第二節 池田亀鑑以後の「源氏物語」の本文研究と問題点(2023年2月16日修訂)

 

はじめに

 

第一節では池田亀鑑氏編著『校異源氏物語』『源氏物語大成』の学術的意義と問題点を明らかにしてきた。第二節では「校異源氏」「大成校異篇」の問題点がその後どのように考究されてきたかについて見ていく。

池田亀鑑氏の考えは「青表紙本は一つである。青表紙本諸本間の本文の異同は誤写や他本との接触から生じた結果である」という見解である。この考え方が後に定説化し現在に至っているといってよいだろう。

池田亀鑑氏は、例えば、青表紙本原本の存する「柏木」の尊経閣文庫本とその臨模本の明融臨模本、及び定家自筆本「奥入」所載の六半本型「源氏物語」末尾本文と大島本のそれぞれの末尾本文とを例に挙げて、「定家本及び明融臨模本は「ふるめきたるもさへ」の「と」を補入傍書し、「かなしみきこゆ」を「かなしきこゆ」とし、「この君はゐさり」を「この君はゐさり」とするなど多少の相違が見られる。第二次奥入に残存する源氏本文は「ともさへ」を大島本と同じくするほかは定家本・明融臨模本と同様である。右のやうに大島本の本文は青表紙本原本のそれと殆ど一致する。一二の相違は筆写という方法によつて伝達される場合当然生ずる誤差である。」(注1)というように、第一に、大島本は定家本原本を淵源として、それから筆写による誤差であるとしている。確かに大島本は文明十三年書写奥書を有する写本であるので、定家の時代からはかなり後世の写本である。しかしその時に「定家本原本」がもし伝存していたならば、その時代差は無関係である。池田亀鑑氏は大島本の書き本を一華堂乗阿が周防国守で見た世に「青表紙」と号する「京極中納言定家本」(桐壺・花宴・橋姫の3冊が定家卿自筆、他は俊成卿女などの筆、ただし澪標は逍遥院の補写)ではないかと想定しているが、そうなると、現存の定家本原本(5帖)と齟齬をきたす諸点(例えば「柏木」が定家卿自筆に含まれていない)も出て来るが、桐壺・花宴・橋姫の3冊が定家卿自筆という点は、明融臨模本から遡源される定家本原本と一致するが(注*1)、いずれにせよ、もし乗阿が周防国守で見た「青表紙」が大島本の書き本であったとするならば、それは「柏木」が定家筆でなかったもう一つの「青表紙」ということで、実は「青表紙」は一つではないことを物語っているのである。

石田穣二氏も尊経閣文庫蔵の前田家本「柏木」と「大成校異篇」収録の「青表紙本」6(大島本・横山本・榊原家本・陽明文庫本・肖柏本・三条西家本)との関係について、「これらの六本は、やはり、この前田家本を源流とする」(注2)と見ている。

ところで、大島本と定家本原本との本文上の差異は、本当にすべて筆写による誤差なのであろうか。

そして、定家自筆本「奥入」所載の六半本型「源氏物語」末尾本文14帖の残存本文と大島本「源氏物語」本文との関係を比較して、以下のような結論になっている。

「一、大島本の本文に全く一致するもの

二、補正したものが大島本に一致するもの

三、補正以前のものが大島本に一致するもの

四、補正の前と後との間が混乱して大島本に一致したり対立したりするもの

凡そ以上の四種がある。」(注2)と分類はしているものの、その事例や数値は挙げることはせずに、「(一)は問題でない。(二)(三)(四)の場合には本文の混成が生じてゐるごとく解せられ、また第二次奥入(六半本型源氏物語――渋谷注)の台座となつた本文が第一次(四半本型源氏物語――渋谷注)のそれと必ずしも同一でなかつたのによるとも考えられる。おそらくはその二者があり得たであらう」(注3)と、「混成」と解する一方で、「同一でなかつた」とも言い、また「その二者があり得たであらう」と、結局は曖昧な結論に終っている。

要するに、池田亀鑑氏の定家本原本と大島本との本文比較検討及び大島本本文と自筆本「奥入」所載の「源氏物語」末尾本文14帖の本文比較検討はいずれも不徹底であって、印象論的な結論であって、研究としては中途段階のものなのである。

本節では、池田亀鑑氏「大成研究資料篇」以後の本文研究の展開とその問題点を明らかにしていく。

 

一 石田穣二「源氏物語 柏木 校訂私言」と問題点

 

 (1)青表紙本と「校訂」の概念

石田穣二氏は前田育徳会尊経閣文庫蔵「柏木」の本文様態について、「漢字、仮名の用字や、仮名遣は別として、ある一本に忠実な書写と考えられる。」(注4)といい、そして、「青表紙本の本文は、ある一本の忠実な書写に終始しているようである。書写に際して、あるいは書写終了後に、相当程度にわたって筆を補っているにもかゝわらず、比較的目につき易い本文上のきずについては、これをそのまゝに放置している、ないしは、放置していると考えられる、という事実が、それを証する。またその書本に既に定家の、字の訂正以外の本文校訂の手が加わつていると見るべき根拠はない。結局、青表紙本原本は、定家の校訂本、と見るべき理由はない、と私は考える」(注5)と結論された。

石田氏の論は、「講読、演習用のテキスト」(注*5)の解説として書かれたものであって、論文として書かれたものではなく、翻刻されたテキストの上欄に注記の形式で書かれたものである。単に河内本や別本との異同の掲載というだけでなく、石田氏の定家本の本文に対して何らかのコメントが付けられているものを引いてみよう。例えば、

@「御かゆて―御かゆ 河内本、別本四本。「て」衍か」(10頁)

A「たひら―たひらか 河内本、別本。「たひら」の語形は認めがたい」(13頁)

B「きこえかへさむ―きこえかへさひ 河内本、別本三本。河内本に従うべきところ」(18頁)

C「あけはてぬるに―あけはてぬに 河内本、別本三本。河内本をよしとすべし」(18頁)

D「御宮たち―宮たち 河内本五本、別本。「御」衍と考うべきか」(32頁)

E「さらば―さらに 河内本五本、別本二本。「さらば」では落着かない。訂すべし」(39頁)

F「おほく―おほえ 別本四本。河内本も「おほく」であるが、この本文は採りがたいと思う」(40頁)

G「うのはなは―そらは 河内本、別本四本。「そらは」に従うべし」(44頁)

H「そろゝか―そゝろか 河内本二本、別本三本。この語、空蝉八七、行幸八九六に見える。「そろゝか」の形は古写本にかなり多く見えるが「そゝろか」を正しとすべきであろう」(47頁)

等である。つまり、定家本原本の本文には誤写やキズがあるが、そのままに――書き本にそうあるがままに――書写されている、裏返して言えば、定家によって本文は校訂されていない、ということを言おうとするものである。しかし、これらだけで「本文校訂の手が加わって」いないと断言できるのだろうか。

(2)青表紙本は無校訂本か

この石田穣二氏の見解は、その後、阿部秋生(注6)、室伏信助氏(注7)等にも引き継がれ、今日では通説化しているようだが、真実そうなのか、池田亀鑑氏の「大成校異篇」(柏木)校異欄に掲出されている定家本の異同箇所(51例)に、太田晶二郎氏の「古典籍覆製叢刊 源氏物語(青表紙本)使用上の注意」(+13例)(注8)を加えた本文異同箇所(64例)について、その訂正以前本文と訂正以後の本文について、それらを他系統本との本文異同を詳細に検討すると、再検討を要する問題に思われる(注9)

例えば、「大成校異篇」と「使用上の注意」に掲載されているところから、その訂正以前本文が窺える箇所として、8例中から、特に他本との共通異文関係が注目される3例を見ると、次のとおりである。

@「その心はえをもみはてむと」(2161240A)

「心はえを(を補入)も」定明

 「心はえをも」大横榊肖三・河・別(御国麦阿)

 「こゝろはえをも(も補入)」陽

 「こゝろはへも」別(保)

A「ものしたるついてにいむことうけ給はむをたに」(2181240B)

 「うけ給はむ」定明

 「うけ給はむ」大横榊陽肖三・河・別(御保麦阿)

 「うけ給はらん」別(国)

B「つねにひき給しひわゝこむなとのをもとりはなちやつれて」(3911255D)

 「なとの(の補入)」定明

 「なとの」大横榊陽肖三・河・別(麦阿)

 「なと」別(御保国)

いずれも「大成校異篇」に記載されている例である。@は補入による訂正以前の本文が別本の保坂本と同文、Aはミセケチによる訂正以前の本文が別本の国冬本と同文、そしてBは補入による訂正以前の本文が別本の御物本・保坂本・国冬本と同文である。明融臨模本はその名のとおり、定家本原本の補入、削除等の訂正跡をそのままに書承しているのであるが、定家本原本において訂正されていることは明白である。これらの訂正は他本との校合による訂正か否かは別問題としても、「校訂」と言える行為ではないか。これらをまったくの偶然というのには無理であろう。

さらに、この他に、その訂正以前の本文が同じ「青表紙本」のある写本と同文という例もある。

 C「心ちしはへる」(2851246A)

  「心ち」定明

  「心ち」大・河・別(御保国麦阿)

  「こゝちの」横榊陽肖三

 この例は、太田晶二郎氏が「使用上の注意」に「大成、此ノコトヲ言ハズ」と注記しているように、「大成校異篇」には漏れた例である。明融臨模本にも定家本原本のミセケチ訂正跡がそのままに書承されているから、原本において訂正されていることは明白である。その訂正後の本文が大島本に継承されていることは理解できるが、訂正以前の本文の形が「青表紙本」の鎌倉期写本(横山本・榊原家本・陽明文庫本)や室町期写本(肖柏本・三条西家本)と同文であるとは、いったいどう考えたらよいのか。定家本自体において、「定家本原本」以前に枝分かれした定家本写本の存在を想定せざるを得ないのではないか。これも単なる書写上の「誤差」範囲のことと言い切ってしまってよいものであろうか。

そして、次なる問題は、「柏木」において見られたことがそのまま他の巻にも当てはまるのかどうか、という問題検証である。石田穣二氏の「青表紙本の本文は、ある一本の忠実な書写に終始しているようである」「青表紙本原本は、定家の校訂本、と見るべき理由はない」の「青表紙本(原本)」は「柏木」に限って言っているようでもあり、また他の巻をも含めた「青表紙本」全体についても言っているようであり、曖昧なのである。したがって、これを他の巻にまで敷衍していうことは危険である。阿部秋生氏や室伏信助氏の言説にはその危険性を冒しているように考えられる。

 

二 阿部秋生「源氏物語諸本分類の基準」と問題点

 

 (1)青表紙本は2ないし3グループ

池田亀鑑氏や石田穣二氏等が考えていた「青表紙本は一つである。いずれも一つの原本から書写されていったもので本文の異同は書写過程中に生じた誤写範囲である」とされていた考え方に対して、阿部秋生氏は「夕霧」末尾の夕霧子息・子女に関する本文異同を例に挙げて、「青表紙本」が2系統に分かれていることを指摘し、「青表紙本の中が、往々にして二つの系統に分かれる。その一方(A)は鎌倉期の写本を含んでおり(大・横・池・吉――渋谷注)、一方(B)は室町期の写本(肖・三・明・証・幽――同)のみである」というように、「鎌倉期の写本」グループと「室町期の写本」グループの「二系統」に分かれることを指摘したが(注10、前者のグループの中には、「文明十三年奥書」の大島本も含まれているので、やや曖昧な「鎌倉期の写本を含んでおり」という言い回しになっているが、その後、今度は「柏木」巻を例にとって、ここでは「定・明・大という本文グループに対して、陽・吉・横・榊という鎌倉〜南北朝書写の伝本グループが、近寄る時も離れる時もグループをなしている事実を認めざるをえないだろう。(略)三条西家本は第三の青表紙本というべきなのか、それとも別本の一種と認むべきなのかという疑問を生じる」(注11と問題を提起した。

すなわち、「青表紙本は一つではない、青表紙本の本文は、定家本(明融臨模本・大島本)グループと鎌倉期写本グループと室町期写本の三条西家本グループとの3分類される」という実情を指摘したのである。併せて、前節における石田穣二氏の説を受けて、「定家が、「狼藉未不審」(『明月記』)と言った「諸本」の中から、その見識によって選び出した「一本」なのであろう。その一本が別本であったことは疑いえない。その古伝本系別本とでもいうべきものを書本として、これを忠実に書写したものが定家の証本であり、これを青表紙と呼ぶならば、名称は青表紙であっても、その中身の本文は、この古伝本系別本の本文である」(注12として、本文としての「青表紙本」の固有性・存在性を否定し、「別本四類(池田亀鑑が区分した別本の四種類案、「大成研究資料篇」171172参照――渋谷注)中の第一類(略)古伝本系別本の中の青表紙系別本」(注13という呼称を与えている。

阿部秋生氏の本文研究は「青表紙本」(古伝本系別本の中の青表紙系別本として)を含めた「別本」本文の研究へと移行していき、再び「定家本」(青表紙本)の3グループの問題に戻ることはなかった。それにも拘わらず、阿部氏の考え方には、依然として「青表紙本は一つである」という考えが支配し続けて、『日本古典文学全集』『完訳日本の古典』『完本源氏物語』『新編日本古典文学全集』『古典セレクション』(以上、小学館)あるいは『校注古典叢書』(明治書院)の本文の校訂の際には、「本書の本文は、伝定家筆本・伝明融筆臨模本・飛鳥井雅康筆本(古代学協会所蔵、通称「大島本」)等を底本とし、これを『源氏物語大成』校異篇所収の青表紙諸本と、その他数種の青表紙諸本とによって校訂したものである。河内本・別本の本文は参考として掲げるにとどめた」(注14と言っているのである。阿部氏自身が思っていたように、もし「青表紙本」が2ないし3グループに分かれるというのならば、それら別のグループに属する写本同士を互いに校訂してしまってよいものなのか、という疑念が生じるはずである。

(2)定家本の本文の処理方法

阿部秋生氏においても、一方で「青表紙本」は3グループに分かれと指摘しながら、本文の校訂作業をする際には、「伝定家筆本」グループを基軸にして、他の鎌倉・南北朝期グループや室町期書写の三条西家本グループの写本で「校訂」しているのは、矛盾ではないか。阿部氏は「遠い昔のことになったが、橋本進吉先生は、授業の中で、資料の扱い方について注意すべきことを、具体的に説明なさることがあった。その一つに、本文を校訂するために諸本を校合する場合には、同一系統の本文を校合するのでなければならない、異本相互の本文を校合することは、作業が進んだ段階ならばともかく、最初の段階では無意味なことだという説明があった」(注15と回想しているが、いったい、「青表紙本」は一つなのか、ということが問題となっているときに、「青表紙本」中の一つのグループを底本として、他のグループの諸本で校訂するということは適切な校訂方法なのか。

「青表紙本」の本文が巻によって、2ないし3グループに分かれるという事実の究明こそ重要な問題ではないか。

室伏信助氏は、現代の文献学的方法に対して、「現代の本文批判は、同系統の本文における異文の処理は、多数によって決するという方針が最優先されている。この方法論の背後には、唯一の原本の存在の確認とそれへの遡源が方法的に可能であるという前提がある。(略)言ってみれば土左日記の場合にのみ適用しうるのである」と言い、「単一の原作を想定し得ない作品を、単一の原作を想定し得る作品の復原法で準用したところに、方法論が目的化した誤りが存することは自明の理といえよう。」(注16と批判しているが、「原本」「原作」を、「青表紙本」と置き換えた場合においても当てはまろう。いったい、「定家本」(青表紙本)を底本とした場合、その校訂はいかにあるべきなのか。

「多数決」主義が適切でないことは言うまでもないだろう。少なくとも、「定家本」(青表紙本)の本文が巻によって2ないし3グループに分かれそうである、というならば、まずはそのことを巻毎に明らかにして、各グループ間の本文関係について比較検討を試み、次いで、そのうちのいずれのグループの本文が底本として適切であり、また本文整定(校訂)を行なう場合に、いかなる方法が適切であるか、という段階が必要である。

 

三 片桐洋一「もう一つの定家本『源氏物語』」と問題点

 

(1)「四半本型」と「六半本型」の2種類の「源氏物語」

「青表紙本」は一つか、否、巻によっては2つないしは3つのグループに分かれるのではないか、という疑念が提起された同じ頃に、片桐洋一氏は、定家が源氏物語「五十四帖全体を書写したことは、現在知られている『明月記』を見る限りでは、この元仁二年二月の例だけしか見出せないのである。しかし、だからと言って、定家が『源氏』五十四帖を書写したのは、この元仁二年のただ一回だけであったと断定してしまうのは如何であろうか」と言って、「定家筆と伝えられる現存の『源氏物語』は四帖、すなわち尊経閣文庫の「花散里」「柏木」、関戸家の「行幸」、保坂家旧蔵の「早蕨」が、この元仁二年書写本にあたるとするのが、池田亀鑑氏を始めとする近年の『源氏』学者の一般的理解であるらしいが、これらのような四半本型式(縦二二センチ、横一四・五センチ)ではなく、六半本(桝型本)の形式で、同じく定家が周辺の子女に書写させ、自ら校閲し、校勘の筆を加えた五十四帖が存在していたことが、日本古典文学会から複製も出ている大橋寛治氏所蔵の定家自筆本『奥入』によって、はっきりとわかるのである」(注17と、「青表紙本は一つ」という見方に対して、改めて「定家本」が2種類現存している事実を指摘して、「定家本は一つではない」、少なくとも「定家本」は複数存在しているという事実の前に、新しい視点を導入した。

当然のことながら、池田亀鑑氏も「大成研究資料篇」の中において、その点については触れているのであるが、既に述べたように、池田亀鑑氏の研究は不徹底であって、印象論的な結論であった。そもそも池田亀鑑氏は「青表紙本は一つ、すなわち尊経閣文庫蔵等の四半本型である」という考え方から、六半本型(桝形)の自筆本奥入付載の「源氏物語」本文については軽視していた。したがって、「大成研究資料篇」の中でも「青表紙本の形態と性格」(第一章)中では採り上げられることはなく、章を改めた「奥入の成立とその価値」(第二章)の中で、「資料としての第二次奥入残存本文」として採り上げられているのである。

しかも、池田亀鑑氏は「奥入」について、「第一次奥入」(四半本型「源氏物語」付載)と「第二次奥入」(六半本型「源氏物語」付載)という考え方の下に論じているのである。よって、その残存本文に対する見方も、「混成」によるか、という先入見がある。ところで、2種類の「奥入」の成立については、既に早くから逆ではないかという異見も提起されているのである(注18。その決着は未だ付けられていないが、「奥入」は「奥入」の問題として、今、六半本型「源氏物語」の残存本文の性格について、いったい四半本型「源氏物語」本文とどのような関係にあるのか。

片桐洋一氏は、「この自筆本『奥入』の中の『源氏』本文について詳細な検討を加えられたのは池田亀鑑氏である。しかし、その結論は矛盾に満ちたものというほかはない」と批判し、六半本型「源氏物語」の残存本文と大島本の当該箇所本文を逐一検討していきながら、例えば「(蜻蛉巻の末尾)定家本の中では、この奥入本は特異である。ある段階で定家は「とかや」のない方(奥入本の本文)がよいと判断したのであろうか」というように、「定家本『源氏物語』の本文も、展開、変化していたと考えられるからである」(注19と述べている。つまり、定家本が複数存在しているが、それは「定家本は変化している」という視点である。よって「定家本」という呼称も、定家自身における総体としての「定家本」と、個々の次元における「X次定家本」という2通りの意味が含まれることになる。

(2)「第一次定家本」から「第二次定家本」へ

片桐洋一氏は、「現在の定家本系統諸本はすべてこの唯一の定家書写本たる青表紙本の末流であるゆえに、それらを比較検討することによって唯一の原本である定家自筆の青表紙本の本文が復元できるはずだという論理構造の中に進められて来た。しかし、見て来たように、定家が生涯に書写した『源氏物語』五十四帖は一つでないということがはっきりした以上、そして、その二つの定家本の本文が同一でないことが明らかになった以上、現存の定家本諸本の本文を研究することによって唯一の青表紙原本を復元することは不可能だとわかったはずである。むしろ、なすべきことは、前述のごとく自筆本『奥入』所収の『源氏物語』本文に近似する傾向にあった横山家旧蔵本・池田本(天理図書館現蔵)・御物本(東山御文庫本)などの本文を検討することによって、『奥入』所収の枡型第二次定家本の全容を明らかにし、大島家旧蔵本などの第一次定家本から第二次定家本に至る、定家の『源氏物語』校勘の軌跡をたどってみることではないかと思うのである」(注20という結論と「定家本」の性格というものに対する新しい文献学的研究の視点を提起している。

しかし、ここで片桐洋一氏が「大島家旧蔵本などの第一次定家本」から「『奥入』所収の枡型第二次定家本」へと言っている、「第一次」「第二次」とは、「奥入」の「第一次奥入」「第二次奥入」説に基づいた呼称であって、既に少し触れたように、山脇毅氏や待井新一、今井源衛氏等が言うように、もしその成立が逆であったら、その本文の「校勘の軌跡」も全く逆の方向になってしまうのである。いずれにせよ、片桐洋一氏のここで言っている「第一次定家本から第二次定家本」に至る定家の「校勘の軌跡」とは、あくまでも「奥入」成立論に立脚した示唆であって、本文の比較検討の結果もたらされた「第一次定家本」「第二次定家本」という謂いではないことに留意しておかねばならない。

なお、片桐氏が「二つの定家本の本文が同一でない」「定家の『源氏物語』校勘の軌跡をたどる」という指摘は、ややもすれば、近代文献学的発想から、筆者の最終稿が決定稿であるかのような一元的な見方が支配的であるが、中世の御子左家(俊成・定家・為家)の古典籍の書写校勘活動において、それが当てはまるのかといえば、必ずしもそうとも言えまい。たとい同じ本であっても、本文の性格は、それぞれの書写目的や譲与先などとも関連して、時には相違した様態のものになっているという、複眼的な見方をとるべきであろう。例えば、定家本伊勢物語に「武田本伊勢物語」と「天福本伊勢物語」、そして「根源本伊勢物語」等が存在し、また俊成本「古今和歌集」に「永暦二年(1161)本」と「建久二年(1191)本」等の内容と表現を異にした伝本が存在するが、それぞれ固有の存在理由を有するものである。そうした場合に、四半本型「源氏物語」と六半本型「源氏物語」との前後関係を明らかにすることや定家の校勘の軌跡をたどることは、必ずしも最終目的にはならないだろう。定家本源氏物語においても、まずは四半本型「源氏物語」と六半本型「源氏物語」のそれぞれの存在理由を問うことから始めねばなるまい。両本間の安易な校合は断じてするべきではない。

(3)本文そのものへの凝視と尊重

 四半本型「源氏物語」にも、定家本原本とその臨模本そしてその最善本に位置づけられている写本群が存在する。そして、それら主要な本文資料については、現在ではいずれもその複製本や影印本さらにはDVD−ROMカラー版が刊行されている(注21

石田穣二氏の定家本原本「柏木」によって初めて本格的な本文研究が緒に就いたといってよい。石田氏は「青表紙本は一つである」という従来の考えに立ちながら、「定家は校訂していない」という新見解を提示した。しかし、その説が無批判に継承され、さらには「柏木」以外の巻々、ひいては「青表紙本」原本の全体にまで敷衍されたきらいがある。

阿部秋生氏は石田穣二氏の説を受けて、「青表紙本は別本の一つである」と展開させ、さらに「青表紙本」本文は巻によって2ないし3のグループに分かれることが指摘された。しかし、前者については独自の本文検討によったものではなく石田氏の説を捉え直したに過ぎず、後者については、その後は別本の研究として、「混成」と「本文転化」の問題として展開していって、定家本の本来の問題からは逸れてしまった。

片桐洋一氏は四半本型「源氏物語」と六半本型「源氏物語」との存在について、「第一次定家本から第二次定家本」に至る定家の「校勘の軌跡」を明らかにすべきだ、という視座を提示されたが、そもそも、定家本源氏物語において四半本型「源氏物語」と六半本型「源氏物語」はそれぞれどのような固有の存在理由があり、またそれらはどのような関係にあるのか、未解明の問題がその前に横たわっている。

明融臨模本の出現によって定家本原本の本文の有り様がさらに見えてきた。しかし、それにもかかわらず本文研究は遅々として進んでいない。大島本は最善本とは言われるが、どこまで定家本原本と近似するものであるか、未詳の問題が多い。そうした中で、藤本孝一氏の書誌学的分析による「大島本「柏木」本文最後の一丁には大幅な削除痕が見られる」(注22とする指摘は、正しく地道で緻密な本文研究の成果である。また伊井春樹氏の「校異源氏」「大成校異篇」の本文処理に対する見直しは今後も引き続き必要な作業であろう(注23。また、室伏信助氏が大島本の本文について述べていた「『大成』本の底本たる活字本ではない、原本そのものに見られる複雑な校訂過程の実態を凝視する新たな必要性を痛感せずにはいられない」(注24という視座も本文研究の心得として必需である。今や、定家本源氏物語の本文研究は明らかに活字本から複製本・影印本そしてDVD−ROMカラー版による本文研究の時代へと移った。では、それによって何を問題とすべきか。

 

   おわりに

 

 最後に本節における問題点をまとめて、研究の現段階を明らかにし、本論への橋渡しとしたい。

問題点1.定家本は校訂本であるか、それとも無校訂本であるかの問題

石田穣二氏は定家本原本「柏木」は書本を忠実に書承した無校訂の本文であると指摘し、阿部秋生氏はその説を受けて、それならば定家本は別本の一種であると捉え直したが、その「柏木」の訂正跡に関しては、さらに他者による再検討の必要性があるのではないか。

また、もしそうであるならば、それは「柏木」巻だけに限られたことか、それとも他の定家本原本の全体にも敷衍できることなのか。その問題は定家本原本の臨模本とされる明融臨模本の出現によって、そこからも検証できることではないか。

問題点2.「定家本」の性格とその内容の問題

阿部秋生氏は「定家本(青表紙本)」の本文は巻によって2ないし3グループに分類されると指摘されたが、その具体的な実態はどうなのか。改めて、定家本原本が存在している巻と明融臨模本が存在している巻において検証してみる必要性があるのではないか。

そしてまた、定家等筆「源氏物語」(四半本型)と定家加筆「源氏物語」(六半本型)とは、そのこととどのように関わるのか。片桐洋一氏は定家加筆「源氏物語」(六半本型)の本文と鎌倉期写の定家本本文との関連性について言及していたが、そうであると結論づけるには、他者による複数の検証が必要であろう。

問題点3.「定家本原本」(四半本型)グループの問題

もし定家本が2ないし3グループに分かれるというのであれば、まずは四半本型「源氏物語」の定家本原本(尊経閣文庫本他)とその臨模本(明融臨模本)そしてこの系統の最善本(大島本)を含めて、まずはこのグループ内における本文相互の比較検討を試みるべきではないか。

定家本原本と大島本の本文の相異や明融臨模本と大島本の本文の相異が、いったん成立して以後の書写過程上における他本との接触による本文の混成や単なる誤写によるものなのか、それとも別の事情、たとえば、定家本の生成過程上の差異によるものなのか、詳細な再検討が要められるのではないか。

 

   注

 

(1)池田亀鑑『源氏物語大成巻七 研究資料篇』(「第一章 青表紙本の形態と性格」75頁 中央公論社 昭和311月初版)

(2)石田穣二『柏木(源氏物語)』(「校訂私言」53頁 桜楓社 昭和345月)

(3)注1同書、110頁。

(4)注2同書、52頁。

(5)注2同書、55頁。

(6)阿部秋生「『源氏物語』別本の本文」(「文学」昭和5810月〜594月、のち『源氏物語の本文』所収 岩波書店 1986年(昭和61年)6月)。「戦後の『源氏物語』の文献学的研究の貴重な収穫の一つといっていい」と評価した。

(7)室伏信助「大島本『源氏物語』採択の方法と意義」(新日本古典文学大系『源氏物語 一』「解説」所収 岩波書店 1993年(平成5年)1月)

(8)太田晶二郎「古典籍覆製叢刊 源氏物語(青表紙本)使用上の注意」(前田育徳会尊経閣文庫 昭和547月)

(9)拙稿「藤原定家と『源氏物語』校訂――定家本「花散里」「柏木」「早蕨」・付「行幸」における本文校訂――」(『論集源氏物語とその前後4』所収、219247頁 新典社 平成55月)

                     「校異篇」(+「注意」) 計

(1)―1元の文字をミセケチにして右側に訂正……3       3例

   ―2元の文字の上に重ねて訂正

     a元の文字が読める場合      ……8(+1)   9例

     b元の文字が読めない場合     ……1(+2)   9例

   ―3元の文字を磨消してその上に重ねて訂正

     a元の文字が読める場合      ……8(+2)   10

     b元の文字が読めない場合     ……8(+4)   12

(2)文字の補入              ……16(+2)   18

(3)文字を削除

     aミセケチ            ……7(+1)   8例

     b磨消              ……0(+1)   1例

          計             51(+13)   64

 うち、定家本原本の訂正以前本文が別本の御物本・保坂本・国冬本等と共通異文の関係にあり、その訂正本文が青表紙本と同文になっている箇所が3箇所存在する。すなわち、書本の本文(別本と共通異文)を訂正した形が「青表紙本」本文となっている、ということは、「定家は本文を校訂していない」とは言い難い。

10)阿部秋生「矛盾する本文」(阿部秋生編『源氏物語の研究』所収、44頁 東京大学出版会 1974年(昭和49年)9月)

11)阿部秋生「源氏物語諸本分類の基準」(「国語と国文学」昭和554月、のち『源氏物語の本文』所収、9798頁 岩波書店 1986年(昭和61年)6月)。

12)注6論文、106頁。

13)注6論文、107頁。

14)『新編日本古典文学全集 源氏物語』(「凡例」9頁 小学館19943月)。

15)阿部秋生「源氏物語の伝本状況について」(「文学・語学」昭和479月、のち『源氏物語の本文』所収、34頁 岩波書店 1986年(昭和61年)6月)

16)室伏信助「大島本源氏物語研究の展望」(『大島本源氏物語』別巻所収、2122頁 角川書店 1997年(平成9年)4月)

17)片桐洋一「もう一つの定家本『源氏物語』」(『源氏物語以前』所収、373374頁 笠間書院 2001年(平成13年)10月)

18)山脇毅「書評 池田亀鑑博士編著「源氏物語大成」」(「国語と国文学」昭和327月)、待井新一「源氏物語『奥入』成立考―「定家小本」との関連について―」(「国語と国文学」昭和352月)、今井源衛「源氏物語奥入の成立について」(「語文研究」10号、のち『源氏物語研究』所収 未来社 昭和377月初版、改訂版昭和568月第2版)、池田利夫氏は「奥入」諸本について、「第一次奥入」「第二次奥入」という前後関係の問題だけでなく、「別本」「異本」などの「奥入」諸本や古注釈書所引の「定家釈」などを含めて考えると、その成立には複雑な問題があることを指摘する(日本古典文学影印叢刊『奥入 原中最秘抄』「解説」 日本古典文学会 昭和609月)。

19)注17同書、383384頁、387388頁。

20)注17同書、388389頁。

21)六半本型「源氏物語」の残存本文については、『奥入』(復刻日本古典文学館 日本古典文学会 昭和46年)、四半本型「源氏物語」原本の「花散里」「柏木」については、『青表紙本 源氏物語』(原装影印古典籍覆製叢刊 前田育徳会尊経閣文庫 昭和5311月)。四半本型「源氏物語」原本の臨模本とされる「明融臨模本」(8帖)については、『源氏物語(明融本)TU』(東海大学蔵桃園文庫影印叢書 東海大学出版会 平成26月・7月)、そして四半本型「源氏物語」の最善本とされる「大島本」(53帖)については、『大島本源氏物語』(モノクロ版10巻・別巻 角川書店 平成94月)と『大島本源氏物語DVDROM版』(カラー版 角川学芸出版 2007年(平成1911月)とが刊行されている。

22)藤本孝一「大島本源氏物語の書誌的研究」(京都文化博物館紀要『朱雀』第4集 平成312月、のち『大島本源氏物語』別巻所収、61頁 角川書店 1997年(平成9年)4月)

23)伊井春樹著『源氏物語論とその研究世界』(第三章・第五節「大島本『源氏物語』の本文――『源氏物語大成』底本の問題点――」『詞林』第3号初出、昭和635月)

24)室伏信助「大島本『源氏物語』採択の方法と意義」(新日本古典文学大系『源氏物語 一』「解説」所収、466頁 岩波書店 1993年(平成5年)1月)

 

吉岡曠「青表紙本諸本の系統――校訂原則確立のために」(『文学』198412月、のち『源氏物語本文批判』所収 笠間書院 19946月)