二 定家自筆本「奥入」抄出本文の再検討

 

(1)定家自筆本「奥入」抄出本文の概要

定家自筆本「奥入」には定家が自ら注釈のために源氏物語の本文中から摘出した文章または語句が存在する。

それらには忠実に抄出されたものもあればまた要約改変されて載せられているものもある。全体で、文50事例、語26事例、合計76事例ある。なお、その中には朱筆で書かれた文や語もある。いずれも定家筆と目されるものである。

それらの抄出された文や語を「大成校異篇」(大島本等)と比較すると、本文の異同が文で12事例、語が7事例ある。しかし、それらの中には要約や改変されたものや仮名遣いの異同などもある。

例えば、要約・改変された語として、次のような7例である。

@「屯食事」(桐壺・自筆本奥入4オ)-「とむしき」(大成26F 底本は池田本)

A「二道」(帚木・7オ)-「ふたつのみち」(59D 底本は大島本、以下同)

B「揚名介」(夕顔・12ウ)-「やうめいのすけ」(105@)

C「三千里外」(須磨・30ウ)-「三千里のほか」(413I)

D「向風嘶」(須磨・31ウ)-「かせにあたりてはいはへぬへけれは」(434@)

D「五濁」(蓬生・40ウ)-「いつゝのにごり」(528A)

E「夜光玉」(松風・43ウ)-「よるひかりけむたま」(583L)

F「三従」(藤袴・65オ)-「女は三にしたがふ」(923J)

G「宇陀法師」(藤裏葉・67オ)-「宇多の法師」(1018E)

H「楊貴妃のかむさしのこと」(宿木・121オ)-「ほうらいまで尋てかんざしのかざりをつたへて」(1786G)

@からGまで、すべて漢字で要約された注釈項目となっている。Hはすべて漢字表記にはなっていないが「-のこと」という注釈項目となっている。

以上の要約・改変された注釈項目からは自筆本「奥入」所載の「源氏物語」本文の性格を窺うことはできない。これらの異同については予め除外する。

それらを除くと76例中、実質的に10例の本文の異同が見られるということになる。そのうち、次のような仮名遣いの異同が2例見られる。

@「なおし」(少女・51ウ)-「なをし」(大成697D 底本は大島本、以下同)

A「かわふえ」(紅梅・98オ)-「かはふえ」(1452M)

仮名遣いの異同の問題に関しては、後世に「定家仮名遣い」また「定家の仮名遣い」という呼称があるように、定家自身が自分流の仮名遣いを実践しているので、これを考察の一つに取り上げて慎重に検討しなければならない問題である。

@は「直衣」の仮名遣いに関して、自筆本「奥入」の抄出本文では「なおし」の仮名遣い、一方、大島本では「なをし」の仮名遣いである。

歴史的仮名遣いでは「なほし」である。自筆本「奥入」の注釈部は定家自筆と考えられているものであるが、前項で考察してきたとおり、誤った先入観によることもあるので、慎重に検討しなければいけない。

「未通女」(少女)の注釈部は全3面書かれているが、第112行、第211行、最終第3面は9行そして約12行の余白を残す。

漢文の注釈(振り仮名付き)や万葉仮名表記の歌謡等を中心とした注釈であるが、一貫した書式で書かれたもののようである。この「なおし」の文字も他の文章・文字と同じように書かれているので、まずは定家自筆と認められるものである。

なお、尊経閣文庫蔵・定家原本「柏木」(503)にも「なおし」という仮名遣いが見られるが、厳密に言えば、それは非定家筆部分における表記なので、この自筆本「奥入」中の定家自筆による「なおし」の事例を補強・支持するような事例ではない。

Aの「皮笛」(口笛、の意)の歴史的仮名遣いは「かはぶえ」である。源氏物語中の用例はこれ1例のみで、他にない。他の作品では「宇津保物語」(国譲中)にもあるが、「皮」であればその歴史的仮名遣いは「かは」である。よって定家の仮名遣いはその意味で正しくない。大島本の仮名遣いが正しいということになる。

なお、自筆本「奥入」には朱筆によって書き加えられた抄出本文の文や語も存在する。これらは、定家が「奥入」の注釈に朱筆で掛点や訓点等を加えた際に同じように朱筆で書き記したものである。その字体・書風を見ても、定家自筆を疑うものではない。

次に、定家自筆本「奥入」抄出本文の文(文章・文節)と語(語句・語)の概要について、それらの事例数を表にして掲載する。なお、朱書によるものは( )内にその事例数を記した。朱書のものには墨筆で抄出した本文と重複するものもあるが、延べ数で表した。

(表2-1)自筆本「奥入」の抄出本文(文・語)の概要

巻 名

文(朱書

語(朱書

計(異同)

【1】桐 壺

4

  3

  71

【2】帚 木

  2

  5

  71

【3】夕 顔

 

 1

  11

【4】若 紫

  1

  1

  21

【5】末摘花

  1

  2

  3

【6】 葵

  0

  1

  1

【7】賢 木

  1

  0

  1

【8】須 磨

  5

  2

  72

【9】明 石

  21

  1

  31

10】澪 標

  1

  0

  1

11】蓬 生

   0

  2

  21

12】関 屋

  1

   0

  11

13】松 風

   0

  1

  11

14】少 女

 1

   0

  11

15】玉 鬘

  1

   0

  1

16】初 音

  32

  1

  41

17】胡 蝶

  1

   0

  1

18】常 夏

  1

 1

  2

19】野 分

  1

   0

  1

20】藤 袴

  1

  1

  21

21】藤裏葉

  3

  1

  4

22】若菜下

  32

  11

  41

23】夕 霧

  1

   0

  1

24】 幻

  1

   0

  1

25】匂 宮

  1

   0

  1

26】紅 梅

   0

  1

  11

27】早 蕨

  1

   0

  1

28】宿 木

  8

   0

  83

29】東 屋

  1

  11

  2

30】浮 舟

 1

   0

  1

31】蜻 蛉

 32

   0

  3

 合 計

507

  262

  7619

 

(2)自筆本「奥入」抄出本文の性格と系統

前項に引き続いて、自筆本「奥入」の抄出本文の性格と系統が、巻尾本文と同様に、定家本「源氏物語」の中でも初期的段階に位置づけられる本文であることについて実証していこう。

その特徴は、「桐壺」「若紫」「末摘花」等の抄出本文の事例に見られるように特異な独自異文的な性格の本文であることである。それは定家校訂本以前の書き本の性格を暗示するとともに、一つにはそれを尊重する定家の書き本に対する信頼感と、また一方には時にその本文を改訂することもあるという、書写校勘態度の両面性を推測させるのである。

以下、自筆本「奥入」の抄出本文(文と語)を巻毎に掲出し、特に「大成校異篇」底本(大島本等)と本文異同のある箇所について実証していく。

【1】「桐壺」抄出本文(文4・語3

自筆本「奥入」の「桐壺」中には、文4例、語3例、合計7例の抄出本文がある。うち抄出本文の文1例には「大成校異篇」(底本 池田本)の本文との間に異同がある。

@「命婦」(2オ・大成11GK)

A「まくらこと」(2ウ・大成16G)

B「なき人のすみかたつねいてたりけむかたみのかむさし」(2ウ・大成17D)

C「ともし火をかゝけつくして」(2ウ・大成18D)

D「あさまつりことはをこたらせ給」(3オ・大成18G)

E「右近のつかさのとのゐ申のこゑきこゆるハうしになりぬるなるへし」(3オ・大成18D)

F「屯食事」(4オ・大成26F)

@AFが語の事例である。ただし、Fは「とむしきろくのからひつ」(大成26F)という本文の「屯食」に関する注釈項目であるが、「-事」という形は要約・改変した型式として扱う。

BCDEは、自筆本「奥入」付載の「源氏物語」(枡形六半本)の本文中から抄出された文である。CDEの文は、「大成校異篇」(底本 池田本)と本文異同のない抄出本文である。

ところが、Bは「大成校異篇」(底本 池田本)と本文の異同がある。しかも、その本文異同が、自筆本「奥入」の抄出本文と同じく明融臨模本「桐壺」の「奥入」の抄出本文では「かたみのかむさし」となっているのに対して、池田本・明融臨模本・大島本他の青表紙本等の本文では「しるしのかむさし」という本文なのである。つまり明融臨模本「桐壺」においては本文中では「しるしのかむさし」であるが、奥入の抄出本文としては「かたみのかむさし」という恰好になっているのである。

かたみのかむさし」自奥・明奥-しるしのかむさし」明大池横穂肖三証・河・別(御陽国麦阿)・釈(抄冷前)

参考までに「大成校異篇」から河内本及び別本さらに「源氏釈」諸本の抄出本文も加えた。それらにおいてすべて「しるしのかんさし」とある。

さらに、「奥入」諸本に目を転じると、自筆本「奥入」と明融臨模本の「奥入」の抄出本文以外にも、現存する「奥入」諸本(異本系・別本系)はすべて「かたみのかむざし」とある。つまり「かたみのかむざし」とは、「奥入」所引本文において見られるものである。

なぜこのような相違が起こったのだろうか。2通り考えられる。

一つは、定家が「奥入」を作成する際に、記憶違いかあるいは思い込みによって誤記したという推測である。

もう一つは、自筆本「奥入」付載の「源氏物語」(枡形六半本)の本文中には「かたみの」とあったという考え方である。

いずれにしても「奥入」の成立にも関わる問題であろう。つまりある時点から「奥入」は「奥入」で成立し書写されていき、本文は本文で成立していったもので、それらがある時点で、本文と奥入とが合体したときに、こうした矛盾齟齬を呈しているのだ、と推測できないだろうか。

明融臨模本「桐壺」の奥入が第1次本、自筆本奥入が第2次本であるという説に立って考えると、本文中には「しるしのかむさし」とあるのに対して奥入では「かたみのかむさし」とあるのがなぜなのか、説明がつかない。そこで、単純に定家の記憶違いかあるいは思い込みによる誤記か、という推測になる。

しかし、本当にそれだけだろうだろうか、という疑念もぬぐいきれない。そこで、逆に自筆本奥入が第1次本で、明融臨模本「桐壺」の奥入が第2次本であるという説に立って考えると、定家が拠った枡形本「源氏物語」(六半本型)の本文には「かたみのかむさし」とあり、奥入に引用する際に、その本文に従って「かたみのかむさし」とした。その後、枡形本「源氏物語」(六半本型)の本体と奥入とが切り離されて、本文の校訂と奥入の校勘とがそれぞれ別々になされていった過程で、定家は亡き人の住処を尋ね当てたという、その簪であるから、文脈的には「証拠の簪」が「遺品の簪」よりも直截的で理屈に適っていると考え直して、本文中の「かたみのかむさし」(遺品の簪)を「しるしのかむさし」(証拠の簪)と改訂した。そうした中で出来上がったのが明融臨模本「桐壺」の原本である定家原本「桐壺」であった。その時に、再び「桐壺」本体に奥入を合体させたが、しかし奥入は注釈が重要な要点なので抄出本文の問題については軽視されそのままになってしまった。そこで改訂された本体の本文と奥入の旧のままの抄出本文との間で齟齬するものが出来上がってしまった、という推測である。私は、この解釈をとる。

【2】「帚木」抄出本文(文2・語5

自筆本「奥入」の「帚木」の抄出本文は文2例、語5例あるが、それら2つの抄出本文と明融臨模本及び大島本の本文は同文である。よって「帚木」では特に問題なし。

 @「二道」(7オ・大成59D)

A「三史」(7オ・大成61H)

B「五経」(7ウ・大成61H)

 C「まとのうちなるほとは」(7ウ・大成37J)

 D「ふたつのみちうたふをきけ」(7ウ・大成59D)

 E「なかゝみ」(9ウ・大成63K)

 F「なか河」(9ウ・大成64@)

【3】「夕顔」抄出本文(語1

自筆本奥入「夕顔」の抄出本文の語1例は、本文中の仮名表記を漢字表記にしたもので、要約・改変の項目で掲出した。

@「揚名介」(12ウ・大成105@)

【4】「若紫」抄出本文(文1・語1

自筆本奥入「若紫」の抄出本文は文1例、語1例あるが、抄出本文の文1例には「大成校異篇」(底本 大島本)との間に本文の異同がある。

 @「なそこひさらむ」(14ウ・大成181M)

 A「くらふの山」(14ウ・大成174C)

自筆本奥入の抄出本文「なそこひさらむ」の右肩上には、墨筆でやや小さく「未勘」と記されている。その筆者は未詳であるが、遂に引き歌の出典を探り当て得なかった、という意味であろう。

今、「大成校異篇」以外の諸本をも加えてその異同を示すと次のとおりである。

イ「なそこひさらむ」(自奥・御榊三吉東蓬後青・河(尾大鳳)・別(中))

 ロ「なそこひ(ひ$え)さらん」(横池)

 ハ「なと(と=そ)こひさらん」(穂)

 二「なそこえさらん」(肖証明・河(宮)・別(麦阿))

 ホ「こなそひ(ひ$え)さらむ」(河(七))

 へ「なそうるさからん」(別(陽))

 ト「なとこえさらん」(釈(冷))

 チ「なそこひさらんか」(釈(冷イ))

 リ「なとこひさらん」(釈(前))

この箇所は引き歌に関する本文箇所である。定家が自筆本「奥入」において、「人しれす身はいそけとも年をへて/なとこえ(衣)かたきあふさかのせき」(14オ)と指摘した(大島本の奥入には、初句「人しれぬ」とある)。先行する藤原伊行「源氏釈」では、冷泉家本では「たつぬへし」とあり、前田家本では約一行分が空白のままとなっていた未指摘のものであった。

すなわち「人しれぬ身はいそげども年をへてなどこえがたき相坂の関」(注36という「後撰集」恋三、731、藤原伊尹の和歌である。そして現行の諸注釈書においてもこの和歌が妥当な引き歌として指摘されている。

ところで、定家は自筆本奥入及び大島本「若紫」の奥入において、いったんは指摘しておきながら、自筆本奥入の方には、なぜ「未勘」と記したのか。そして大島本の奥入にはそれがないのか。

自筆本奥入の物語本文は「なそこひさらん」であったのに対して、定家が指摘した和歌本文は「なとこえかたき」という和歌本文であった。

つまり「なと」と「なそ」との異同もあるが、問題は「こひ(恋)」と「こえ(越)」という大きな相異があるのである。

阿部秋生氏は物語本文について、「鎌倉時代書写の本はすべて「なそこひさらん」で、「なそこえさらん」とあるのは室町時代書写の本だけである。となると、「こひさらん」を採るべきかと思うが、そうなると後撰集の「人しれぬ」の歌は使えない」(注37と論じていた。

定家が「未勘」としたのも、おそらくは本文が「なそこひさらむ」とあるので、その本文に適う証歌をさらに探し続けようとしたのだろう。

ところで、藤原伊行が「源氏釈」で指摘できなかった理由もそのことと関連するのだろうか。冷泉家本の本行本文では「なとこえさらん」とあるが、その対校本文のイ本として「なそこひさらんか」と記していた。そして前田家本には「なとこひさらん」とある。つまり「こえ」と「こひ」の2通りの本文間で揺らいでいたのである。

本文は「うちすしたまへるを」と続くところであるから、和歌の文句が入るのが適切である。したがって、阿部秋生氏他の「新編全集本」では本文を「なぞ恋ひざらん」と本文を改訂し、しかし注記には「人知れぬ」歌を指摘するのは矛盾である(注38。一方、「新大系本」では本文「なぞ越えざらん」のままであるが、しかし、その引き歌には言及しないのは不十分である(注39

ところで、阿部秋生氏は「「なそこえさらん」とあるのは室町時代書写の本だけである」と、明融臨模本や大島本等の本文に対して否定的であったが、実は、鎌倉時代写本の御物本、榊原家本等の「なそこひさらん」の「ひ」は、変体仮名のヤ行「江(え)」とあったのを誤って「ひ(比)」と誤写したものだったと考えられないか。

定家は、自筆本奥入付載の源氏物語の書き本に「こひ(比)さらむ」とあったことに疑義をもった、つまり自分が指摘した「人知れぬ」歌の本文と合致しないと。しかし、それに代る適切な和歌を見い出すことはできなかった。定家はある意味で、そのくらい書き本の本文を尊重していたということもできよう。だが定家はある時点で、その書き本の本文(自筆本奥入付載本文)を和歌に合わせて「なそこえさらん」と改訂した。「越え」はヤ行下二段活用の連用形である。古写本ではそれを「こ江」と表記する例が多くある。古典籍の書写経験から「こひ(比)」は「こえ(江)」の誤りではないかと考えるようになって、本文を「こえかたき」と改めた。それが大島本「若紫」の祖本の定家原本であったと考えられないだろうか。御物本や榊原家本等の本文は、定家が改訂する以前の本文を書承したものか、あるいは転写の最初の段階において「こえ(江)」を「こひ(比)」と誤ったものであはないか。大島本の祖本は改訂以後の本文に拠っているもの。よって大島本の奥入の「人知れぬ」歌に「未勘」と注記されていないのは、本文を「なそこえさらむ」と改めたことによって、本文と奥入との間に整合性ができた、それが定家本の最終形態であったというふうに私は推定する。

【5】「末摘花」抄出本文(文1・語2

自筆本奥入「末摘花」の抄出本文は文1例、語2例あるが、いずれも「大成校異篇」(底本 大島本)と同文である。

 @「ふるき」(16ウ・大成221E)

 A「わかむとほり」(16ウ・大成202@)

 B「夢かとそ見るとうちすして」(17オ・大成229D)

「みる」(自奥・青)-「思ふ」(河・別)

なお、Bの「見る」に関して、大島本にも「みる」とあり、他の青表紙本もすべて「みる」とあるが、他系統の河内本と別本には「思ふ」とある。

「夢かとぞ思ふ」とあれば、「源氏釈」が指摘したように、「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは」(古今和歌集巻十八、九七〇、業平朝臣)が該当するが、定家は「伊行釈不相叶可勘之」と否定して、「とこそ思べけれどおぼつかなねぬに見しかばわきぞかねつる」(後撰和歌集巻十一、七一四 きよなりが女 第一句「夢かとも」)を指摘するのであった。しかし定家が指摘した和歌も物語本文にぴったりのものではない。現在『新編国歌大観』によって徴しても「ゆめかとぞみる」とする和歌本文は後世の「新撰和歌六帖」(注40に「月だにもあり明ならぬあかつきのわかれはやみのゆめかとぞ見る」(337)という和歌が1首があるのみで、物語本文の「夢かとぞ見る」が何に拠ったものか不明というよりほかない。

なお「新編全集」では本文は「夢かとぞ見る」とし、注記では「(古今歌)第二句を改めて、「夢かとぞ見る」といったもの」(注41と注記する。つまり書写者の誤写ではなく、作者の作為性をいうのであるが、河内本や別本等には「夢かとぞ思ふ」とあるのだから、果たしてそこまで推断できるものか。「新大系」では脚注に古今集歌を引用しながら、その本文の相異について何とも言及しない(注42。定家の問題提起に対して答えておらず、何とも中途半端な注釈であると言わざるをえない。

ところで、定家はなぜそこまで自分の持っている物語本文に拘ったのか不明であるが、さして適切な引き歌とは思えない和歌を呈起してまで、安易に他本には従おうとはしない頑なな書き本尊重の姿勢が窺えて興味深い事例である。

【6】「葵」抄出本文(語1

自筆本奥入「葵」の抄出本文は語1例あるが、「大成校異篇」(大島本)と同文である。

 @「ひとたまひ」(23ウ・大成287D)

【7】「賢木」抄出本文(文1

自筆本奥入「賢木」の抄出本文は文1例あるが、これも「大成校異篇」(大島本)と同文である。

 @「ちかきよに」(27オ・大成358E)

【8】「須磨」抄出本文(文5・語2

自筆本奥入「須磨」の抄出本文は文6例、語1例あるが、そのうち文2例には、「大成校異篇」(大島本)とは同文であるが、他の青表紙本では異なっている例がある。

@「ことなしにて」(30ウ・大成405B)

A「時しあらは」(30ウ・大成411C)

B「三千里外」(30ウ・大成413I)

 C「いける世にとは」(31オ・大成421E)

 D「せきふきこゆる」(31オ・大成421L)

 E「向風嘶」(31オ・大成434@)

F「たゝこれ西にゆくなり」(31ウ・大成429@)

青表紙本の中で異文が見られるのは、Cの「よにとは」とあるところが、横山本では「よに」とある。またFも「ゆくなり」とあるところが、横山本では「ゆくなと」とある。いずれも鎌倉期書写の本の中では孤立しているので、誤写から生じた異文である可能性が高い。よって問題とするに足らない。

【9】「明石」抄出本文(文1・語1

自筆本奥入「明石」の抄出本文は文1例、語1例ある。うち文1例には「大成校異篇」(大島本)とは本文異同がある。

@「あき人の中にてたニ〈朱書〉」(34ウ・大成455G)

@「あき人の中にてたにふることきゝはやす」(35ウ・大成455G)

A「まくなき」(36ウ・大成477J)

「中にてたに」(自奥)-「なかにてたにこそ」(大横陽池肖三明証・河・別(穂麦阿)・釈(冷前))

 自筆本奥入所引の抄出本文では「だに」とあるが、大島本他諸本及び「源氏釈」所引本文では「だにこそ」と係助詞の「こそ」がある。その末尾は「人は侍けれ」と已然形で結ばれているから、「こそ」が有ったほうが適切である。自筆本奥入所引の抄出本文の独自異文である。おそらくは定家所持の書き本には「たに」とあったのだろう。しかし、後に他本に従ったかあるいは語法上の法則に基づいてか、「たにこそ」と「こそ」を補訂したのではなかろうか。

10】「澪標」抄出本文(文1

自筆本奥入「澪標」の抄出本文は文1例ある。「大成校異篇」(大島本)とは同文である。

@「しまこきはなれ」(37オ・大成504A)

11】「蓬生」抄出本文(語2

自筆本奥入「蓬生」の抄出本文は語2例ある。これらも短いもので「大成校異篇」(大島本)とは同文である。

@「あけまき」(38ウ・大成522F)

A「五濁」(38ウ・大成528A)

12】「関屋」抄出本文(文1

自筆本奥入「関屋」は欠脱しているが、東山甲本・高野本には存在する。今、高野本(注43からその文1例を引用する。「大成校異篇」(大島本)とは異同がある。

@「つくはねの山をふきこす風もうきたつ心ちして」(高野本41オ・大成547C)

「うきたつ」(自奥)-「うきたる」(大横榊池穂肖三明証・河・別(陽平麦阿)-「うきたひに」(釈(抄))

東山甲本・高野本の自筆本奥入「関屋」では「浮き立つ心地」、対してその他の源氏物語諸本では「浮きたる心地」で大きく異なる。自筆本奥入「関屋」の独自異文ではあるが、それなりに有意の内容である。定家原本の書き本には「うきたつ」(心がうきうきする、気分が引き立つ)とあったのであろう。しかし文脈上、浮舟の心情としてはやはり不自然であると考え直して、後に「うきたる」(「浮き」と「憂き」の掛詞、頼りない気持ち)と改訂したのではなかろうか。

13】「松風」抄出本文(語1

自筆本奥入「松風」の抄出本文は語1例ある。要約・改変の項目に既出した。

@「夜光玉」(40ウ・大成583L)

14】「少女」抄出本文(文1

自筆本奥入「少女」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)とは「なおし」と「なをし」の仮名遣いの異同が見られる。仮名遣いの項目に既出した。

@「五節にことつけてなおしなとさまかハれる色ゆるされて」(48ウ・大成697D)

15】「玉鬘」抄出本文(文1

自筆本奥入「玉鬘」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)とは同文である。

@「われはわすれす」(50ウ・大成721D)

16】「初音」抄出本文(文1・語1、朱書による文2

自筆本奥入「初音」の抄出本文は文1例、語1例ある。さらに朱書による抄出本文2例があるが、これは行間に書き入れられたものである。うち文には「大成校異篇」(池田本)とは異同があるが、朱書のそれには異同はない。なお「大成校異篇」ではこの巻の大島本は別本に区分されているが、内容的には青表紙本と見做してもよいので、今、青表紙本に含めて記載する。なお大島本「少女」の奥入に「初音」の奥入が混入しているので、今、ここに移して記載する。

@「はちすのなかのさかひ」(53オ・大成770A)

A「みつむまや」(53ウ・大成774L)

B「こゑまちいてたる〈朱〉」(52ウ・大成768C)

C「いたはりなきしろたへの衣〈朱〉」」(53ウ・772@)

「さかひ」(自奥)-「せかい」(大池慈横穂肖三証陽・河・別(大保阿)・釈(前)・奥(大)-「かい」(河(飯))-「せかひ」(別(国麦)・釈(抄))

自筆本奥入の抄出本文の独自本文である。「ひ」と「い」の仮名遣いの相異をおけば、問題は「さかひ(境)」(特定の場所)と「せかい(世界)」(仏教的世界観に基づく一定の空間)の相異の問題である。「蓮の中の」云々とある文脈であるから、「世界」がより適切であろう。字母レベルで見れば「左」と「世」の相異であるが、おそらくは「世」を「左」と見誤ったところから生じた誤写であろう。ここも定家原本の書き本には「さかひ」(境)とあったのであろうが、それを後に他本に従って、「せかい」(世界)と訂正したものであろう。

17】「胡蝶」抄出本文(文1

自筆本奥入「胡蝶」は欠脱しているが、東山甲本・高野本に存在する、今、高野本(注44からその文1例を引用する。「大成校異篇」(大島本)とは同文ある。

@「かめのうへの山」(57ウ・大成782M)

18】「常夏」抄出本文(文1・語1

自筆本奥入「常夏」の抄出本文は文1例と語1例がある。その文1例には大島本と本文の異同がある。その両者の墨跡の濃淡の相違から判断して、文1例はのちに書き入れられたもののようである。

@そのおちはをたにひろへや」(55ウ・831@)

A「ぬきかは」(55ウ・大成835E)

「大成校異篇」には異同が掲出されていないから、大島本とすべて同文ということである。

-1「その」(自奥)-「さやうの」(大横為池佐肖三・河・別(陽保国))

-2「ひろへや」(自奥)-「ひろへ」(大横為池佐肖三・河・別(陽保国))

 自筆本奥入の抄出本文はいずれも独自異文である。その独自異文の性格について、「その」と「さやうの」の相異、「ひろへや」と「ひろへ」の相異に関して、その差違について考えてみると、「その」という直接的・指示的な物言いよりも「さやうの」と言った方が比喩的・事例的でより適切な物言いであると感じられる。また詠嘆の終助詞「や」が今「拾へ」(四段動詞)命令形に下接しているが、四段動詞は已然形と命令形は同形である。已然形に下接した「や」は反語の意を表すことになり、その意味では曖昧な表現である。いっそない方が「拾へ」と命令形で直接的に表現したものになる。よって文脈・表現上の的確さや優劣という点から見れば、「さやうの落ち葉をだに拾へ」が優る。そのような理由から定家は本文を改訂したものだろうか、と推測したい。

19】「野分」抄出本文(文1

自筆本奥入「野分」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「いつこのゝへのほとりの花」(57オ・877M)

20】「藤袴」抄出本文(文1・語1

自筆本奥入「藤袴」の抄出本文は文1例、語1例ある。うち、文の方は「大成校異篇」(大島本)と異文である。

@「三従」(60オ・大成923J)

A「よしのゝたきをせかむよりも」(60オ・大成924L)

「三従」(自奥)-「三従(従$)に」(大)-「三従に」(御鎮池)-「三に」(河)

「大成校異篇」では底本の大島本の翻刻本文が「女は三に」となっているが、、実は、校異欄に記されているように、大島本は「従」をミセケチにしている。その訂正以前の本文は「女は三従にしたかふものにこそあなれ」であり、それは他の青表紙本の御物本・慈鎮本・池田本と同形であったものである。「三従に従ふ」とは、会話文中の物言いとはいえ、やはり馬から落馬したという言い方と同様に重複した表現である。「三に従ふ」で十分にその典拠を推定できる。よって大島本の形が訂正された新しい形であると考えられる。御物本等は訂正以前のまずい表現のままと言ってもよいと思う。定家がその本文の改訂に噛んでいた噛んでいたか否かは未詳であるが、大島本のミセケチの形がもし定家のそれを書承しているものであったならば、その可能性も出て来る。定家所持の書き本は「女は三従に」とあったものと考えられる。御物本等はそれに基づいたものと考えられる。自筆本奥入「藤袴」の抄出本文「三従」は、あるいは要約ではなく、本文の語句そのものであった可能性も高い。

21】「藤裏葉」抄出本文(文3・語1

自筆本奥入「藤裏葉」の抄出本文は文3例、語1例がある。それぞれ「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「文籍にも家礼」(65ウ・大成1002B)

A「せきのあらかき」(66オ・大成1004H)

B「かつらをおりし」(66ウ・大成1009E)

C「宇陀法師」(67オ・大成1018E)

なお、自筆本奥入「藤裏葉」の抄出本文と大島本の本文とは同文であるのだが、たの青表紙本諸本との間に本文異同がある。

「あらかき」(自奥・大肖三)-「あし(し$ら)かき」(御)-「あしかき」(横池・河(青大)・別(陽国))

出典は催馬楽「川口」である。その本文は「河口の 関の荒垣(あらかき)や 関の荒垣(あらかき)や 守れども はれ」云々とあるものである。よって自筆本奥入の抄出本文や大島本の「あらかき」が正しい。「あしがき(葦垣)」は、やはり催馬楽に「葦垣」という作品があるが、それは「葦垣(あしかき)真垣 真垣かきわけ」云々というもので、別作品である。青表紙本の御物本・横山本・池田本等は「葦垣」という作品と誤解して、自筆本奥入の物語本文の変体仮名「し(之)」を「ら(良)」と読み誤ったところから生じたものであろう。

22】「若菜下」抄出本文(語1、朱書による文2、語1

自筆本奥入「若菜下」の抄出本文は語1例ある。さらに朱書による文2例と語1例とがある。朱書の「篁ひらの山さへ」については、大成に「たかむらの朝臣のひらの山さへ」とあるが、抄出本文では「篁」と「ひらの山さへ」との間で改行しているので、「の朝臣」は省略したものと考える。また朱書の語1例については「-事」とあるので、要約と考えてよい。その他の墨書の文1例と朱書の文1例は「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「ひらの山さへ<>」(70ウ・大成1140B)

A「ふしまちの月」(71オ・大成1155C)

B「うきにまきれぬこひしさの<>」(71ウ・大成1202F)

C「桂冠事<>」(72オ・大成)

23】「夕霧」抄出本文(文1

自筆本奥入「夕霧」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「無言大子とか」(82オ・大成1352D)

なお、「大成校異篇」では「太子」と翻字しているが、正しくは「大子」であるので同文。

24】「幻」抄出本文(文1

自筆本奥入「幻」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「うなひまつ」(87ウ・大成1407D)

25】「匂兵部卿宮」抄出本文(文1

自筆本奥入「匂兵部卿宮」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)3箇所の異同がある。「源氏釈」抄出本文も加えて検討する。

はじめに大島本の当該文を引用しよう。「せんけうたいしの我身にとひけんさとりをもえてしかなとそひとりこたれ給ひける」とある。冒頭の「せんけうたいし(善巧太子)」に関しては河内本「くいたいし(瞿夷太子)」、また別本に「けうゐ大し」(保)「てむけう大師」(飯)という大きな異文がある。なお大島本は本行本文「せんけうたけうの」の「た」の次に朱筆で補入符号を入れて右傍らに「いし」と訂正し、かつ「けう」を朱筆でミセケチにして「せんけうたいしの」と訂正したものである。「けう(計宇)」は「いし(以之)」の誤写と推測される。他の青表紙本では為家本が「せんけう」の右傍らに「くい」という傍記がある。すなわち青表紙本文に河内本の本文を傍記したものである。定家本は「せんけうたいし」であったものと考えられる。

四辻善成の「河海抄」では河内本の本文「くいたいしの」を引用し、その右傍らに「或本せんけう太し僻説也」と青表紙本の「せんけうたいし」とする本文を退けている(注45。新編全集では「付録」の仏典引用一覧の中で「高木宗監氏は『根本説一切有部毘奈耶破僧事』巻十五の末尾に、釈尊がその説法の結びに「善行王子ハ豈異人ナランヤ。即チ我ガ身是ナリ」と言っていることによって、右の「善行王子」は釈尊であり、物語の「善巧太子」は悉達多太子が実際に善巧の力があったこともあって、紫式部がそれにふさわしく、かつ物語らしく修正したものとされた」(注46と注記している。

@「太子のわか名をとひえけむさとりもえてしかなと」(91オ・大成1433H)

10-1「わか名を」(自奥・釈(冷前))-我身に」(大横為榊池肖三・河・別(麦阿))-「わかみを」(別(保言飯))-「我身」(釈(抄))

10-2「とひえけむ」(自奥・別(保言)・釈(冷))-「とひけん」(大横為榊池肖三・別(麦阿))-「とひける」(河)-「とゝひけん」別(飯)-「まとひける」(釈(抄))-「といゑけん」(釈(前))

10-3「さとりも」(自奥・別(保言麦阿)・釈(冷前))-「さとりをも」(大横為榊池肖三・河・別(飯))-「御さとりをも」(釈(抄))

藤原定家の本文で考えていく限り、自筆本奥入の抄出本文「わか名を」は、「大成校異篇」所収の諸本に見られないが、冷泉家本及び前田家本「源氏釈」の抄出本文にも「わか名を」とある。今、前田家本「源氏釈」の本文引用部分の全文を引用すると、太子のわか名をといゑけんさとりも得てしかなとひとりこつとあるは(注47とある。なお、「源氏或抄物」の抄出本文では「我身」とあり、助詞の有無異同などを除けば、他の源氏物語諸本と同文であった。

自筆本奥入では、「伊行」とあって改行され上記の抄出本文があるので、あるいは「源氏釈」の抄出本文をそのまま引用したために「わか名を」となったものかという疑いがなくもないが、これまでの定家の物語本文に対する執拗な姿勢は、それを否定するように私には思われる。定家所持本の書き本にも「わか名を」とあったものと推測する。

次の自筆本奥入の「とひえけん」は、冷泉家本の「とひえけん」はもちろんのこと、前田家本の「といゑけん」も「問いゑけん」で同意文である。さらに別本の保坂本や山科言経自筆書入本などにも見られ、「得」という語が介在するのが特徴である。

典拠となる仏典が未詳なので正確なところは分からないが、これまでの検討から、定家は「我が名を問ひ得けん」(自分の名前を知り得たという)という本文から「我が身に問ひけん」という本文へ改訂していったというのが、私の理解である。

定家は「さとりも」から「さとりをも」と目的格を表わす格助詞「を」を加えてさらに文意を明確化させたのだろう、と考える。

26】「紅梅」抄出本文(語1

自筆本奥入「紅梅」の抄出本文は語1例がある。「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「かわふえ」(91オ・大成1452M)

自筆本奥入と大島本奥入の仮名遣いは共に「かわふえ」であるが、大島本の本文中の仮名遣いは「かはふえ」である。歴史的仮名遣いは「かはぶえ」(皮笛)で、口笛の意である。

27】「早蕨」抄出本文(文1

自筆本奥入「早蕨」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(定家本)と同文である。また大島本の本文とも同文である。

@「やとをはかれし」(107ウ・大成1684L)

28】「宿木」抄出本文(文10・語1

自筆本奥入「宿木」の抄出本文は文10例、語1例がある。文10例のうち1例は改作したものと考えられるものがあるが、2例は「大成校異篇」(大島本)と本文異同が見られる。

@「なにゝかゝれるといとしのひて事もつゝかす」(108ウ・大成1716G)

A「あくるまさきてと」(108ウ・大成1713C)

B「あさまたきまたき(+ゝ)にけり」(109オ・大成1714B)

C「こりすまに又もたのまれぬへけれ」(109ウ・大成1727@)

D「さしくみは」(109ウ・大成1727@)

E「李夫人」(110オ・1754C)

F「こかねもとむ」(110オ・大成1754F)

G「仏の方便にてなむかはねのふくろ」(110ウ・1759L)

H「花ふらせたるたくみ」(110ウ・大成1754H)

I「なにかしのみこのこの花めてたるゆふへそかし」(112ウ・大成1766L)

J「楊貴妃のかむさしのこと」(113オ・1786G)

11「もとむ」(自奥・大奥・釈(前[再]))-「もとむる」(大横池穂肖三明証・河・別(宮陽保国阿桃・釈(前[本])

自筆本奥入の抄出本文では「もとむ」と終止形の形になっているが、源氏釈所引本文や大島本の奥入にも終止形になっている。それに対して大島本等では連体形「もとむるゑし」と連体形で続いていく。奥入の抄出本文は注釈項目という性格からあえて「もとむ」と改変したものということもできよう。

12「この花めてたる」(自奥・横池三穂湖吉蓬後山・河・別(宮陽保国)・釈(前))-「花めてたる」(大明肖証・別(桃阿)-「このめてたる」(別(桃))

 大島本には「この」が無い。文意としては「この花」と特に指定したほうが適切である。「なにがしのみこのこのはな」という「みこの」「この」と続くところなので、後出の「この」を衍字と考えて削除して生まれた本文であろう。定家の所為とは考えがたい削除である。おそらく後人の所為であろう。

なお、Jは「ほうらいまで尋てかんざしのかざりをつたへて」(1786G)という本文を要約して注釈の項目としたものと考えてよいだろう。

28】「東屋」抄出本文(文1・語1例)

自筆本奥入「東屋」の抄出本文は文1例と朱書による語1例がある。「大成校異篇」(大島本)と同文である。

@「あはれわかつま」(108ウ・大成1851L)

A「いかたうめ<>」(115オ・大成1842L)

29】「浮舟」抄出本文(文1

自筆本奥入「浮舟」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」の底本は大島本が欠帖のため、池田本が採用されている。

@「けさうする人のありさまのいつれとなき」(118オ・大成1917@)

なお、「大成校異篇」の池田本では「いつれれとなき」とある。校異欄に掲げられた他の青表紙本では「いつれとなき」とあるから、池田本は衍字と考えられる。明融臨模本でも「いつれとなき」(707)とある。

30】「蜻蛉」抄出本文(文1・朱書文2

自筆本奥入「蜻蛉」の抄出本文は文1例がある。「大成校異篇」(大島本)とは同文である。

@「ねたましかほに<>」(120オ・大成1981D)

A「ことよりほかヲ<>」(120オ・大成1982K)

B「ことよりほか」(120ウ・大成1982K)

 AとBは同じものである。朱書には「ヲ」が加わっているが、大島本の本文にも「ことよりほかを」とあり同文である。

 以上、自筆本奥入の注のために物語本文中から抄出された文及び語について、朱書のそれらをも含めて、から11まで考察してきたように、自筆本奥入が注釈のために引用した物語本文からの抄出本文は、特異な本文であることが多いが、それは定家の誤記憶や転記の誤りではなく、むしろ定家の物語本文に対する執拗な関心性から、彼が所持していた本文さらにはその書き本の本文の性格を窺わせるものである。定家はそうした特異な本文に対して、安易に他本との校合をすることによって改訂するのではなく、彼の物語の読み方あるいは考えに基づいて本文の改訂を行なっていったことが推測される。そうした物語本文の改訂過程の時々の中から生まれた一つが縦長四半本の尊経閣文庫本等の「源氏物語」であった。その母胎は枡形六半本「源氏物語」の物語本文であった。そして他の青表紙本「源氏物語」諸本は、自筆本奥入の切断以前の校訂段階の物語本文から、あるいは奥入が切断されて以後に補訂されて作り直されて後の校訂段階の物語本文から生れていったものではなかろうか、と結論づける。