一 定家自筆本「奥入」巻尾本文の再検討

 

(1)定家自筆本「奥入」巻尾本文の概要

定家自筆本「奥入」すなわち、国宝「源氏物語奥入」(縦17.4p×横17.6p 紙本墨書 一帖 鎌倉時代13世紀 大橋寛治氏蔵)には、現在では欠脱がある。しかし東山御文庫蔵甲本・高野辰之旧蔵本等によってその欠脱部分を補うことができる。池田亀鑑編著『源氏物語大成 研究資料篇』にはその欠脱が復元された形で翻刻されている。また、定家自筆本『奥入』には複製本と影印本が公刊されており、そして高野本も影印本が公刊されているので、その概要を知ることができる(注3)

定家自筆本「奥入」所載の枡形本「源氏物語」(六半本型)については、「奥入」部分の切断の際にたまたま一緒に切り出された巻尾本文と、「奥入」中に注釈のために本文中から転記された抄出本文がある。前者の巻尾本文には切り出しの際に一部判読できないような部分がある。また注釈のために抄出された本文には一部要約された形で掲載されているものなども含む。

定家自筆本『奥入』所載の「源氏物語」巻尾本文について、初めて論じられたのは池田亀鑑氏(注4)である。

だが、その方法には初めから「奥入」成立に関する「第一次」・「第二次」という仮説を枡形本「源氏物語」(六半本型)の本文の方にも当てはめて考えようとしたところに問題があり、したがって池田亀鑑氏自身、大島本「源氏物語」本文との詳細な検討の結果に得られた結論は、それを支持するものではなく、かえって複雑多様な様相を呈するもので、まことに歯切れの悪い、混沌とした結論になってしまっている。

例えば、「この残存本文は、定家が第二次奥入の台座とした本の物語本文であるから、もし第一次・第二次奥入の成立に当つて、同一の物語本文が使用されたとするならば、当然この残存本文を以て青表紙本の根本資料とすることができる筈である。またもし第一次のそれと第二次のそれとが同一でないとするならば、そのやうに認めることは当然不可能な筈である」と述べて、各帖毎に詳細な検討を加えた結果、

「一、大島本の本文に全く一致するもの

 二、補正したものが大島本に一致するもの

 三、補正以前のものが大島本に一致するもの

 四、補正の前と後との間が混乱して大島本に一致したり対立したりするもの」

という4種類のパターンがあることを明らかにした。

「一」と「三」の事例だけであったならば、池田亀鑑氏にとって、縦長本「源氏物語」(四半本型)が第一次本で、枡形本「源氏物語」(六半本型)が第二次という説にまことに都合が良かったはずのところが、案に相違して、その逆となる「二」や何とも判断しにくい「四」のような事例が出て来てしまったのだ。

そこで、池田亀鑑氏は「(一)は問題でない。(二)(三)(四)の場合には本文の混成が生じてゐるごとく解せられ、また第二次の台座となつた本文が第一次のそれと必ずしも同一でなかつたのによると考へられる。おそらくその二者がそれぞれあり得たであらう。現在青表紙本の本文としては――たとひ多少の転化が生じてゐるとしても――第一次奥入を有する本によるのが最も客観的かつ公正であると思はれる」(注5)と、解釈したのだが、どうにも具合の悪い結果であった。はじめに結論ありき、という感が否めない。

そもそも第二次本に「本文の混成が生じてゐるごとく解せられ」たならば、第一次本から第二次本へという定家の校勘過程を問題とすべきところであるが、そこまでは論究されなかった。この問題については、後に片桐洋一氏が追求するところとなった。

しかし、片桐洋一氏(注6)の論も、「尊経閣文庫の定家自筆本柏木巻の巻末に付されている『奥入』は第一次『奥入』である。それに対して自筆本『奥入』は言うまでもなく第二次『奥入』であるから、それについている『源氏物語』本文も、尊経閣本「柏木」が第一次定家本であるのに対して、自筆本『奥入』に付された『源氏』が第二次定家本であることは必然である」と、池田亀鑑氏と同じ捉え方をし、そして「その二つの定家本の本文が同一でないことが明らかになった以上、現存する定家本諸本の本文を研究することによって唯一の青表紙本原本を復元することは不可能だとわかったはずである。むしろ、なすべきことは、前述のごとく自筆本『奥入』所収の『源氏物語』本文に近似する傾向にあった横山家旧蔵本・池田本(天理図書館現蔵)・御物本(東山御文庫本)などの本文を検討することによって、『奥入』所収の第二次定家本の全容を明らかにし、大島家旧蔵本などの第一次から第二次に至る、定家の『源氏物語』校勘の軌跡をたどってみることではないかと思うのである」(注7)と、今後の研究の方向性を論じられたのだが、池田亀鑑氏の「第一次」「第二次」という前提のもとに論じられたので、後述するように、それら個々の事例をめぐっては苦しい説明となってしまっている。

池田亀鑑氏は定家自筆本「奥入」所載の「源氏物語」巻尾本文について、各帖毎に詳細に論じておられるが、その論点にはいろいろと問題がある。また、片桐洋一氏についても同様である。それは、まず第1に、自筆本「奥入」所載の「源氏物語」巻尾本文に書き入れられた本文の訂正跡をすべて「定家筆」と見做してしまっている点である。実はその中には本文書写者による本文訂正跡もあり、定家筆の訂正跡と非定家筆の訂正跡とを峻別しなければ、自筆本「奥入」所載の「源氏物語」巻尾本文における「訂正以前の本文」・「訂正以後の本文」ということも正確には把握されないし、その訂正意義についても論じることができない。第2に、両氏は共に定家自筆「奥入」所載の枡形本「源氏物語」(六半本型)を「第二次」という先入見をもって論じているのだが、そうした先入観も排除して、本文異同の問題について、改めて逐一検討してみる必要があろう。

そして巻尾本文における比較検討のみならず、さらに「奥入」に転記された抄出本文をも加えて比較検討すれば、定家自筆本「奥入」所載の「源氏物語」の性格がもう少し見えてくるだろう。

 

(2)定家自筆本「奥入」巻尾本文の再検討

さて、池田亀鑑氏や片桐洋一氏が既に指摘されたように、定家自筆本「奥入」には、「夕顔」(8行)「若紫」(6行)「蓬生」(5行)「松風」(9行)「玉鬘」(1行)「初音」(5行)「行幸」(6行)「真木柱」(表12行・裏2行、計14行)「梅枝」(8行)「藤裏葉」(6行)「柏木」(表12行・裏5行、計17行)「竹河」(7行)「早蕨」(6行)「蜻蛉」(3行)、計14帖、101行の巻尾本文が残存している。

なお切断のためにほとんど判読できないような一行までを行数に数え入れるか、あるいは判読可能な限りの行だけを数えるかによって、さらには改行された短い行を1行とするかあるいは2行と見做すべきか、どちらともつかぬような事例もあるので、その数値に関しては論者によって微妙な相違も生じるが、実態は変わらないことを断っておこう。

さて、それらの巻々の中で、本文の訂正の痕跡を残す巻は、「夕顔」(3箇所)「若紫」(1箇所)「蓬生」(1箇所)「松風」(1箇所)「玉鬘」(1箇所)「初音」(7箇所)「行幸」(1箇所)「真木柱」(8箇所)「柏木」(6箇所)「早蕨」(3箇所)「蜻蛉」(2箇所)、計11帖、34箇所である(複製本に拠る)。これも人によっては認定の相違もあろうが、おおよそは以上のようである。

これらの本文訂正跡のある巻では、総数78行について35箇所、すなわち約2行につき1箇所弱という割合になる。

それに対して、本文訂正跡の無い巻は、「松風」「梅枝」「藤裏葉」の3帖である。「松風」は巻尾9行にわたって0、「梅枝」は巻尾8行にわたって0、「藤裏葉」は巻尾6行にわたって0、合計23行にわたって0ということになる。

全体的にみれば、101行中35箇所の訂正跡が認められるということで、約3行につき1箇所の割合で訂正跡が見られるということになるが、その一方で、9行、8行、6行にわたってナシという巻もあるから、巻によって著しい相違が存在するということを指摘しておかねばならない。単純には平均化することはできない。

さて、この数値・割合を多いと見るべきか、少ないと見るべきか。例えば、比較の参考として、尊経閣文庫蔵「花散里」「柏木」等と比較した場合どうか。「花散里」には1箇所の補入文字があるが、これは書写者の補入である。なお「大成校異篇」では本文中に組み込んで問題視していない。

「柏木」(本文50丁裏2行目まで内2面は白紙)では約50箇所の訂正・修正跡のあることが指摘されているが、それらと比較すれば、圧倒的に多いということができよう。

このことは定家自筆本「奥入」所載の「源氏物語」のある性格を物語るものであろう。すなわち縦長本「源氏物語」(四半本型)の成稿本的な性格に対して、枡形本「源氏物語」(六半本型)は素稿本的な性格を意味するのではないか、ということである。

以下、定家自筆本「奥入」所載の「源氏物語」の巻尾本文における訂正方法やその本文内容について逐一検証していきながら、枡形本「源氏物語」(六半本型)が縦長本「源氏物語」(四半本型)に先行する本文であることを明らかにしていこう。

【1】「夕顔」巻尾本文8行)

定家自筆本「奥入」所載の「夕顔」巻尾本文8行)には、3箇所の本文訂正跡がある。それらはミセケチ削除1箇所)、元の文字を摺り消した上に重ね書きした訂正2箇所)である。

池田亀鑑氏は「右の本文において定家は「みたらむ」の「たら」をみせけちにしてゐる。「みたらむ」とある本は未だ管見に入らない。おそらくこの帖の書写者の誤りで、それを定家が気づいて訂正したものと認めるべきであろう。大島本の本文は定家の処理した後の本文に一致する(注8)と述べた。

片桐洋一氏も「右の写真を見てもわかるように四行目の「みたらむ」の「たら」を見せ消ちにし、七行目の一部を削り消して、定家の自筆にて「なむ」と書いているというように」(注9)と述べている。

私も初めは、これらをすべて定家筆と見ていたが(注10、改めてよくよく目を凝らして見ると、はたして定家筆であろうか。改めて見直したい字体である。

そこで、まず最初に、「夕顔」巻尾本文の訂正者について考える。

初めに、摺り消し訂正跡から見ていこう。元の文字を摺り消した上に重ね書き訂正された5行目「ほ(保―字母、筆者注、以下同じ)(池田亀鑑氏と片桐洋一氏は共に指摘していない)7行目「なむ(奈武)」の筆跡に注目してみたい。「ほ」や「な」の丸みを帯びた書体は、むしろこの帖の書写者自身の書体と同じではないか。また「む」も4行目「む」2例共)の字体とそっくりではないか。

そして、元の文字を摺り消して「ほ(保)」と訂正している箇所について、その最後の筆を回転させて左下へ抜く線は、次の文字「な(奈)」の第1画に繋がっているように見えるが、どうだろうか。池田亀鑑氏と片桐洋一氏は共に指摘していない箇所であるが、「ほ(保)」の左側の第1画には明らかに摺り消した上に書かれたことが窺えよう。また右側の文字の一部も墨のかすれ具合は、摺り消された上に書かれたことを窺わせよう。

となると、「夕顔」の5行目「ほ」と7行目「なむ」の本文訂正跡は、本文書写時中に書写者が自ら誤写を訂正したものではないか、となりはしないか。

次に、4行目の墨筆による「たら」の文字の上に二点ミセケチ符号に戻って考える。しかし、文字の場合とは違って、この筆跡だけからでは書写者自身のものか別人にものかの判断は不能である。そこで、他のミセケチ跡と比較して考える。

例えば、「初音」巻尾本文の3行目「て」がミセケチあるいは削除といってもよいような方法で大きく二点符号があって、削除されている箇所がある。

「初音」の「て」の豪胆な削除方法とこの「夕顔」の「たら」の慎ましやかな削除方法とは明らかにその削除しようとする意志の強弱の差異を感じさせる。しかしそのことだけでは書写者であるか、別人あるいは定家であるかは何ともいえない。

そこで元に戻って、もし先の2例の摺り消し訂正が書写者の訂正であったならば、「たら」をミセケチ訂正することはなく、やはり同様に摺り消して「ミむ人」云々と下文を続けたであろう、と考える。

私の結論は、摺り消し訂正2事例は書写者。一方ミセケチ訂正定家、という推定である。

もし、これらがすべて定家の訂正であると考えると、摺り消し訂正に関して、定家は他の箇所では摺り消し訂正もしているのであるが、ここではあえて元の文字が判読できないまでに丁寧に摺り消して訂正した事由が分からないのである。

(画像略)

@「自筆本奥入」(11オ)「夕顔」(末尾8行)

くた/\しき事ハあなかちにかくろ

へしのひたまひしもいとおしくてみな

もらしとゝめたるをなとみかとの

御こならむからにミたら(たら1)む人さへ

かたほ(△2)ならす物ほめかちなる

とつくり事めきてとりなす人も

のしたまひけれハなむ(△△2なむ)あまりも

のいひさかなきつミさりところなく」11オ)

(注 $:ミセケチ削除 &:擦り消した上に重ね書き訂正)

次に、「夕顔」巻尾本文の原初本的な性格とそれが大島本の本文に先行することを述べる。

巻尾本文と大島本とを比較すると、本文の異同が1例、仮名遣いの異同が1例見られる。

@「いとおしく」(巻尾本文)―「いとをしく」(大島本)

A「ミたら(たら$)む」(同)―「見ん」(同)

@巻尾本文に「いとおしく」とある。大島本は「いとをしく」とある。歴史的仮名遣いは「いとほし」(形シク)であるが、定家の仮名遣いでは「いとをし」である。ここでは、定家が仮名遣いに関して「お」を「を」と訂正していないことに留意しておきたい。この仮名遣いは書写者が親本(書き本)の本文の仮名遣いをそのままに書承したものか、あるいは書写自身の仮名遣いであろう。それがそのままになっていた箇所であろう。

A巻尾本文の訂正以前の本文「みたらむ」は「大成校異篇」によれば独自異文である。池田亀鑑氏はそれを「書写者の誤り」と推断する。しかし、真実に単なる誤写だろうか。

右に考察してきたとおり、もし書写者が誤写であることに気づいたならば、7行目の「なむ」の訂正のように即刻に摺り消してその上に「む」と訂正されただろうというのが、私の見方である。つまり定家がミセケチ削除するまで本文として存在理由をもっていたものであろう、と推測する。すなわち書き本に「みたらむ」とあったのではないか、というのが私の推定である。もしそうであるならば、自筆本奥入の巻尾本文の書き本の性格を物語るものである。

いずれにせよ、Aの事例は池田亀鑑氏も認めているように、「大島本の本文は定家の処理した後の本文に一致する」事例であり、となれば、枡形本「源氏物語」(六半本型)の巻尾本文の訂正以前本文が縦長本「源氏物語」(四半本型)及び他の青表紙本の本文先行する事例の一つである。

【2】「若紫」巻尾本文6行)

「若紫」巻尾本文(6行)に、本文訂正跡が1箇所ある。元の文字を摺り消した上に重ね書きをした訂正方法である。定家の訂正であると考える。

4行目の「ふしお(△&お)き」という箇所である。よくよく目を凝らして見れば、「を(遠)」を摺り消して、その上に「お(於)」と訂正したものである。

その行為者は誰か。書写者かそれとも定家か。

まず「お(於)」の筆跡の特徴から見る。「お(於)」が1行目「おかしき」6行目「おほいためり」に現れている。本行本文を連続して書写している際の書体と一文字ずつ訂正する際の書体では当然状況や条件が異なるものであるが、本文書写者の「お(於)」の特徴は、入筆の第1画が上から弧を描くような感じで入ること、そして右側の2点は連綿体に続けようとする筆づかいであることである。対して訂正文字の「お(於)」は第1画が真横に入っていること、右側は二点を続けずに書こうとしていることが違う。それは他の定家自筆の奥入中の「お(於)」の特徴と同じである。よって、定家筆と判断する。

(画像略)

A「自筆本奥入」(13オ)「若紫」(末尾6行)

くるをいとおかしきもてあそひなりむ

すめなとはたかはかりになれハ心やすく

うちふるまひへたてなきさまに

ふし(を2)きなとハえしもすましきを

これハいとさまかハりたるかしつきくさ

なりとおもほいためり」13オ)

次に、「若紫」巻尾本文の性格について、大島本と比較して考える。

本文の異同が3例、仮名遣いの異同が1例見られる。

@かしき」(巻尾本文)-かしき」(大島本)

A「ふしお(を&お)き」(同)-「ふしおき」(同)

B「すましきを」(同)-「すさましきを」(同)

C「おほいためり」(同)-「おもほいためり」(同)

池田亀鑑氏は「大島本は最後の一葉即ち「心やすく」以下が別筆で補写されてゐる。それによれば「すましき」が「すさましき」とあり、「おほいためり」が「おもほいためり」とある。しかし補写の部分が多いから厳密な断案をくだすことは困難である」(注11と留保していた。

@形容詞「をかし」の定家の仮名遣いは「おかし」である。「若紫」巻尾本文は非定家筆ながらも定家の仮名遣いに従っている。対して、大島本の「をかし」の仮名遣いは歴史的仮名遣いとしては正しいのだが、それは定家の仮名遣いを正しく書承するものでない。

A「若紫」巻尾本文の「ふしおき」の「お」は本行本文の文字を擦り消した上に「お(於)」と訂正している。複製本の痕跡についてを目を凝らしてよく見れば「を(遠)」という文字を摺り消してその上に「お(於)」と訂正しているようだ。もし、それが正しければ「ふしをき(臥し起き)」の仮名遣い、「を」を「お」に訂正したものである。

ところで、「起く」の歴史的仮名遣いは「おく」である。一方で、定家の仮名遣いでも「おく」である(注12。定家は書写者が「ふしをき」と書写していたものを、「ふしおき」と定家の仮名遣いに訂正したものである。「お」と「を」の仮名遣いに関しては特に当時のアクセントに基づいて仮名遣いを書き分けているので、定家としては摺り消してでも訂正しなければならない箇所であったのだろう。もう一つ、定家の性格からして、摺り消し方が完璧ではなくて一部元の文字がかすれて残ってしまっているというところにもその性格が窺えるのである。

Bの大島本の「すさましきを」は独自異文である。『新大系』でも「底本「すさましき」を、青表紙他本により「すましき」に訂正する」(注13と注記して、本文を「臥し起きなどはえしもすまじきを」と整定している。なるほど、大島本は独自異文であり、現存他本がすべて「すまじきを」とあって、それで文意も素直に通じる。副詞「え」があるからそれに対応する文末の語も打消しの語「まじ」となることは明らかである。よって大島本の本文「すさまじ」は誤文であると断言できるわけだが、大島本にせよ、あるいはまたその書き本にせよ、「えしも」を読み飛ばすと、「臥し起きなどはすさまじきを」となり、紫の君に対して、気持ちが冷めるといった語り手の感情移入表現とも考えることができそうだが、やはり無理な感じなので、誤写と認定しておきたい。

Cの大島本「おもほいためり」は、『新大系』によれば「明融本「思ほひためり」だが、青表紙他本多く「おほいためり」「おほいたり」」(注14と脚注に記し、大島本は明融本(実践女子大学本)と同文ということで、そのまま本文整定している。

池田亀鑑氏が「最後の一葉即ち「心やすく」以下が別筆で補写されてゐる」と言って留保していたように、大島本は最後の一葉のみならず、例えば「人なくてつれ/\なれハ」(7丁表7行目)という本文に代表されるような特異な本文である。『新大系』は「青表紙他本多く「日もいとなかきに」、伏見天皇本は底本に同じ」(注15と脚注に記して、「人なくてつれづれなれば」(157頁)と本文整定をし、現行の大島本を底本とした多くの校注本の中でも最も底本の本文を尊重した校訂本として聳立っている。大島本「若紫」は大きな本文の転化あるいは誤写等が生じたか、あるいはそれ以外の何か特別な事由--末尾一葉が物語るような何かがあったのか、現段階では未詳である。別途、考察しなければならない問題である。

「若紫」巻尾本文における訂正跡を基に大島本と比較すると、仮名遣いに関してであるが、「若紫」巻尾本文における訂正以後の本文が大島本の本文と同文ということになる。よって、ここでも枡形本「源氏物語」(六半本型)の訂正以前本文が縦長本「源氏物語」(四半本型)先行する事例の一つとなる。

【3】「蓬生」巻尾本文5行)

「蓬生」巻尾本文(5行)には、1箇所ある。これは書写者の訂正であると考える。

すなわち4行目「いてゝなん」の「な(奈)」の文字が元の文字(判読不能、「た(多)」にも見えるが未詳)の上に重ね書きされている。しかも、その「な(奈)」は次の文字「ん(无)」と一続きに書かれている。そしてその右側行の「ん(无)」とも同じ書体であるから、「いてゝ△(判読不明)」まで書き掛けて、誤写に気づいたが、終わりまであと7文字であり、元の文字の線も細いので、あえて摺り消しはせずに、直接重ねて「なん(奈无)」と重ね書き訂正したものと考えられるものである。

(画像略)

B「自筆本奥入」(38オ)「蓬生」(末尾5行)

しとはすかたりもせまほしけれ

といとかしらいたうゝるさくもの

うけれハなむいまゝたもいてあら/ん

おりにおもひいてゝな(△1な)ん

きこゆへきと/そ

次に、「蓬生」巻尾本文の性格について、大島本と比較して考える。

@「せまほし」(巻尾本文)-「せまし」(大島本)

A「また」(同)-「またも」(同)

B「いてゝな(△&な)ん」(同)-「いてゝ」(同)

@の「まほし」と「まし」の異同については、青表紙本系諸本中、大島本の独自異文である。「ほ」の脱字である。大島本の転写過程中における誤脱と考えてよいだろう。

Aの助詞「も」の有無については、自筆本奥入の巻尾本文は青表紙本諸本中、肖柏本と同文であるが、室町期書写の本との単独共通ということで、偶然的一致という可能性が考えられる。

Bでは自筆本奥入の巻尾本文では、元の文字△(判読不明)の上に重ねて「なん」と補訂する。その筆跡は本文一筆と目される。書写者が「た(多)」と書きかけて、その過ちに気づいて、直ちに重ね書き訂正したものであろう。大島本の「いてゝ」は青表紙本系諸本中、大島本以外すべて係助詞「なん」があり、文末の「べき」(連体形)と係り結びの呼応をしている。また、河内本は若干文節を異にするが「なん」が存在し、別本の陽明文庫本も他の青表紙本等と同文である。よって、大島本の脱字、独自異文である。

池田亀鑑氏は「前者(@-渋谷注)は明らかに(大島本の-同)独自誤謬と認められるが、後者(B)は池田光政旧蔵本・麦生本等共通するものがある。しかし大局的にはこれは青表紙本内部における異同と認めて差支へあるまい」(注16と述べ、「青表紙本内部における異同」として処理している。なお池田光政旧蔵本と麦生本は「校異源氏」「大成校異篇」には対校されていない写本である。

「蓬生」巻尾本文における訂正箇所からは、大島本との先後関係は窺えない

【4】「松風」巻尾本文9行)

「松風」巻尾本文(9行)には、本文の訂正跡ないしは文字の修正跡とでもいうべき事例が1箇所がある。書写者の訂正跡であると考える。

1行目「らうたき」の「ら」は元の文字を摺り消してその上に重ねて書いたような訂正跡である。定家の「ら(良)」は縦長で細い書体であることを特徴とする。それに対してこの「ら(良)」は訂正文字とはいえ、横広の書体である。本行本文中の「ち(知)」の終筆部と同じような共通点が窺える。よって書写者自身による訂正であろう。自筆本奥入の巻尾本文と大島本の本文との間で異同はない。

(画像略)

C「自筆本奥入」(40オ)「松風」(末尾9行)

ら(△2)うたきものにしたまふ御心なれは
えていたきかしつかはやとおほすいかに
せましむかへやせましとおほしみたる
わたりたまふこといとかたしさかのゝみ
たうのね仏なとまちいてゝ月にふた
たひはかりの御ちきりなめりとしのわ
たりにハたちまさりぬへかめるをゝよ
ひなきことゝおもへともなをいかゝもの
おもはしからぬ

【5】「玉鬘」巻尾本文1行)

「玉鬘」巻尾本文(1行)は、わずか1行であるが、その中に本文の訂正跡が1箇所ある。定家の筆跡と見られるものである。自筆本奥入の巻尾本文と大島本の本文との間で異同はない。しかし重要な特徴が2点注目される。

その1つは、訂正文字についてである。「あ」字は元の文字の上に重ね書きされたものであるが、この重ね書きされた「あ」はこれまでの筆跡とは異なって、墨色も本行本文とは明瞭に異なり、定家自筆と思わせる字体である。本文と奥入を切り離して以後に、定家が奥入の方に巻名を書き加えた「あさかほ」の「あ」や「初音」の奥入中の「あ」などと比較しても定家筆を思わせる筆跡である。

(画像略)

D「自筆本奥入」(50ウ)「玉鬘」(末尾1行)

ことはりなりやとそ(△1)/める

【6】「初音」巻尾本文5行)

「初音」巻尾本文は5行であるが、さまざまな本文訂正跡が残っている。すなわち、補入2箇所、抹消1箇所、なぞり・重ね書き4箇所、計7箇所である。

池田亀鑑氏も「右において「たまひて」の「ま」は自筆で補入、「ふくろとも」の「も」は自筆補正、「をしのこひて」の「て」は自筆でみせけち、「ゆるへる」の「へ」、「とゝのへ」の「へ」は自筆補正、「心けさう」の「けさう」は自筆補入、「給らむ」の「む」は自筆補正となつてゐる」(注17と述べているが、私もすべて定家筆と考える。

2か所の「ん(无)」の文字上にそれぞれ「も(毛)」「む(武)」と重ね書きして、「ふくろとも(ん&も)して」「給らむ(ん&む)かし」と書き分けている。まず、草仮名の「も(毛)」の書体はいかにも定家筆らしい筆跡である。同書体が「真木柱」の奥入中に見られる。また「む(武)」も「夕顔」巻尾本文の訂正文字とは異なって、筆を回転させたのち、やや右上方へまっすぐに筆を運ぶのが定家の特徴である。そして、それ以上に、「ん(无)」という文字を文脈によって「も(毛)」「む(武)」と明瞭に書き分けようとするのが定家の態度である。

3行目の「へ」は2か所とも「ゆるへ(へ&へ)るを」「とゝのへ(へ&へ)」と、細い線を明確に修訂している。

3行目の抹消「のこひて(て$)」については、「夕顔」巻尾本文の同様なミセケチ削除と比較して論じたが、墨色の他のなぞり重ね書き訂正と一筆と考えらえ、定家筆であろう。

ところで、1行目の補入「ま(万)」と最終行の補入「けさう」については、前者では補入文字がやや小さいことと、後者では墨色が他の訂正文字の墨色と比較してやや薄い色であることが気がかりである。後者は、他の訂正とは同時ではなく別時になされたものかと推測されるのであるが、「ま(万)」の入筆の第1画を真っ直ぐに右に引くところや、第2画、第3画、いずれも筆をしっかり止めるところに定家の特徴が窺える。「けさう」の3文字についても「う(宇)」の第1画の点と第2画の距離を本行本文(非定家筆)1行目「うるわしく」の「う(宇)」と奥入中の定家筆の「う(宇)」を比較すれば、定家筆の方に傾こう。

(画像略)

E「自筆本奥入」(52オ)「初音」(末尾5行)

た(0)ひて御ことゝものうるわしきふくろ

(ん1)してひめ越かせ給へるミなひき

いてゝをしのこひて(て3)ゆる(へ1)るをとゝの(へ1

させ給なとす御方/\心つかひいたくしつゝ

心(1けさう)をつくし給ら(ん1)かし

次に、自筆本奥入「初音」巻尾本文と大島本の本文とを検討する。

池田亀鑑氏は「校異源氏」「大成校異篇」において、「初音」巻の「大島本(飛鳥井雅康筆)ハ青表紙本デナク別本デアルカラ、之ヲ底本トセズ、池田本ヲ底本トシタ」といって、大島本は別本の1本として対校されているので、これまでの青表紙本の対校とは相違して簡略な扱いになっている。

ところで、池田亀鑑氏が「大成研究資料篇」の中で、上の文章(注17に続けて「この部分を大島本についてみると、「をしのこひて」は「をしのこひ」とあり、「心けさう」の「けさう」を補入してゐて、右の補正と全く一致する。この点からすれば右の本文は青表紙本と認めることができる。しかし、「校異源氏」及び「大成校異篇」においては、種々なる点から大島本のこの帖を青表紙本と認めることの確証を得がたく、一応別本として扱ひ、底本としては、桐壺の巻の例にならつて池田本を採用した。が、池田本は果して青表紙証本となし得るものか否か、未だ証明されるに至らない。むしろ大島本を他の諸巻と同様青表紙と認め、これを基準として、諸本を再整理すべきかもしれない。おそらくそれが妥当であらうと思はれるが」(注18と記述しているのは、重大な内容である。

すなわち、昭和17年の「校異源氏」作成から昭和31年の「大成校異篇」、そして昭和33年の「大成研究資料篇」にいたる間において、大島本「初音」の底本から外した反省を述べているのである。後に伊井春樹氏も論じているように(注19、「初音」巻も他の巻同様にその訂正以後の本文に従えば、いわゆる「青表紙本」の一つである。

自筆本「奥入」所載の「初音」巻尾本文と大島本の本文異同は次のとおりである。

@「た(+ま(万)ひて」(巻尾本文)-「給ひて」(大島本)

A「うるわしき」(同)-「うるハしき」(同)

B「をしのこひて(て$)」(同)-「をしのこひ」(同)

C「心(+けさう)」(同)-「心(+けさう)」(同)

@の挿入文字「ま(万)」は大島本では「給」という漢字表記になっている。なお「たまふ」に対して「たぶ」という表現もあるので、あるいは自筆本「奥入」の本文は書き本に「たぶ」という語法を定家は「たまふ」と明確化したものであろう。

Aは仮名遣いの相違の問題であるが、「うるわし」が歴史的仮名遣いとして正しい。自筆本奥入の本文が定家仮名遣い以前の書き本の古風性を書承していることを考えさせる。

Bは「大成校異篇」によれば、「をしのこひて」と接続助詞「て」のある写本は青表紙本内では池田本・横山本・肖柏本・三条西家本である。一方、「て」の無い写本は伝慈鎮本である。そして別本とされている大島本である。なお河内本・別本等には接続助詞「て」がない。ということは、自筆本「奥入」所載の枡形本「初音」の書き本には「をしのこひて」と「て」があったものであろう。それを接続助詞「て」のない他本(河内本・別本系の古写本)に従って「て」を削除したのであろう。自筆本「奥入」の巻尾本文における訂正した本文が大島本の本文に一致する例である。

Cは自筆本奥入の巻尾本文と大島本の本文様態がまったく同形の補入となっているのであるが、「大成校異篇」によれば、他の青表紙本諸本はすべて「心けさう」とある由である。「心」とのみあるのは別本の保坂本のみである。逆に、河内本や他の別本(麦生本・阿里莫本)は「けさう」とあって、「心」がない本文である。

「心を尽くす」は文意も一応通じるが、「懸想を尽くす」では文意がおかしなものになろう。「心懸想」(あれこれ気を遣い、心くばる意)ではじめて委曲を尽くした表現となる。

大島本の補入は本文と一筆の筆跡である。脱字を補入したものか、あるいは書き本にあった様態を書承したものか、ということになろう。もし後者であるならば、その書き本とは自筆本「奥入」所載の「初音」を忠実に書写した写本であったか、ということになろう。

【7】「行幸」巻尾本文6行)

「行幸」巻尾本文は6行である。池田亀鑑氏は本文の訂正跡について何とも触れていないが、書写者によると考えられる本文訂正かあるいは文字の修正跡が1箇所認められる。

すなわち、5行目「さま/\い」の「ま/\」には墨の滲みが看取され、筆線の重なりも見られるるので、元の同文字を摺り消した上に重ね書きしたものであろう。そして「い」についてはもう少し明瞭に元の文字(あるいは「に(爾)」カ)を摺り消した上に「い(以)」と訂正したものであることが窺える。文字数として3文字分であるが1箇所の訂正跡と数えておこう。

なお「行幸」巻には関戸家蔵の定家原本「見遊幾」帖が現存するが、「校異源氏」「大成校異篇」には底本にも対校諸本にも採用されていない。それを底本に採用した玉上琢弥著『源氏物語評釈巻六』(注20を参照しても同文で問題ない。

(画像略)

F「自筆本奥入」(58オ)「行幸」(末尾6行)

あかミてわりなうミくるしとおほし

たりとのもゝのむつかしきおりハあふミ

のきミゝるこそよろつまきるれとてたゝ

わらひくさにつくり給へとよ人ハはち

かてらハしたなめたまふなとさま/\い(ま/\に2ま/\い

ひけり

【8】「真木柱」巻尾本文14行)

 「真木柱」は表裏2面にわたって巻尾本文が現存している。61オには本文が12行見られる(うち1行は行間ともいえる)が、最初の1行は切断のために判読はできない。したがって判読できる行数は10行ないし行間の1行を加えた11行ということになる。

「真木柱」巻尾本文中における訂正跡は、見るからに定家筆であることを窺わせる訂正跡及び修正跡が8箇所ある。

池田亀鑑氏は「右の文中、「めき」の「き」、「おきつなみ」の「おき」、「さほさし」の「さほ」、「をしへに」の「に」、「わるやいと」の「い」、「よういなき」の「き」、「おかしうて」の「お」は自筆で補正してゐる」(注21といっている。片桐洋一氏も「定家がみずから筆を下して校訂をしたもの」(注22といっている。

(画像略)

G「自筆本奥入」(61オ〜61ウ)「真木柱」(末尾オ12行・ウ2行計14行)

(△1)さはくこゑいとしるし人/\

いとくるしと思にこゑいとさはやか

にて
  
(△2(△1)つなみよるへなみちニ

たゝよはゝさほ(さを1さほ)さしよらむとまり

越しへ(よ1)たなゝしをふねこきかへり

おなし人乎やあなわるや(/\2)といふ乎

いとあやしうこの御かたにはかうよ

うゐな(△1)こときこえぬもの乎と思

まはすにこのきく人なりけりと

(△1)かしうて
  よるへなみかせのさはかす」(61オ)

ふな人も思はぬかたにいそつたひ

せすとてはしたなかめりとや」(61ウ)

さて、自筆本奥入の巻尾本文と大島本との関係について、整理すると次のようになる。

@「おき(△△&おき)つなみ(巻尾本文)-「奥津ふね(大島本)

A「をしへに(よ&に)(同)-「をしへ(同)

B「あなわるやい(/\&い)と」(同)-「あなハるやい(い$)と」(同)

C「ようゐなき(△&き)」(同)-「ようゐなき」(同)

以上のように、自筆本奥入の巻尾本文と大島本との間には「なみ」と「ふね」の相異のように大きな本文の異同があるのだが、池田亀鑑氏は「右の残存本文には、このように大島本と一致しないものもあるが、これらの異文は、河内本・別本等に見られる異文ほど顕著な特性をもつものではない。青表紙本内部の小異と認めて然るべきものと考へられる」(注23と言って考察を止めてしまった。

しかし、片桐洋一氏はこの問題を一歩進めて、まず自筆本奥入の巻尾本文における定家の本文校訂の内容について以下のような詳細な検討をして、「第一次定家本(大島本--渋谷注)から第二次定家本(自筆本奥入の巻尾本文--渋谷注)に至る、定家の『源氏物語』校勘の軌跡をたどってみることではないか」(注24と、今後の研究の進むべき方向を示唆したのであった。

ところで、片桐洋一氏のその詳細な検討を見ると、むしろその逆ではないか、すなわち、定家本原本の本文の流れ(定家の校勘過程)は、自筆本奥入の巻尾本文の定家訂正跡が大島本の本文へ継承されていっているのではないか、と考えられるのである。

片桐洋一氏いわく、「六一丁オ・四行目の和歌は「おきつなみ(○○)よるへなみちに……とまりをしへ()」となっているが、大島本では「興津ふね(○○)よるへなみ路に……とまりをしへ()」とあって「ふね」の右傍に「定本、波とあり」と朱で註している。現行活字本はいずれもこれによって「沖つ()……教へ()」という本文を用い、「沖の船よ。寄るべがなくて波に漂っているのなら、こちらから押しかけて行きますから泊まり場所を教えてね」などと訳しているが、自分から出かけて行くというのでは、次の夕霧の返歌と対応しない。「よるべ」「浪路(「無み」を掛ける)」「漂ふ」「棹さし寄る」「泊り」などの縁語に対応するのは「沖つ波」よりも「沖つ舟」が適当だが、何しろ近江の君の歌である。縁語の使い方がおかしく、また「沖つ波よ」と呼びかけながら、「……せよ」という結びの命令的動詞がないのは言葉足らずだが、「沖つ()……教へ()」を採用して、「沖の波よ、あの舟が寄港する所とてなく波路に漂っているのなら、棹さして寄港できる所を教えるように、打ち寄せて下さい」と解することが可能なのではないか。「おきつなみ(○○)」をそのままにし、おそらくは「よ」と一度書かれているのを削り消して「に」と改めている定家の意図を思うべきであろう。横山本は「おきつなみ」、池田本・御物本は「おきつなみ」だが、「おきつふね」が校合されている。

その次の行の「あなわるや()といふを……」も、「あなわるやといふを……」と「い」を持たぬのが普通。現行活字本で「い」を残しているものはない。しかし「い」がある方がよいのではないか。「やい」と続くと、「大郎冠物あるかやい(○○)(「太郎冠者をるかやい」の誤植か--渋谷注)などという後世の例が思い出されるが、上代に「花待つ()間に」(万葉集・巻七・一三五九)のように間投助詞的に用いられた「い」とのつながりの中に存在した、俗っぽい口頭語と解すれば、近江の君の言葉にふさわしく、あえて残した定家の学識と鑑賞力に感心させられるのである。」(注25と。

まず定家が手を加えた本文の解釈については、私も片桐洋一氏が言うとおりであると考える。しかし、定家本原本の本文の流れ(校勘過程)は、自筆本奥入の巻尾本文の訂正以前本文(書き本)→巻尾本文の訂正以後本文→大島本の本文という流れではないか。

この箇所の本文異同について、「大成校異篇」(底本:大島本)によってさらに他の青表紙本諸本等を加えて、それらの本文の異同を示す($はミセケチ符号、$の前の文字が本行本文、$の後の文字が訂正された本文を意味する)

 @「おきつなみ」自-「をきつなみ(なみ$舟)」御-「おきつな(な$ふね)み」池-「興津ふね」大横為肖三

 A「をしへに(よ&に)」自-「をしへよ」青

B「わるやい(/\&い)と」自-「わろやいと」横-「はるやい(い$)と」大-「わろやと」御池-「わるやと」為肖三

@について、青表紙本中、御物本と池田本(小異はあるが)は「なみ」をミセケチにして「ふね」としたもの。すなわち、その訂正以前本文は「おきつなみ」である。「おきつなみ」とする写本は、自筆本奥入の巻尾本文である。また大島本が傍記において「定本、波とあり」と朱筆で注記していたが、もし「定本」が定家自筆本をいうのならば、それは自筆本奥入の巻尾本文を指すことになろう。ただし、その本行本文の書写者は定家ではないが、これを「定家本」と称するに不都合はないだろう。大島本は御物本や池田本等に見られるような訂正本文に従った形である。定家自筆本奥入の巻尾本文上にはそのような定家の校訂跡は残ってはいないのだが、本文本体部分と奥入部分とが切り離されて以後、本文本体がそのまま捨てられることはあるまい、おそらくは切断された本文部分は追補されて、さらに定家の校勘作業は続けられていったと考えるべきだろう。もし、御物本や池田本の訂正跡が定家のその後の校勘作業を書承するものであったならば、という補助線を入れて考えれば、「おきつなみ」という特異な本文--別本の陽明文庫本にも「おきつなみ」とあり、自筆本奥入の巻尾本文の書写者の誤写ではない--から「おきつふね」という自然な本文へという流れが合理的ではないか。それをあえて逆転させて「解することが可能なのではないか」と解するまでもないだろう、と考える。なお残りの青表紙本は大島本と同文ということになる。

Aは、池田亀鑑氏が「三、補正以前のものが大島本に一致するもの」と言った事例に当てはまり、まさしく大島本から自筆本奥入の巻尾本文へという流れに合致するものである。

「をしへよ」と「をしへに」を比較すれば、「をしへよ」が自然で歌意もとおりやすい。しかし「をしへに」とする本文も河内本中の大島本・鳳来寺本・尾州家本及び別本中の伝冷泉為相筆本(長谷場氏本)など多数あるのである。それでは定家はなぜ「をしへに」と「よ」の上に墨跡黒々と重ね書きして「に」と訂正をしたのか。それは片桐洋一氏が解釈されたとおり、第一句が「おきつなみ」とあったからで、その本文であれば「をしへに」が適切な呼応関係をなすと考えたからであろう、と私も考える。@で推測したように、その後、定家は補訂された本文において、「おきつなみ」を「おきつふね」に改めた。そうすると「おきつふね……をしへよ」という呼応関係で歌意もすっきりすることになる。つまり、定家は「おきるなみ」を「おきつふね」に改めたことに連動して「をしへよ」と元の形に戻したのではあるまいか、と推測する。

Bについては次のように推測する。定家自筆本奥入の書き本には「わるや/\と」(訂正以前本文)とあった--別本の陽明文庫本・伝冷泉為相筆本(長谷場氏本)・麦生本・阿里莫本と同文--のを、定家は最初「/\」を摺り消してその上に「い」と重ね書き訂正した。しかし、なぜ定家は「わるやい」と訂正したのか。現在「わるやい」とする写本は青表紙本の横山本以外ない。したがって横山本に拠ったとものではない。横山本は自筆本奥入の巻尾本文の訂正本文を書承したと考えるべきである。「わるやい」は片桐洋一氏が論じていたように、近江の君の「俗っぽい口頭語」であろうか。しかし、定家は切断された本体を追補して復元された本体において、再び「わるやい」の「い」をミセケチにして削除して「わるや」とした。その訂正以後の本文を書承したのが御物本や池田本等の鎌倉南北朝期の写本であった。一方、大島本は定家本のミセケチ跡までそっくりに書承したもの--大島本は「定本 波とあり」と朱注しているように「定家本」を参照している--と私は推測する。

以上@とBは明らかに自筆本奥入の巻尾本文が大島本の本文に先行する様態を示している。Aのみが大島本の本文が自筆本奥入の巻尾本文に先行する形を示しているが、自筆本奥入の巻尾本文が後に追補され、その上にさらに定家の本文校勘が続けられていった、そのことを推測させる痕跡として、御物本や池田本さらには大島本の本文訂正跡。

なお、自筆本奥入の「真木柱」本行本文中における、定家本としてはほとんど使用されることのない特異な変体仮名「を(乎)」が使用されている点が注目される(注26。すなわち6行目「おなし人をや」の「を(乎)」と同じく6行目「といふを」の「を(乎)」と8行目「きこえぬ物をと」の「を(乎)」である。定家本では、変体仮名「を」の字母「乎」は、定家本「土左日記」中に書き本の字母を尊重して書写しているところにのみ見られるものである。ここの「を(乎)」の使用も書写者が書き本の字母をそのまま書承したものであろう。定家はそれをそのままに放置していたものだが、書き本の古態性を窺わせるものである。

以上のように、「真木柱」では自筆本奥入の巻尾本文が大島本に先行すると考えられるのである。

【9】「梅枝」巻尾本文8行)

自筆本奥入所載の「梅枝」巻尾には本文の訂正跡は見られない。

(画像略)

H「自筆本奥入」(63オ)「梅枝」(末尾8行)

□□□□□□□□□□□□ぬつれな

さよと思つゝけ給うけれと

かきりとてわすれかたき/を

わするゝもこやよになひ

く心なるらん/と

あるをあやしとうち越かれ/す

かたふきつゝミゐ
          給へり

しかし、本文に関しては自筆本奥入の巻尾本文と大島本との間に微妙な異同がある。

@「給うけれと」自奥・御横池/陽保-「給はうけれと」肖三/河/麦阿桃

自筆本奥入の巻尾本文は「思つゝけ給うけれと」とあり、一方大島本のの本文は「おもひつゝけ給はうけれと」とある。すなわち自筆本奥入には係助詞「は」がなく、大島本にはある、という相違である。

自筆本奥入では「思ひ続け給ふ。憂けれど」といったん文を結ぶ形。あるいは「思ひ続け給うけれど」という連用形「給ひ」のウ音便形「給う」という語形も考えられる。それに対して大島本は「思ひ続け給ふは憂けれど」と、主格になって続いていく形である。いずれにしても、自筆本奥入の巻尾本文の形は曖昧であり、「憂し」が無いのは文意としてもやや意を尽くさないし、「憂し」を表面に出してもいったん文を結んだ後に、「憂けれど」と文を始めるのはやや唐突の感が否めない。

「大成校異篇」によって、他本を参照すると、自筆本奥入の巻尾本文の形は青表紙本の御物本・横山本・池田本等の鎌倉南北朝期の写本や別本の陽明文庫本・保坂本と共通本文。対して、大島本の本文は室町期書写の肖柏本・三条西家本及び河内本や別本の麦生本・阿里莫本・桃園文庫本等と共通本文。文章としてのわかりやすさという点では自筆本奥入の巻尾本文よりも大島本の本文の方が誤解もなくより改善されているといえる。

10】「藤裏葉」巻尾本文6行)

自筆本奥入所載の「藤裏葉」巻尾にも本文の訂正跡は見られない。

(画像略)

I「自筆本奥入」(65オ)「藤裏葉」(末尾6行)

にほハしきところハそひてさへ

ミゆふえつかうまつり給いとおも

しろしさうかの殿上人みハしに
さふらふなかに弁少将のこゑすく

れたり猶さるへきにこそとみえ

たる御なからひなめり

本文に関しては自筆本奥入の巻尾本文と大島本との間に仮名遣いの異同がある。

@「ふえ」(巻尾本文)-「ふへ」(大島本)

なお、「笛」の仮名遣いの異同に関して、「源氏物語本文研究デ-タベ-ス」によれば、全52例中、仮名表記では「ふえ」「ふゑ」「ふへ」の3通りの仮名遣いが存在するが、「ふへ」と表記するのは、この「藤裏葉」1例のみである。一方「ふゑ」の用例は「少女」(2例)「初音」(1例)、漢字表記「笛」は「宿木」(2例)「手習」(1例)である。残りは「ふえ」である。大島本では一巻の中で仮名遣いの混在が見られないということは、その書き本の性格あるいは書写者の書き癖を反映しているものだろうか。自筆本奥入の巻尾本文の仮名遣いは歴史的仮名遣いであり、大島本「源氏物語」の中でも多数派である。

11】「柏木」巻尾本文17行)

自筆本奥入「柏木」は表裏2面にわたって巻尾本文が現存している。74オには12行見られるが、最終1行(2文字)は数え入れないで11行とする考え方もできよう。その裏面は5行である。本文の訂正跡が見られるが、はたしてすべて定家筆であろうか。6例中、5例は定家の訂正または修正だが、1例は書写者の訂正跡ではないかと考える。

池田亀鑑氏は「「なさけ」の「さ」、「給けれは」の「れ」、「としふる」の「る」、「おほしいてゝなむ」の「む」、「おほしいつる」の「る」などは定家により補正されてゐるらしい。但し高野本にその由の注記は見えない」(注27と述べ、定家の訂正跡として4箇所を指摘している。

一方で、片桐洋一氏は「二行目の「なさけ」の「さ」、四行目の「おほやけ人」の「や」、「としふる」の「ふる」、六行目の「御あそひ」の「御あそ」、七行目の「おほしいてゝなむ」の「む」、一一行目の「おほしいつる」の「お」などは定家が筆を加えたものだが、特に三行目の「し給けれは」は「し給けるは」とある「る」の上に「連」の草体を書き、傍にも「れ」と加えることによって「る」を「れ」に訂正しているのであるが」(注28と定家の訂正跡として7箇所を指摘し、その数が多くなっている。

訂正筆跡について改めて見ていこう。まず、3行目「給けれは」の「る」の上に重ね書きした「れ(連)」の筆跡とその右傍らに書いた「れ(礼)」の筆跡はどうか。その筆跡は定家筆であるとは言い難いのではないか。本行本文中の重ね書きされた「れ(連)」の最後の一画は次の「は(波)」に一続きである。よって本行本文上の重ね書きの「れ(連)」は本文書写者のものであり、その右傍らに書いた「れ(礼)」も、墨筆が薄く書体も定家とは見られない、つまり本行本文の重ね書きを明瞭に傍らに記したものと見るべきではないか。

その他は定家の筆と考えてよいと思う。まず2行目の「なさけ」の「さ」の第1画と第2画までは文字の細い線をなぞって明瞭化したもの。4行目「おほやけ」の「や」についても、同じく文字の細い線をなぞって明瞭にしたもの。同じく4行目「としふる」の「ふる」も同趣旨。しかし6行目「御あそひ」の「御あそ」に関しては、重ね書きがされているともされていないとも言い難い。よって私は除外した。

(画像略)

J「自筆本奥入」(74オ〜74ウ)「柏木」(末尾オ12行・ウ5行)

かたをは□□□□□□□□□□

(さ1)けをたてたる人にそもの

し給けれ(る1=れ)はさしもあるましき

おほ(や1)け人女房なとのとしふる(ふる1ふる

めきたるともさへ恋かなしひき

こゆるましてうへにハ御あそひなとの

おりことにもまつおほしいてゝな(ん1

しのはせ給けるあはれ衛もんのかみと

いふことくさなにことにつけても

いはぬ人なし六条の院にハまし

てあはれと(お1)ほしいつる事月日にそ

へて

おほかりこのわかきみを御心ひとつ

にハかたみとみなし給へと人の

思よらぬことなれハいとかひなし

秋つかたになれはこの君はひゐさりなと

ところで、池田亀鑑氏は「柏木」の本文に関して、「この帖には第一次奥入を有する本に定家自筆本・明融臨模本が現存するが、いづれも右の文に一致する。大島本も殆ど同様であるが、一二他本との接触が見られる。本帖のごとき青表紙原本が存し、その臨模本が伝へられてゐるにもかかはらず、既に他本の要素が混入する事実は、第二次奥入の台座となつた物語本文が、青表紙原本と多少の相違のあつたこと、既に他本と接触し、本文の混成を生じてゐたことなどを物語るものである」(注29と述べている。しかし、厳密に言えば、尊経閣文庫本と自筆本奥入との間には「と」の補入をめぐって微妙な異同がある。

池田亀鑑氏は、自筆本奥入の「柏木」巻尾本文と尊経閣文庫本との本文のとの関係について、「いづれも右の文に一致する」と言いながら、また一方で「青表紙原本と多少の相違のあつた」「他本と接触し、本文の混成を生じてゐた」と言っているのは理解に苦しむ。

そこで、ここでは「大島本も殆ど同様であるが、一二他本との接触が見られる」という指摘も併せ含めて検討しておきたい。

自筆本奥入の「柏木」巻尾本文と定家本及び大島本との本文の異同は次のとおりである。

@「ともさへ」(自奥・大、他の青表紙本)-「(+と)もさへ」(定)

A「恋かなしひ」(自奥・定、青表紙本の多数)-「こひかなしみ」(

B「きこゆる」(自奥・定、青表紙本の多数)-「きこゆ」(/河内本/御物本・麦生本・阿里莫本)

C「君ハゐさりなと」(自奥・定、青表紙本の一部)-「君はひゐさりなと」(榊)-「此君ははゐゐさりなと」(肖三) *河内本と別本には、この後に長文が続くが、ここでは省略。

@は「としふるめきたるともさへ」が尊経閣文庫本及び明融臨模本では「ともさへ」の「と」が補入の形になっている。形の上では尊経閣文庫本の補正したものが自筆本奥入の巻尾本文に一致する、という型で、尊経閣文庫本の本文が自筆本奥入の本文に先行するという恰好になる。しかし、その補訂は、補入符号はなく、本文一筆の補入と目される筆跡なので、この補入は書写者が脱字に気づいて自ら補入したものと考えられるものである。よって、尊経閣文庫本の本文が自筆本奥入の本文に先行する根拠事例とはならない。またこのような事例から自筆本奥入の巻尾本文が「他本と接触し、本文の混成を生じてゐた」と言うことも無理であろう。尊経閣文庫本の誤脱、補入ということであろう。とすると、池田亀鑑氏の真意は他の巻における自筆本奥入の巻尾本文と大島本の本文との相異に関して言っていることなのだろうか。しかし、大島本の本文をそこまで絶対的な基準に置いてよいものだろうか、という疑念も湧き起こらずにはいない。

Aの「恋かなしび」と「恋かなしみ」に関して、「源氏物語本文研究デ-タベ-ス」によれば、「恋かなしぶ」(動四)はこの「柏木」(1例)と「夢浮橋」(1例)がある。「恋かなしむ」(動四)は「手習」の1例である。「かなしぶ」は「須磨」「宿木」「手習」に各1例ずつあるが、「かなしむ」はナシ、0である。わずかな用例であるが、大島本の「かなしむ」はやや少数派の用例ということができよう。対して、自筆本奥入の巻尾本文や尊経閣文庫本等の「かなしぶ」は定家本における多数派の用例、あるいは定家本の表記法と言ってもよい用例である。

Bの大島本のように「きこゆ」と文を終止形にする語形は、河内本や別本の麦生本・阿里莫本と同文である。よって、大島本のこの本文は明らかに河内本・別本になる。

Cは青表紙本に限って掲載した。3通りになる。

自筆本奥入の巻尾本文と尊経閣文庫本はA「この君は居ざりなど」である。係助詞「は」と「居ざり」の文意。青表紙本では横山本と陽明文庫本が同文である。

大島本は「この君這ひ居ざりなど」である。係助詞「は」は無く、B「這ひ居ざり」とする。青表紙本では榊原家本が同文。その他には、河内本、別本が同形である。ただし、河内本、別本はこの後にさらに長文が続く。

さらに肖柏本と三条西家本はC「この君は這ひ居ざりなど」である。係助詞「は」と動詞「這ひ」・「居ざり」とすべて揃った形である。

ところで、これまで大島本の異同は「他本との接触」によるものとして捉えらていたが、藤本孝一氏は大島本「柏木」の末尾は実は喰い裂きされて、本来「約六十字前後の文字」が存在していたことを報告したのであった(注30

となると、大島本「柏木」の巻尾は河内本や別本の本文と同じような内容であったということになるのである。大きな問題提起となった。

大島本は当然のごとく青表紙本の一つ、否、青表紙本の最善本として長く信じられていたのである。実際、私が大島本「柏木」の本文について調査しても、青表紙本の中において大島本が尊経閣文庫蔵の定家原本の本文に最も近似した本文であるという位置づけに異論はないのである(注31

(表1-1)定家筆本と青表紙本諸本の比較

定家筆本

第1位

第2位

第3位

第4位

第5位

第6位

A花散里

大(4)

三(18

横(26

明(28

 

 

B柏木

大(141

三(166

榊(171

横(194

陽(196

肖(210

C早蕨

大(22

肖(44

三(68

横(71

御(106

池(107

( )は『大成校異篇』の「青表紙本」内の各青表紙本諸本の掲出数を表す。

(表1-2)異文頻出率

定家筆本

第1位

第2位

第3位

第4位

第5位

第6位

A花散里(55行)

大(0.07

三(0.33

横(0.47

明(0.51

 

 

B柏木 (531行)

大(0.27

三(0.31

榊(0.32

横(0.37

陽(0.37

肖(0.40

C早蕨 (246行)

大(0.09

肖(0.18

三(0.28

横(0.29

御(0.43

池(0.43

( )は『大成校異篇』の行数に占める掲出数の頻出率(掲出数/全行数)

(表1-3)阿部秋生氏による「柏木」調査結果

中山本

大島本

陽明本

吉田本

尾州家本

137

94

119

139

160

3.87

5.65

4.46

3.82

3.32

右列は異文数、左列は大成「柏木」531行を異文数で割った数字である。大島本は5.65行に1個の割合で異文が出て来る。

(表1-4)吉岡曠氏による「柏木」調査結果

 

 大

 榊

 横

 陽

 三

 肖

定家本と同文

104

98

81

80

71

56

定家本と異文

32

38

 55

56

65

80

二本以上の共通異文数136箇所中、定家本と諸本の訂正以後本文との同文・異文の数値。

大島本が長い伝写の過程の中で他本、例えば河内本や別本などと接触したろうことはその書き入れ痕跡などによって十分に受け入れられる説である。

さらに言えば、大島本は伊井春樹氏によれば、河内本や別本などの他系統の本文との接触のみならず、他の青表紙本とも校訂されて、「校訂作業を経るにしたがいより純正な青表紙本の特性を持つにいたった」(注32とさえいうのである。

しかし、大島本はこのような重大な末尾本文の異同に関しても、本当にそのような複雑な過程を経てきたものなのだろうか、という疑問が残るのである。

大島本は諸本中で、定家原本に最も近似する本文であるが、しかし定家原本「花散里」「柏木」「早蕨」において、等しく近似しているのではなく、巻によってはなはだ相違するという事実にも注目すべきである。

大島本は「花散里」と「早蕨」に対しては、異文頻出率において、0.07から0.09であるが、それに対して「柏木」では0.29という数値である。約3倍から4倍の高さである。この数値はやはり異例というべきであると考えている。

つまり大島本について、私は一口に大島本といって全体を一つにみるべきでなく、巻ごとに捉え直していくべきべきではないかと考えるのである。

12】「竹河」巻尾本文7行)

「竹河」巻尾本文は本文に関する訂正跡はなく、本文も大島本の本文と同内容である。

(画像略)

K「自筆本奥入」(92オ)「竹河」(末尾7行)

なる越うれハしとおもへりしゝ

うときこゆめりしそこのころと

うの中将ときこゆめるとしよハ

ひのほとはかたハならねと人に

越くるとなけきたまへりさい

さうハとかく

つきつきし

    く

13】「早蕨」巻尾本文6行)

「早蕨」巻尾本文(6行)について、3箇所の訂正跡がある。いずれも文字を明瞭化しようとした定家の訂正跡と考える。池田亀鑑氏は「「おもひ」の「お」と「なすらへ」の「へ」とが定家により補正されてゐるやうである」(注33と言っているが、「おもひ」の語は2例あり、共に「お」は元の文字の上に「お(於)」と重ね書きされているのだが、まとめて言っているのか、やや精確さを欠く。「なすらへ」についても「へ」だけではなく「ら」も重ね書きされているように見受けられる。元の文字の上に「らへ」と重ね書きされていると認められよう。大島本との間に本文の異同はない。

(画像略)

L「自筆本奥入」(107オ)「早蕨」(末尾6行)

人も(お1)もひの給□□□□□□
への御かハりとなす
らへ(らへ1らへ)きこえてかう
(△1)もひしりけりとみえたてまつるふ
しもあらはやとハおほせとさすかに
とかくやとかた/\にやすからすきこえ
なしたまへハくるしうおほされ
            けり

14】「蜻蛉」巻尾本文3行)

「蜻蛉」巻尾本文は3行程残存しているが、1行目は切り取られて殆ど判読不能である。その判読不能の最初の1行を数えるか、また最後の行の「まふ」を1行と数えるか、前行に組み込んで数えるかによってその指し示す行の位置に違いも生じよう。2か所本文の訂正跡がある。1例は定家筆だが、もう1例は書写者筆ではないかと考える。

池田亀鑑氏は「第一行が切り取られて不明である。第二行の「あるかなきか」の「き」は定家の補正と見え、また「なきかのと」の「の」も彼の補入と思はれる。大島本の本文は右と一致する」(注34と言うが、実は「大島本の本文は右と一致」しない。池田亀鑑氏には重大な見落としがある。すなわち「大成校異篇」に翻刻されているように、大島本には「ひとりこち給」の次に「とかや」の語句があるのである。

一方、片桐洋一氏は「大島本などの「れいのひとりごち給とかや(○○○)」の「とかや」がない。尾州家本をはじめとする河内本系諸本や別本の陽明文庫本・保坂本・麦生本を含め「とかや」のない本文も多いが、定家本の中では、この奥入本は特異である。ある段階で定家は「とかや」のない方がよいと判断したのだろうか」(注35と推測している。その一方で、「あるかなきかのと」の「き」や「の」の補正については定家筆とも何とも言及していない。

 ところで、池田亀鑑氏は「き」の補正も「の」の補入もすべて定家筆と捉えているが、「の」の筆跡と「き」の筆跡は大きく相異するといえよう。重ね書きした「き」の筆跡は定家筆かと認められるが、補入文字「の」は本文一筆に見受けられるもので、それは本文書写者自身の筆跡ではないか。

(画像略)

M「自筆本奥入」(119オ)「蜻蛉」(末尾3行)

えしかけろふあるかな(△1
か(
0)とれいのひとりこちた

まふ

では、自筆本奥入の「蜻蛉」巻尾本文と大島本の本文の異同について考える。

@「か(+の)と」自奥-「かのと」池肖-「かと」横三/河/陽麦阿-「かとのみ」宮国

A「たまふ」自奥/河/陽保麦-「たまふとかや」横池三/阿-「たまふとや」肖/宮国

@では自筆本奥入の訂正後の本文が大島本と同文という関係である。補入文字「の」は本文書写者自身の補入と考える。その補入以前の「あるかなきかと」という形が横山本等に見える。しかし、その形は河内本や別本の一部にも見られる形であるから、あるいはそれらとの接触によるというふうに考えられなくもない。とはいえ、横山本等は自筆本奥入の訂正以前本文に従った形であると考えると、その補入訂正時期が問題となる。補入が後のものであればその間にというふうにも納得されるが、書写者自身による補入と考えると、前者と考えざるをえない。

Aについては、片桐洋一氏は大島本を第1次本、自筆本奥入の巻尾本文を第2本という捉え方をするので、「ある段階で定家は「とかや」のない方がよいと判断した」のか、逆に「ある段階で定家は「とかや」のある方がよいと判断したのだろうか」と言っていたが、鎌倉・南北朝期書写の横山本・池田本も大島本と同文となっていて、自筆本奥入の形を書承する写本は無い。むしろ定家はある時点で--切断された本文本体に切断部分を補訂した後にさらに校勘作業を続けていく過程で--「とかや」の有る本文の方を良しとしたのではないか。その方が定家の美学にも適っているように私には思われるのである。以下、その理由を述べる。

宇治十帖における大島本(「浮舟」は明融臨模本)の文末表現は、2種類に分類できる。

1つは助動詞の終止形型、もう1つは助詞+助詞または助動詞+助詞の連語型である。

「橋姫」「……おもひゐたまへり」(完了の助動詞「り」終止形)

「椎本」「……あひきやうつきたり」(完了の助動詞「たり」終止形)

「総角」「……おほすとや」(連語「とや」格助詞+係助詞)

「早蕨」「……おほされけり」(過去の助動詞「けり」終止形)

「宿木」「……かたりけり」(過去の助動詞「けり」終止形)

「東屋」「……つたへけるとそ」(連語「とぞ」格助詞+係助詞)

「浮舟」「……たまへりとなむ」(連語「となむ」格助詞+係助詞)

「蜻蛉」「……給とかや」(連語「とかや」格助詞+係助詞+間投助詞)

「手習」「……みたれけるにや」(連語「にや」断定の助動詞+係助詞)

「夢浮橋」「……ならひにとそ」(連語「とぞ」格助詞+係助詞)

10帖中、6帖の文末に助詞+助詞または助動詞+助詞の連語型が見られる。そして各巻の末尾の物語内容から推測すれば、「蜻蛉」においては、「とかや」の削除よりも追加の方が、むしろ定家の物語観・美意識に適っていると考えられるからである。

よって、自筆本奥入の巻尾本文「蜻蛉」の形が大島本の本文に先行するのではないか、と私は推測する。

以上、自筆本「奥入」巻尾本文における訂正跡とその訂正者についてまとめると、次の表のようになる。

(表1-5)自筆本「奥入」巻尾本文における書写者と定家の本文訂正・修訂

 

巻名(訂正数)

本 文 訂 正 修 訂 内 容

書写者

定家

1

夕顔@

  A

  B

4

5

7

御こならむからにミたら(たら1)む人さへ

かたほ(△2)ならす物ほめかちなる

のしたまひけれハなむ(△△2なむ)あまりも

 

 ○

 ○

 ○

2

若紫@

 4

ふし(を2)きなとハえしもすましきを

 

 ○

3

蓬生@

 4

おりにおもひいてゝな(△1な)ん

 ○

 

4

松風@

 1

ら(△2ら)うたきものにしたまふ御心なれは

 ○

 

5

玉鬘@

 1

ことはりなりやとそ(△1)/める

 

 ○

6

初音@

  A

  BC

  D

  EF

 1

 2

 3

 

 5

た(0)ひて御ことゝものうるわしきふくろ

(ん1)してひめ越かせ給へるミなひき

いてゝをしのこひて(て3)ゆる(へ1)るをとゝの(へ1

心(1けさう)をつくし給ら(ん1)かし

 

 ○

 ○

○○

 ○

○○

7

行幸@

 5

かてらハしたなめたまふなとさま/\い(ま/\に2ま/\い

 ○

 

8

真木柱@

   AB

   C

   D

   E

   F

   G

 1

 4

 5

 6

 7

 9

11

(△1)さはくこゑいとしるし人/\

  (△2(△1)つなみよるへなたゝよはゝさほ(さを1さほ)さしよらむとまり

越しへ(よ1)たなゝしをふねこきかへり

おなし人乎やあなわるや(/\2)といふ乎

うゐな(△1)こときこえぬもの乎と思

(△1)かしうて

 

 ○

○○

 ○

 ○

 ○

 ○

 ○

9

梅枝(ナシ)

 

 

 

 

10

藤裏葉(ナシ)

 

 

 

 

11

柏木@

  A

  BC

  

  D

  E

 2

 3

 4

 

 7

11

(さ1)けをたてたる人にそもの

し給けれ(る1=れ)はさしもあるましき

おほ(や1)け人女房なとのとしふる(ふる1ふる

おりことにもまつおほしいてゝな(ん1

てあはれと(お1)ほしいつる事月日にそ

 

 ○

 ○

 

○○

 

 ○

 ○

12

竹河(ナシ)

 

 

 

 

13

早蕨@

  A

 

  B

1

 2

 

 3

人も(お1)もひの給□□□□□□
への御かハりとなす
らへ(らへ1らへ)きこえてかう
(△1)もひしりけりとみえたてまつるふ

 

 

 

 

 ○

 ○

 

 ○

14

蜻蛉@

  A

 1

 2

えしかけろふあるかな(△1
か(
1)とれいのひとりこちた

 

 ○

 ○

合 計(34

 

 

 7

 27

 

次に、自筆本「奥入」所載「源氏物語」本文の本文訂正と大島本の本文との本文異同に関して、その先後関係について考察したところをまとめてみよう。

まず、池田亀鑑氏が分類した4通りについて、そのうちの「二」と「三」に関して、特に自筆本奥入の巻尾本文に訂正跡のある箇所に限って整理しよう。

 (表1-6)自筆本「奥入」巻尾本文と大島本の先後関係

池田亀鑑氏の分類

巻名

本文異同(巻尾本文-大島本)

二、補正したものが

大島本に一致するもの

夕顔

若紫

初音

初音

真木柱

 

蜻蛉

A「ミたら(たら$)む」(巻尾)-「見ん」(大島)

A「ふしお(を&お)き」(同)-「ふしおき」(同)

B「をしのこひて(て$)」(同)-「をしのこひ」(同)

C「心(+けさう)」(同)-「心(+けさう)」(同)

B「あなわるやい(/\&い)と」(同)-「あなハるやい(い$)と」(同)

@「か(+の)と」(同)-「かのと」(同)

 

 

 

 

 

 

6

三、補正以前のものが

大島本に一致するもの

真木柱

A「をしへに(よ&に)」(同)-「をしへよ」(同)

1

「二」は、自筆本奥入の巻尾本文が大島本の本文に先行する関係を示し、「三」は反対に、大島本の本文が自筆本奥入の巻尾本文に先行する関係を示す例である。

「真木柱」Aは3例中の1例が反対の事例を示しているので、巻全体としては池田亀鑑氏の「四、補正の前と後との間が混乱して大島本に一致したり対立したりするもの」に分類されるものになろうか。

自筆本奥入の巻尾本文における訂正以前・訂正以後の本文と大島本の本文との関係でいえば、「夕顔」「初音」「蜻蛉」は訂正以後の本文が大島本の本文に一致している、ということで、自筆本奥入の巻尾本文が大島本の本文に先行するということを示唆する。

対して自筆本奥入の巻尾本文の訂正以前の本文が大島本の本文に一致するというのは、「真木柱」3例中の1例(A)、ということで、巻全体としては大島本の本文が自筆本奥入の巻尾本文に先行するとはいえない。むしろ、その反対の可能性の方が高いのである。

次に、視点を変えて、自筆本奥入の巻尾本文と大島本との本文の異同に関して、その本文内容の明快性また曲折性から整理してみよう。

 (表1-7)自筆本「奥入」巻尾本文と大島本の本文の明快性・屈曲性の関係

本文の明快性・曲折性

巻名

本文異同(巻尾本文-大島本)

自筆本奥入の本文が大島本よりも明快なもの

 

 

0

大島本が自筆本奥入の本文よりも明快なもの

真木柱

 

梅枝

蜻蛉

@「おき(△△&おき)つなみ」(巻尾)-「奥津ふね」(大島)

@「給うけれと」(同)-「給はうけれと」(同)

A「たまふ」(同)-「たまふとかや」

 

 

 

3

本文の異同について両本を比較した場合に、より明快である、分かりやすいという性格の本文が、難解である曲折感があるという性格の本文よりもより改良・改訂された本文であるということがいえるならば、自筆本奥入の巻尾本文よりも大島本の本文の方が後のものとなろう。

以上のように、池田亀鑑氏や片桐洋一氏がいうところの、大島本の本文が第1次「源氏物語」、自筆本奥入の巻尾本文が第2次「源氏物語」は、その本文内容の比較検討を通して、むしろその逆で、自筆本奥入の巻尾本文が第1次「源氏物語」で、大島本の本文が第2次「源氏物語」であるというのが私の結論である。