われた末尾本文は直ちに補訂されて、さらに本文の校勘を続けていったろうことを十分に想像させるのである。

もし、そうであったとなると、定家本源氏物語には一つには奥入が切断される以前に書写された「前・定家本源氏物語」と、もう一つには奥入が切断されて以後に書写された「後・定家本源氏物語」とをそれぞれ祖本とする複数の「定家本源氏物語」が誕生していったことが想像されるのである。少なくとも前者の「前・定家本源氏物語」が「華夷、遐迩に披露され門々戸々に書写されて」流布していったことは事実である。それがどの程度現存のいわゆる「青表紙本」(定家本)源氏物語となって伝流しているのか、また後者の「後・定家本源氏物語」が現存の「青表紙本」(定家本)諸本と関連するのか未詳ではあるが、いずれにせよ、現存の「青表紙本」(定家本)源氏物語の写本はこのような状況の中から生まれ出たものであると考えられるのである。

(画像略)

(図3-1)復刻日本古典文学館複製「源氏物語奥入」奥書

 

此愚本求数多旧手跡之本彼是
用捨短慮
所及雖有琢磨之志未及九牛
之一毛井蛙之浅才寧及哉只可招嘲弄
纔雖有勘加事又是不足言未及尋得
以前依不慮事△△△△#)此本披露於華
夷遐迩門々戸々書写誹謗云々
後悔無詮懲前事毎巻奥
所注付僻案切出為別紙之間哥等多
切失了旁雖堪恥辱之外無他向
後可停止他見 非人桑門明静」
(注50

次に定家の日記「明月記」に「源氏物語」に関連記事が2か所あるが、それらがいずれも枡形六半本「源氏物語」に関する記述であることを検証していこう。

まず、「明月記」元仁2216日条の記事から述べていこう。

1に、日記に「家中の小女等を以て源氏物語五十四帖を書かしむ」とあるように、それは枡形六半本「源氏物語」である。なぜならば、この物語本文の筆跡はすべて非定家筆であること。そしてその筆線は細く流麗で女性的であるといってもよい。現存する14帖の残存本文の筆跡を一瞥して、複数者の筆跡であることが窺える。

そのことは縦長四半本「源氏物語」の現存本とその臨模本である、尊経閣文庫本と明融臨模本の計9帖中、「桐壺」「花宴」「橋姫」3帖が全帖定家筆であり、「柏木」「浮舟」2帖が定家との寄合書であり、残りの「帚木」「花散里」「若菜上」「若菜下」4帖が全帖非定家筆である。さらにいえば、関戸家本「行幸」、保坂本「早蕨」も全帖が非定家筆であるが、縦長四半本「源氏物語」の中で占める定家筆写しの役割を考えれば、「家中小女と共に書写了んぬ」と記すことになるであろう。しかも非定家筆の筆跡は意識的に定家筆を忠実に模した筆跡で、一見「定家筆」あるいは「定家真筆」かと見紛うばかりの体裁の「源氏物語」作製である。それに対して枡形六半本「源氏物語」の本文の筆跡は見るからに非定家筆と判じられる筆跡であるから、「家中の小女等を以て」というのに合致するのである。

2に、この枡形六半本「源氏物語」の本文には、定家が本文校訂や仮名遣いの訂正、文字を明瞭化させた修正跡を残していることである。それは、日記に「諸本を見合わすと雖も猶ほ狼藉なり。未だ不審を散ぜず」と家本と他の諸本とを比較したが、なおも満足なものでないといっていることと合致し、さらには自筆本「奥入」の奥書にも同じような表現で、もう少し詳細に「数多の旧き手跡の本を求めて、彼れ是れ抽き用捨す。短慮の及ぶ所は、琢磨の志有りと雖も未だ九牛の一毛に及ばず、井蛙の浅才は寧んぞ及ばんや。只だ嘲弄を招くべし。纔に勘加の事有りと雖も又た是れ言ふに足らず、未だ尋ね得るに及ばず」と家の小女たちに書写させて出来上がった源氏物語の本文に定家が校勘を行なったということと合致するものであること。

それに対して、縦長四半本「源氏物語」では、例えば「柏木」が「原本には、書写に際しての訂正が五十箇所ほど数えられる」「これらの訂正は、書本以外の他本による訂正ではなく、書写に際しての、いわば単純な誤脱、誤謬を訂正したものと認められる」「青表紙原本の本文は、ある一本の忠実な書写に終始しているようである」(注51といわれるような訂正跡とは大きく相違する。もしその日記の記事が縦長四半本「源氏物語」の作製についていっているのであれば、物語本文上にもっと本文訂正の痕跡があってもよいものではないか。よって、「明月記」元仁2216日条の記事は、縦長四半本「源氏物語」の作製についていっているのではなく、枡形六半本「源氏物語」の作製について記述しているものであると断じられる。

3に、日記に「証本の無き間に所々に尋ね求め、諸本を見合すと雖も、猶ほ狼藉にして未だ不審を散ぜず」というように、このたびの源氏物語の書写作業は、「証本」の作製を目指したものである。そして源氏物語の写本を「所々に尋ね求め」て、それら「諸本を見合すと雖も」というように、そうした多数の中から定家が最も良しとした写本を選び出して、それを「家中の小女等に書写させ」たものであることだ。その本も「猶ほ狼藉にして未だ不審を散ぜず」と弁明しているように、しかしその選定した写本でさえ、定家のいまだ満足のいくような物語本文ではなかったことである。そのことは、自筆本「奥入」の巻尾本文の本文訂正を見るよりも、むしろ注釈のために物語本体から引用された抄出本文の特異な本文例から窺えよう。現存する縦長四半本の源氏物語の本文は、定家が「猶ほ狼藉にして未だ不審を散ぜず」というほど特異な本文ではなかろう。枡形六半本の源氏物語の本文に比較すれば相対的により優れた本文であるといえよう。それに対して、枡形六半本の源氏物語の本文は既に見てきたとおり、特異な独自本文的な性格をもった本文であった。それとこの日記の記事は合致しよう。

4に、日記に「(紫式部の)鴻才の所作、之を仰げば弥よ高し。之を鑽すれば弥よ堅し。短慮を以て寧ぞ之を弁ぜん哉」というように、やや漠然とした内容で、今後さらに物語本文に対する校勘の意志を述べていることである。それに対して、自筆本「奥入」の奥書では、第2点で述べたように、ある程度本文の校勘を行なった体験に基づいた気持ちを吐露している点で、両者の間の表現の差異となって現れているものである。もし、定家が書き本に満足していれば、それは縦長四半本「源氏物語」の書写のように、「ある一本の忠実な書写」ななったであろうが、しかし枡形六半本源氏物語の書き本はそうではなかったのである。したがって、このたびの枡形六半本の「源氏物語」五十四帖の書写了は、「証本」の完成をいうのではなく、これから定家が本文校訂を行なっていこうとする源氏物語の土台本の出来上がったことをさすものであることだ。定家は、そうしてさっそく自筆本「奥入」の奥書にあるように、物語本体から奥入が切断されるまで(定家72の、天福元年〈1333年〉1011日に出家)およそ10年の間続けられていったものであることだ。そして自筆本「奥入」の奥書に「華夷遐迩に披露して門々戸々に書写」されたとあるように、その間に、定家の校勘の手の加わった枡形六半本「源氏物語」を書き本としていわゆる定家本が生れ出たことである。そうした書写本の中に、定家加筆の書き本を重んじて、ある場合には「ある一本の忠実な書写に終始しているよう」な写本が作り出されたことも十分に考えられうることである。

(画像略)

(図3-2)冷泉家時雨亭文庫蔵「明月記」元仁2216日条

 

@「自去年十一月以家中小女等令書源氏物語五十

四帖昨日表紙訖今日書外題年来懈怠家

中無此物〔建久比被盗了〕無証本之間尋求所々

見合諸本猶狼藉未散不審雖狂言綺語

鴻才之所作仰之弥高鑽之弥堅以短慮

弁之哉」(注52

 次に、「明月記」のもう一条の記事について述べる。

それは同じく「明月記」嘉禄3年(12271013日条(定家66)に「日来給ひ置く源氏二部を室町殿(藤原道家)〔家本を以て粗ぼ見合せ其の詞を用捨す〕に返上す」とある記事である。

この記事が枡形六半本「源氏物語に関するものであることは、第1にこの日記の直近の記事として、2年前、すなわち元仁2年(122521664歳)に「家中の小女等」に書写させて完成した「源氏物語」54帖がある。その時からまだ2年半しか経過していない。よってこの源氏物語をおいて他に考えられないことである。

2に、その本を「家本」と記述していることである。それは他家の本に対して自家の本という意味での「家本」という言い方をしたのであろうが、「家本」と呼称して「証本」とはいっていないことである。元仁元年(122411月からの源氏物語の作製作業は、建久の頃に「盗失」した源氏物語の「証本」の作製を目的としたものである。しかし、ここで「証本」とはいはずに、「家本」と記しているのは、それがいまだ完成していず、校訂段階の途上にある本文内容であることを想定させるである。それは枡形六半本「源氏物語」の本文内容にふさわしいものである。縦長四半本「源氏物語」の本文内容は、ある意味で「証本」と称しても良いある一定の完成度の高いものであるからだ。

3に、「粗ぼ見合せ其の詞を用捨す」といっていることと、自筆本「奥入」の奥書に「此の愚本は数多の旧手跡の本を求めて彼れ是れ抽き用捨す」と記していることと同じことをいっていると考えられるからである。おそらく室町殿の「源氏物語」二部もありきたりの源氏物語の写本ではなく「旧手跡の本」の類であったろうことが推測される。そうした「旧手跡の本」との対校によって「其の詞を用捨」したものであれば、物語本文中にさまざまな校訂跡のある本が想定される。それは他本との対校によってさまざまな校訂跡を留めている枡形六半本「源氏物語」の本文の様態こそがふさわしい。縦長四半本「源氏物語」の「柏木」などは「ある一本の忠実な書写に終始している」と評されるのとは大きく相違する。

なお、「日来給ひ置く」の期間がどれほどの期間であったか、文字通りに数日来と解することは適切ではあるまい。常識的に考えてもある程度の長い期間を想定すべきだろう。「家本」と「源氏二部」との対校作業であり、しかも「粗ぼ見合せ」たというが、ただ「見合」せただけではなく、「其の詞を用捨」したといっているのだから、いろいろと熟慮することもあったであろう、したがって、この「日来」とは以上のような作業をし終えるだけのかなりの長い期間をいっているものであろう。

(画像略)

(図3-3)冷泉家時雨亭文庫蔵「明月記」嘉禄3年(安貞元年〈1227年〉)1013日条

 

A「日来給置源氏二部返上于室町殿(藤原道家)〔以家本粗見/合用捨其詞〕(注53

以上、枡形六半本「源氏物語」は、元仁2年(122521664歳)に「家本」(今後校訂していく土台本)として作製され、嘉禄3年(12271013日(66)にはそれまで室町殿から借りていた「旧手跡」の「源氏物語」との対校を終えて返上した。「数多」といっているから、定家はこのほかにも源氏物語の旧手跡の本を借り受けて対校をしたことだろう。その一方で定家はこの枡形六半本「源氏物語」を広く書写することを許していたところ、思わぬ誹謗を受けたので、定家は出家した天福元年(12331011日(72)以後に物語本体部と注釈の奥入部とを切り離して、それぞれを別仕立てにし、殊に「奥入」については「向後は他見を停止すべき他無し」とした。

しかし、物語本文については「纔に勘加の事有りと雖も又是れ未だ尋ね得るに及ばざるを言ふに足らず」と考えていたので、以後は、物語本文と奥入とをそれぞれ別々に校勘の手を加えていった。ところで、定家はその後、物語本体だけの源氏物語と注釈の奥入を一切門外不出にしてしまったかといえば、鎌倉・南北朝期写の「青表紙本」(定家本)系の古写本や複数の系統の「奥入」諸本の存在は、その後も求めに応じて書写させていたことを十分に窺わせるのである。その結果、この枡形六半本「源氏物語」=定家校訂の土台本を祖本とする定家校訂段階のさまざまなバ-ジョンの写本が生まれた。一つは、天福元年(1233)以後の物語本体と奥入とが切り離される以前に書写された「前・定家本源氏物語」である。もう一つは物語本体と奥入とが切り離された以後のさらに定家の校勘の手の加わった本を書写した「後・定家本源氏物語」である。なお前者には、理論的には嘉禄3年(1227)に室町殿から借り受けた源氏物語と対校する以前の枡形六半本「源氏物語」を書写したものと、室町殿から借り受けた源氏物語と対校した以後の枡形六半本「源氏物語」とを書写したものとに分けて考えることもできようが、定家はそれ以外にも「数多の旧手跡」の源氏物語とも対校していたから、それとの対校以前、対校以後を書写したものとも分けられてくるが、現存する「青表紙本」(定家本)の古写本をそれらに同定していくことはまず不可能であろう。ただ、鎌倉・南北朝期写の「青表紙本」グル-プと縦長四半本「源氏物語」(尊経閣文庫本・明融臨模本・大島本グル-プ)の大きな対立と、また鎌倉・南北朝期写の「青表紙本」グル-プの中でもさまざまな異文対立があるのは、以上述べてきたことと密接な関係があるものと考えている。もし、そういうことがいえるとなれば、縦長四半本「源氏物語」はどの時点で誕生した定家本であるか、という問題の究明である。すなわち、天福元年(1233)以後の物語本体と奥入とが切り離される以前に書写された「前・定家本源氏物語」であるか、それとも物語本体と奥入とが切り離された以後のさらに定家の校勘の手の加わった本を書写した「後・定家本源氏物語」であるか、ということだ。第2節で明らかにしよう。

次に、枡形六半本「源氏物語」の書写様式、和歌書式、本文訂正の3点からこの本の性格を明らかにしていこう。

 

(2)書写様式

 枡形六半本「源氏物語」の書写様式として、ここでは一面の行数及び行頭・行末の文字位置、行頭の同字字母の書き分け等からその性格を明らかにする。

まず、尊経閣文庫蔵の「花散里」「柏木」等の縦長四半本「源氏物語」の書写様式は、例えば「柏木」では一面が8行書から11行書までさまざま見られた。また「花散里」でも9行書と10行書とで統一性はなかった。すなわち、いずれも不定形式の書写様式であった。

それに対して、枡形六半本「源氏物語」の書写様式に関しては、幸い物語本文の最終丁(両面)が完全な形で残っている「真木柱」(表面12行・裏面2)と「柏木」(表面12行・裏面5行)がある。それらの表面はいずれも一面12行書という書写様式である。

その他の巻では、比較的残存行数の多く残りの余白が明瞭な巻では、「松風」9行)、「夕顔」8行)、「梅枝」8行)がある。それらの残存余白から推測すると、「松風」では左端を約2行分余している。「夕顔」では左端を約3行分余している。「梅枝」ではほぼ紙面いっぱいに書き、余白約1行分を残しているから、それらの巻の他の面においても少なくとも11行は書かれていたはずである。そして、それら以外の残存行数の少ない巻でも、それらの文字の大きさもまた行間もほぼ一定なので、同様に考えることができる。そうなると、「真木柱」「柏木」の一面12行書に非常に近いものとなる。枡形六半本「源氏物語」の本文の書写様式は一面12行書の定形の書写様式であった可能性が高い。少なくとも一定形式の書写様式であったことはいえそうである。

次に、縦長四半本「源氏物語」は、基本的に和歌の改行位置以外は天地を揃えて書写するという様式であったが、枡形六半本「源氏物語」では、必ずしもそのような書写様式ではなかった。例えば、「蓬生」は最終2行を雁行書にし、「玉鬘」では最終1行の2文字を地付き書し、「梅枝」では最終6行を雁行書にし、「竹河」では最終2行を雁行書、「早蕨」では最終12文字を地付き書、「蜻蛉」でも12文字を雁行書にしている。

 枡形六半本「源氏物語」の書写様式は一面の行詰めこそは決まりがあったようだが、最終面の行末の書き方は変化に富んだ美的で書写者に任された比較的自由な書写様式であったといえよう。それ対して、縦長四半本「源氏物語」では一面の行詰めこそは自由であったが、各行の天地をきちんと揃えて書写するというのはやや自由性を欠く定形的な書写様式であったといえよう。

次に、藤原定家は行頭に同文字が来た場合、あるいは隣の行に同文字が来た場合などには、それらの字母を書き分けることによって、目移りによる書き写しの誤りのないような配慮をしている(注54。そこで、自筆本「奥入」巻尾本文における行頭に同字が来た場合についての書き分け状況についてみると、わずかな残存本文からのデ-タとなるが、行頭に同字が来ている全4例中3例の字母が書き分けられており(75.0%)、1例が同じ字母が使用されている(25.0%)。「家中の小女等」筆という性格である。

 

(表3-1)自筆本「奥入」巻尾本文における行頭同字の字母書き分け状況

巻名

夕顔

松風

柏木

竹河

前行

 

 

 

 宇

中行

 

 

 

 

後行

 

 

 

 宇

 

「夕顔」では巻尾本文の78行目の行頭「の」について、それらの字母が「能」と「乃」というように書き分けられている。

@「したまひけれハなむ(△△2なむ)あまりも

いひさかなきつミさりところなく」

「松風」では巻尾本文の567行目の行頭に「た」が3行並ぶが、それぞれ字母「多」「堂」「多」と書き分けられている。

A「うのね仏なとまちいてゝ月にふた
ひはかりの御ちきりなめりとしのわ
りにハたちまさりぬへかめるをゝよ」

「柏木」の巻尾本文では910行目の行頭「い」について、それらの字母が「以」と「伊」というように書き分けられている。

B「ふことくさなにことにつけても

はぬ人なし六条の院にハまし

しかし、「竹河」の巻尾本文では23行目の行頭に同字「う」が並ぶが、ともに字母「宇」が使用されている。

C「宇ときこゆめりしそこのころと

宇の中将ときこゆめるとしよハ

 なぜここだけ字母の書き分けがなされていないのか。それはおそらく「う」の字母の種類が少なかったことによるのではなかろうか。例えば他に「有」「乎」「憂」「雲」などもあるが(注55、その多くは平安期の古写本に見られるもので用例も少ないものである。そのような事情で、ここでは書き分けされていないのであろうと考えられる。とはいえ、字母の崩し方を変えるという方法もあるが、「宇」という字母自体が比較的単純な字体なので、それもしなかったのであろう。

 以上、枡形六半本「源氏物語」の書写様式は、定家監督の下に「家本」の作製、すなわち将来の「証本」作製のための土台本としての作製であった。よって、書き本の本文を尊重するとともに定家本の書写様式に当てはめながら作製されていったものである。

 

(3)和歌書式

次に、枡形六半本「源氏物語」の和歌の書写様式について述べる。

定家の和歌書式は上句と下句との間で改行する方式であった。ところで、縦長四半本「源氏物語」の原本である尊経閣文庫蔵の「花散里」「柏木」では、確かにそのとおりではあるが、明融臨模本を含めて定家原本における和歌の書写様式を考えると、必ずしもそうではなく、A型からG型まで全て7通り見られることを指摘した(注56。うち、A型からE型までは上句と下句との境で改行しているが、F型からG型までは上句と下句の境以外のところで改行しているのであった。なお後者の事例はいずれも非定家筆の巻及び定家との寄合書の非定家筆部におけるものであった。

A型:上句と下句とで改行し、その下に直接、地の文を続ける……柏木(定家筆部@AB3首・非定家筆部DEIJ4首)

B型:上句と下句とで改行し、改行して地の文を書く……柏木(非定家筆部CH2首)

C型:上句と下句とで改行し、その下に約1字分の余白を設けて、地の文を続ける……柏木(非定家筆部FG2首)

D型:上句と下句とで改行し、和歌の頭の高さを揃えて書き、改行して地の文を書く……花散里(@1首)

E型:上句と下句とで改行し、和歌の頭の高さを揃えて書き、その下に直接、地の文を続ける……花散里(ABC3首)

F型:上句・下句以外のところで改行し、その下に直接あるいは約1字分の余白を設けて、地の文を続ける……若菜上23首)・若菜下6首)・浮舟(非定家筆部2

G型:上句・下句以外のところで改行し、和歌の頭の高さを揃えて書き、その下に直接あるいは約1字分の余白を設けて、地の文を続ける……帚木5首)

それでは、枡形六半本「源氏物語」の和歌書式はどうであるか。自筆本「奥入」所載「源氏物語」には、「真木柱」に和歌2首、「梅枝」に和歌1が記載されている。すなわち、

 @  「おき(△△&おき)つなみよるへなみちニ

たゝよはゝさほ(さほ&さほ)さしよらむとまり

越しへ(よ&に)たなゝしをふねこきかへり」(真木柱426

 A  「よるへなみかせのさはかす

ふな人も思はぬかたにいそつたひ

せすとてはしたなかめりとや」(真木柱427

B  「かきりとてわすれかたき/を

わするゝもこやよになひ

く心なるらん/と

あるをあやしとうち越かれ/す

かたふきつゝミゐ
            給へり」(梅枝438

「真木柱」の@「おきつなみ」426は、まず冒頭を2字下げて書き出し、[五七/五七三/四]という改行で、改行した後はその行頭を地の文と同じ高さにして、歌の下に地の文を直接続けている。

同じくAの「よるへなみ」427も、まず冒頭を2字下げて書き出し、[五七/五七五/二]で、改行した後はその行頭を地の文と同じ高さにして、歌の下に地の文を直接続けている。

「梅枝」のB「かきりとて」438ではまず冒頭を2字下げて書き出し、[五六/一/五六/八] という改行で、改行した後は雁行書にして徐々に行頭を下げていき、歌の下に地の文を直接続けている。

以上、枡形六半本「源氏物語」の和歌の書写様式は、上句と下句の境以外のところで改行しているという点では縦長四半本「源氏物語」の非定家筆に共通するが、基本的には[五七/五七/七]の三行書で、しかも2行目3句と第4句さらに3行目となる第5句では意図的に前の句と後の句と結合させたり一つの句を分離させたりして途中で改行するという趣向を凝らしていることである。そうして歌の下に地の文を直接続けるという書写様式である。それは縦長四半本「源氏物語」の和歌様式とは明らかに違った和歌様式である。このことは、六半本という紙型条件による問題ではない。例えば、同じ定家自筆とされる枡形本であっても、天福本「伊勢物語」(学習院大学蔵本)や御物本「更級日記」(宮内庁尚蔵館蔵)では上句と下句との間で改行しているからである。よってこのような和歌書式は枡形六半本「源氏物語」の独特のものであるといわねばなるまい。なぜこのような和歌の書写様式がとられたのか。和歌を三行書きに書く場合は[五七/五七/七]の三行書にするという書法は、「源氏釈」の著者である藤原伊行の「夜鶴庭訓抄」に説かれている書様である(注57。しかし枡形六半本「源氏物語」ではそれを基本としながらも若干の工夫と趣向を凝らしている。おそらく一つには枡形六半本「源氏物語」の書き本に和歌が三行書で書かれていたことによるか、あるいは書写者である「家中の小女等」の和歌の書法によるかと想像される。いずれにしても枡形六半本「源氏物語」の和歌書式(三行書き)が定家本以前の和歌の書様で、やがて定家によって、例えば縦長四半本「源氏物語」の二行書きの和歌書式に変更されていくものであることは、この本の性格上注意しておきたいことである。

 

(4)書写者と定家の本文訂正

自筆本「奥入」の巻尾本文中における本文訂正跡は、すべてが定家の筆というのではなく、本文書写者自身による訂正跡と定家による本文訂正跡との2りが存在することを既に指摘した。

書写者自身による本文訂正は、書写途中で自らの誤写に気づいて直ちに訂正したり、書写終了後に見直しをした際などに誤写に気づいての訂正したものである。

それに対して、定家の本文訂正は源氏物語の本文内容に関する改変や仮名遣いに関する訂正など、さらには不明瞭な文字を明確にした本文訂正である。

以下、具体的にその事例を逐一みていく。

(@)【書写者の本文訂正】

書写者による本文訂正跡は、「夕顔」「蓬生」「松風」「行幸」「柏木」「蜻蛉」の67見られる。

書写者による本文訂正は、書き本を書写している際に誤写に気づいて自ら訂正したものがまずは第一である。その誤写をどのように訂正しているか。一つには、誤写した元の文字をいったん摺り消して、その上に重ね書きして訂正するという方法、あるいは直接に重ね書きした訂正方法。二つには誤脱した文字を補入する方法である。

その訂正態度は、全体的に比較的体裁よくきれいな訂正痕跡を残している。

(表3-2)枡形六半本「源氏物語」書写者(家中小女等)の本文訂正の内容と方法

 

巻名

本文訂正修訂内容

訂正方法

1

夕顔A

  B

5

7

かたほ(△2)ならす物ほめかちなる

のしたまひけれハなむ(△△2なむ)あまりも

直接重ね書き

摺り消し重ね書き

2

蓬生@

 4

おりにおもひいてゝな(△1な)ん

直接重ね書き

3

松風@

 1

ら(△2ら)うたきものにしたまふ御心なれは

摺り消し重ね書き

4

行幸@

 5

かてらハしたなめたまふなとさま/\い(ま/\に2ま/\い

摺り消し重ね書き

5

柏木A

3

し給けれ(る10)はさしもあるましき

直接重ね書き・併記

6

蜻蛉A

2

か(1)とれいのひとりこちた

補入

7

 

 

 

 

【1】摺り消し重ね書き訂正4例)

 「夕顔」AB「松風」@「行幸」@は、いずれも元の文字を摺り消してその上に重ね書き訂正(&したものである。途中まで書きかけて誤写に気づいて、その文字を摺り消して訂正したものと考えられる。

「行幸」@は、元の文字がかろうじて判読できる。それは「さま/\に」の書いて、「に」ではなく「いひけり」と続く文であることを知って、活用語尾「に」を摺り消して「い」と訂正して「ひけり」と訂正したものである。

書写者による摺り消し訂正は写本を美しく書写し仕上げようとする意志・方向性が窺えるのである。

【2】直接重ね書き訂正2例)

 それに対して、「蓬生」@は、元の文字の上に直接重ね書き訂正(&した訂正である。書写者訂正方法としては例外というほどではないが、少数派である。なぜ直接重ね書きしたものか。その事情を推測するに、初め書いた文字が細く薄かったためであろう、そのために再度重ね書きして修正したものと考えられる。

 「柏木」Aは、「蓬生」@と同様に元の文字が細く薄かったためであろうか、直接重ね書きして訂正したものと考えられる。訂正以前本文の「ものし給けるはさしもあるまじき」という形でも文意は続きそうであるが、「大成校異篇」にはこの箇所、異文は存在しない。よって枡形六半本「柏木」の独自異文。これをその書き本の本文の形と見るか、あるいは書写者の誤写と見るか。私は、併記された訂正文字が本行本文の文字と同筆跡であることから、書写者の思い込みによる誤写の訂正と判断するのである。つまり、本行本文「る(留)」の上に「れ(連)」と重ね書きしたために読み難いと思ってかその右傍らに「れ(礼)」と併記したものである。これも活用形「けれは」(已然形)に続くところを「ける」(連体形)と書き誤って、それ直ちに訂正したものと考えられる。

 見苦しくならない程度のやや手を抜いた訂正も存在したといえようか。

【3】補入訂正1例)

 「蜻蛉」Aは、「か」と「と」の間の左傍らに二点ミセケチにも見紛えられる符号があるが、これは文脈内容から圏点(補入符号)と見るべきである。これも書き本に「あるかなきかのと」とあった本文の「の」を脱したことに気づいて直ちに補入符号を付けて補訂したものである。

 ここでは、書写者はなぜ摺り消しした上で訂正しなかったのか、おそらくは幾文字か続けて書いてしまったので、摺り消すのが厄介と考えて体裁よく補入によって訂正したのではなかろうか、と推測したい。

 以上、枡形六半本「源氏物語」における書写者(家中小女等)の本文訂正は自らの誤写に気づいたものを直ちに訂正したものである。したがって書き本を忠実に書写しようとする態度に貫かれた本という性格である。

 

(A)【定家の本文訂正】

定家による本文訂正跡がある巻は、「夕顔」「若紫」「玉鬘」「初音」「真木柱」「柏木」「早蕨」「蜻蛉」の827見られる。

定家による本文訂正は、大別すれば、本文の内容に関わる改変(校訂)に及ぶもの6、また定家の仮名遣いへの訂正2、多義性のある字母を同定させたもの3、また書写者が書いた不明瞭な文字をなぞって明確にしたもの8例)、そして残念ながら元の文字が判読できなくて不明のもの8例)である。いずれも本文の内容に直接的また間接的に関わろうとする校訂で、その意味で、書写者による誤写訂正のレベルとは大きく性格を異にするものである。

 (表3-3)定家の本文訂正の内容と方法

 

巻名

本文訂正修訂内容

訂正方法

1

夕顔@

4

御こならむからにミたら(たら1)む人さへ

ミセケチ削除

2

若紫@

 4

ふし(を2)きなとハえしもすましきを

摺り消し重ね書き

3

玉鬘@

 1

ことはりなりやとそ(△1)/める

直接重ね書き

4

初音@

  A

 BC

  D

 

EF

 1

 2

 3

 

 

 5

た(0)ひて御ことゝものうるわしきふくろ

(ん1)してひめ越かせ給へるミなひき

いてゝをしのこひて(て3)ゆる(へ1)るをとゝの(へ1

 

心(1けさう)をつくし給ら(ん1)かし

補入

直接重ね書き

ミセケチ削除

直接重ね書き

直接重ね書き

補入

直接重ね書き

5

真木柱@

  AB

 

   C

   D

   E

   F

   G

 1

 4

 

 5

 6

 7

 9

11

(△1)さはくこゑいとしるし人/\

  (△2(△1)つなみよるへなたゝ

 

よはゝさほ(さを1さほ)さしよらむとまり

越しへ(よ1)たなゝしをふねこきかへり

おなし人乎やあなわるや(/\2)といふ乎

うゐな(△1)こときこえぬもの乎と思

(△1)かしうて

直接重ね書き

摺り消し重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

摺り消し重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

6

柏木@

  BC

 

  D

  E

 2

 4

 7

11

(さ1)けをたてたる人にそもの

おほ(や1)け人女房なとのとしふる(ふる1ふる

おりことにもまつおほしいてゝな(ん1

てあはれと(お1)ほしいつる事月日にそ

直接重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

直接重ね書き

7

早蕨@

  A

 

  B

1

 2

 

 3

人も(お1)もひの給□□□□□□
への御かハりとなす
らへ(らへ1らへ)きこえてかう
(△1)もひしりけりとみえたてまつるふ

直接重ね書き

直接重ね書き

 

直接重ね書き

8

蜻蛉@

 1

えしかけろふあるかな(△1

直接重ね書き

27

 

 

 

 

【1】直接重ね書き訂正(& 20例)

定家の基本的な訂正方法は本行本文の元の文字の上に直接重ね書きして訂正するという方法である。したがって見た目には少し汚らしい訂正跡を残すことになるが、それは定家の源氏物語「証本」作製のための一階梯の本、すなわち定家の手稿本としての存在意義だったことに関連するのであろう。

 「玉鬘」@「初音」ACDF「真木柱」@BCDFG「柏木」@BCDE「早蕨」@AB「蜻蛉」@である。

 これを訂正内容の性格を分類すると、

・本文内容に関わる訂正……「真木柱」D

・仮名遣いに関わる訂正……「真木柱」C

・変体仮名を同定する修正…「初音」AF「柏木」D

・文字を明確にする修正……「初音」CD「柏木」@BCE「早蕨」@A

・不明……「玉鬘」@「真木柱」@BFG「早蕨」B「蜻蛉」@

定家の本文内容や仮名遣いの訂正に関わる校訂過程については既に述べたところである。変体仮名「ん(无)」が古写本では「も」と「む」との両方に使用されているところを、定家は「ん」が文脈上いずれであるかを確定している。また書写者が書いた文字の線が細く墨色も薄いようなところにはその文字の上に直接重ね書きして明瞭にしている。

【2】摺り消し重ね書き訂正(& 3例)

定家は本文を訂正する際に、元の文字の上に直接重ね書きして訂正するのが普通だが、例外的に元の文字を摺り消した上に重ね書き訂正をしている例がある。

・本文内容に関わる訂正……「真木柱」E

・仮名遣いに関わる訂正……「若紫」@

・不明……「真木柱」A

 なぜ定家はあえて元の文字を摺り消してまで訂正しようとしたのか。「真木柱」Eの「よ(与)」を「に(尓)」と訂正したのは、字体が似ており入筆が右からか、または左からかという相違で、もし元の文字の上に直接重ね書きした場合、左右両方から第1筆が入っているように見えてしまうことになり、あえて元の文字を摺り消してその上に重ね書きしたのではないかと考える。

 「若紫」@の例は定家仮名遣いに関わる訂正である。元の文字「を(遠)」の上に「お(於)」を重ね書きした場合、下の文字と重なって見難いと考えて、あえて元の文字を摺り消してその上に重ね書きしたのではないかと考える。

【3】ミセケチ削除($・$ 各12例)

定家のミセケチ削除には普通に二点ミセケチ符号($を打って削除する形と、抹消に近いミセケチ符号($を付けて削除する形とがある。

・本文内容に関わる訂正……「夕顔」@「初音」B

 いずれも本文内容に関わる削除である。なお、自筆本「奥入」巻尾本文においては、ミセケチを打ってその右傍らに訂正するという例は見られない。定家が本文を訂正しようとする場合には元の文字の上に直接重ね書きするか、あるいは摺り消してその上に重ね書きして訂正している。つまりミセケチという元の文字を見せ残しながら別の本文を傍らに書くというあり方ではなく、はっきりと元の文字を否定して正しい本文に正すという姿勢が窺われる。

【4】補入(+・+ 各12例)

定家の補入には補入符号を文字の間に打たずにその右傍らに補入する形(+と、補入符号(丸印)を打ってその右傍らに補入する形(+とがある。

・本文内容に関わる訂正……「初音」@E

いずれも本文の内容に関わる補入であるが、同じ「初音」巻尾本文の一面の中に片や補入符号があり片や補入符号なし、というのは同一人物による補入と考えられるのか、という疑念がある。筆跡から推測すると、両者同じように見受けられるのだが、それは主観的な印象論でしかない。もう少し言えば、他の訂正跡の墨色とも少し違って墨色がやや薄い感じである。よってこの面の訂正は一度になされた訂正ではなくて、時間をおいてなされたものではないかとも想像されるのである。が、それはともあれ、片方は書写者の誤脱補入ではないか、という考え方も浮上する。具体的には「初音」@の補入符号なしの補入でるが、それは書写者のそれではないかと迷うところがある。もしそうであるとすれば、書写者が誤脱に気づいて補入したものとなろう。

 以上、定家の本文内容及び仮名遣いに関わる訂正と多義性をもつ変体仮名の確定や薄い文字の明瞭に関わる修正についてみると、巻によって偏向性があることが分かる。

 すなわち、前者は「夕顔」「若紫」「初音」「真木柱」「柏木」等である。後者は「初音」「柏木」「早蕨」である。もちろん両方にまたがる巻もあるが、後者だけという巻は「早蕨」だけとなる。なお元の文字が判読不明のために訂正された文字との関係が分からず、訂正内容が不明という巻が「玉鬘」「蜻蛉」である。さらに、自筆本「奥入」巻尾本文において書写者による訂正跡もまた定家の訂正跡も見られないという巻に、「梅枝」「藤裏葉」「竹河」の3巻があった。

今、自筆本「奥入」巻尾本文14帖において、定家の本文内容及び仮名遣いに関わる訂正のある巻は5帖である514。さらに前者と重複する巻を除いた多義性をもつ変体仮名の確定や薄い文字の明瞭に関わる修正のある巻「早蕨」1帖を加えると614となる。さらに訂正以前の文字が判読できないために訂正内容が不明となる「玉鬘」1帖を加えると、14帖中7帖に何らかの定家の手が加わっていることが判明する。なお、書写者の訂正跡のみの巻が4帖あり、訂正跡ナシという巻が3帖ある714

以上、自筆本「奥入」巻尾本文における家中の小女等の本文訂正跡と定家の本文訂正・文字修正跡について見てきた。これらの痕跡は、定家が元仁2122521664歳)に出来上がった定家の源氏物語の「家本」に、嘉禄31227101366に室町殿(藤原道家)から借り受けた「源氏物語」2本と「見合せ其の詞を用捨」し返上したのを始めとして、さまざまの旧手跡の「源氏物語」と「見合」せ、枡形六半本「源氏物語」から物語本体と奥入とを切り離す以前まで天福元年101172歳)頃までの約10年弱の間の校訂痕跡と考えられるものである。