序章 定家本「源氏物語」の本文研究史

 第一節 池田亀鑑『校異源氏物語』『源氏物語大成』の成果と問題点

 

  はじめに

 

池田亀鑑氏(18961956年)は、戦前に『校異源氏物語』5冊 中央公論社 昭和1710月)を刊行し、戦後それに「索引篇」と「研究資料篇」「図録篇」を加えた『源氏物語大成』8冊 中央公論社 昭和2831年)を刊行したことによって、源氏物語の本文研究史上に大きな金字塔を打ち立てた。その学術的成果は今日に至るまで70年以上を経てもほとんど揺るぎない地位を保ち続けている。

その研究は、大正154月に芳賀矢一博士退官記念会の事業として、源氏物語の諸注集成から始まったのであった。それが後に、源氏物語の本文の調査・研究に移行し、ついに源氏物語の校本と索引の作成へと発展していったものである(注1)

昭和711月には、その成果が「源氏物語に関する展観会」として開催された。当日の『展観書目録』(注2)によれば、

「第一部 源氏物語諸本」の最後の項目に「一二二 校本源氏物語 河内本(禁裏御本転写)(室町時代)」と特別に記載している。

さらに、「二 特別陳列」として、

      「校本源氏物語原稿(第一次)

       同       (第二次)

       同       (第三次)

       同       (第四次)

       同       (第五次)

       校本源氏物語系統表

現存諸本系統一覧表

源氏物語に関する採訪書解説」

というように、驚くことに、それは第一に、禁裏御本転写本の「河内本」を底本としたものであった。そして第二に、その「校本源氏物語」の「原稿」を「第一次」から「第五次」までを展観に供したのであった。

ところで実は、その一、二年前の「昭和五・六年の間」に佐渡の某家から「伝飛鳥井雅康等筆本」(通称「大島本」53帖、のちに『校異源氏物語』の主たる底本となる写本)が出現し、それが大島雅太郎氏の手に入り、池田亀鑑氏は逸早くそれを閲覧する機会に恵まれた。そしてその新出資料もそこに展示していたのであった(注3)

「六二 伝飛鳥井雅康等各筆本 (同(室町時代――渋谷注)) 写」

として展示されていたのがそれである。「等各筆」とは「桐壺」が聖護院道増、「夢浮橋」が同道澄筆により、その他が飛鳥井雅康筆によることを意味するのである。

池田亀鑑氏は、この伝飛鳥井雅康等各筆本を調査・研究し、さっそく「源氏物語系統論序説」(注4)を発表している。

さらに、昭和919日から30日に、東京・銀座松屋8階で、源氏物語同好会主催「源氏物語展覧会」が開催され、そこでもこの「大島雅太郎所蔵「古写本源氏物語」」が展示されている(注5)

昭和122月には、再度「源氏物語の展観」(東京帝国大学国文学科編『源氏物語展観書解説』昭和1227日(日)於東京帝国大学山上会議所)が開催され、この頃、池田亀鑑氏は、校本源氏物語の底本を「河内本」から「青表紙本(定家本・大島本・池田本)」に変更し、さらに校異篇・索引篇(自立語)の原稿を完成させていっていたのである。

そして、さまざまな出版上の困難な問題を乗り越えて、昭和15年末には「『校異源氏物語』刊行に就いて」(中央公論社)という予告が出され、昭和17年に『校異源氏物語』(全5冊 中央公論社)の刊行に漕ぎつけ、戦後昭和31年『源氏物語大成』(全8巻)として完成させ、その年の暮れに長逝されたのであった。

池田亀鑑氏の源氏物語の本文研究史上の学術的意義についてまとめれば、次の2点である。

@現存する源氏物語諸本を博く調査・研究して、その中から底本に「青表紙本」系統を選んだこと。「河内本」や他のどのような「別本」伝本にもまして、「文学」としての源氏物語の本文資料としての価値は、定家本に優るものはないからである。

A数多く存在する「青表紙本」の中から底本に「定家本(花散里・柏木・早蕨)」「大島本」47帖)「池田本(桐壺・初音・浮舟・夢浮橋)」の順位で採用したことである(「校異源氏」)

その後、「定家本」の臨模本である「明融臨模本(桐壺・帚木・花宴・若菜上・若菜下・柏木・橋姫・浮舟)」が出現して(「大成校異篇」補遺)、この底本採択の順位はますます揺るぎないものとなったが、鎌倉期の多くの古写本の中でも、その書写者が藤原定家11621241という歴とした人物が書写校勘したテキストが4帖現存し、その定家本の忠実な臨模本が8帖存在し、さらに多くの諸本中最もその本文に近似する伝本が53帖存在していて(重なり合う帖では、わずかに本文を異にする箇所もあるが)、源氏物語54帖全文を一つの写本グループで読めることは、他に例を見ないからである。

爾来、現在に至るまで、この定家本写本グループの質・量に対して、これに優る本文資料の出現を見ない。また別本の陽明文庫本、東山御文庫蔵各筆源氏、穂久邇文庫本等の鎌倉期の古写本の影印・複製本も公刊されたが、他の未刊の古写本、例えば国冬本などをもってしても、源氏物語の「文学」資料としては、この定家本グループを凌駕するのは難しいのではないか。今日、われわれが読んでいる源氏物語のテキストとは、紫式部と藤原定家のコラボレーションなのである。日本文学史上この二人に優るコンビはないだろうから。

 

  一 池田亀鑑「青表紙本の形態と性格」とその後

 

池田亀鑑氏は源氏物語の底本に選んだ「青表紙本」と「青表紙本系統」について、「大成研究資料篇」の第一章「青表紙本の形態と性格」と題して詳述している(注6)

しかし、後に、阿部秋生氏や片桐洋一氏らによって、「青表紙本」の呼称と概念規定の曖昧さ、方法的手続きなどについて問題された。過去の刊行物の中でこそ使用されているが、源氏物語の本文研究において、今や「青表紙本」「青表紙本系統」という呼び方はされていない。

そこで、本項では池田亀鑑氏の「青表紙本」の概念規定とその問題点について考察する。

 

(1)「青表紙本」の初出と資料の再検討

池田亀鑑氏は「青表紙本」について、「藤原定家が家の本とした一証本を指す」(注7)という。その「証本」ということについて、いったい誰にとっての「証本」なのか。例えば、鎌倉室町期の人にとって「青表紙本(源氏物語)」の「証本」と言っているものが定家が作成した原本そのものと同一なものを指すのかどうなのかは判じようがない。あるいは作成者の定家自身において源氏物語の「証本」を作り得たという意識があったのかどうなのか、すなわち『明月記』の記事(後述)には少なからず自己韜晦が含まれているにしても、それが「家の本」としての「証本」の完成を意味するものなのかどうか、定家には依然として「証本」とするにはなお不満有り気な気持ちが読み取れるのである。が、その時の一応の「証本」という意味であるとしても、さらに引き続き定家の源氏物語の本文に関する研究が進められれば、今の「証本」の座を次の新しい「証本」の座に譲ることになろう。ひとまず、「証本(しょうほん)」とは「本によって何かを論ずる際に根拠となるような、信用できる本のこと。」(注8)と考えておこう。

 その「青表紙本」の呼称が「源氏六帖抄」「河海抄」に初出するという。片桐洋一氏は「青表紙本に関する初出文献は「延慶両卿訴陳抄出」である。」(注9)というが、今はその問題は措こう。池田亀鑑氏は、「大成研究資料篇」の中で、

@「延元々年(1336)三月廿一日申出青表紙御本京極入道中納言家/御自筆

一条猪熊旅所終写功御子左黄門御入筆所々有之可為

重宝歟

  康永二年(1343)七月廿八日校合訖<兼好/宣名>(書陵部蔵本「河内本源氏物語」桐壺巻奥書 60頁)

A「抑青表紙と申正本今は世に絶たるは昔かの本未失時兼好法師を縁にて堀河内府禅門の本に校合有し時一見仕し也其は詞もあまた替てみえし也其時草紙の寸法までも伝たりし本有之」(今川了俊「源氏六帖抄」応永15年(14085月奥書 60頁)

の資料を挙げて、「右の二つの文献(@A)によつて、次の事実が推知されよう。即ち、

一、延元・康永の間に、青表紙本の原本全部が存在してゐたこと。

 二、その青表紙本には、定家自筆の巻と部分的な補筆の巻とがあつたこと。

 三、その青表紙本を借り出し、一条猪熊の旅所において、延元元年より康永二年にいたる八年間に書写し、書本との照合を終つたこと。

 (以下、七まで略)60頁)さらに、

B「自去年十一月以家中小女等令書源氏物語五十四帖昨日書外題年来依懈怠家中無此物<建久之比/被盗了>無証本之間尋求所々雖見合諸本猶狼藉未散不審雖狂言綺語鴻才之所作仰之弥高鑽之弥堅以短慮寧弁之哉」(明月記・嘉禄元年(1225216日条、62頁所引)

を挙げて、「以上の記録(B)によつて、次の事実を知ることができる。

 一、もと定家の許に証本とすべき源氏物語の完本があつたこと。

 二、建久年間(11901198 定家2937歳)においてその本を人に盗まれたこと。

 三、その後嘉禄元年(1225)まで三十余年間、家の証本とすべき完本の無かつたこと。

 四、元仁元年(122411月より、家中の小女等をして五十四帖を書写せしめ、翌嘉禄元年(1225)二月十五日表紙をつけ、同十六日に外題を書いたこと。

 五、右の写本をなした後、所々から本を借りて比校したが、未だ不審を散じ得ない部分の残つてゐたこと。

 六、安貞元年(1228)十月十三日、室町殿から借りてゐた二部の源氏を返上するに当り、家本をもつて大略校合し、その詞を用捨したこと。

 七、他人のために、別に紅葉賀・未通女・藤裏葉の三帖と、桐壺・紅葉賀の二帖とを書写したこと。」(63頁)と述べ、さらに、

C「京極中納言定家本青表紙宗祇用之に今流布す一華堂云定家の青表紙を周防国守にて一覧せり紙は備中のかいた也外題は青表紙に定家の打付書也百四代後土御門院宸筆にて式の外題をまんなかにをし給へり源氏外題を今世に正中にをすは是を例とせり定家卿自筆桐壺花宴橋姫の三冊也余は俊成卿女なとの筆也水尾尽巻うせしを逍遥院殿書たし給へり東山殿慈照院義政公の御物なりしを若衆の宮内少輔に下されたり其後周防国大内義隆へ山名刑部少輔が女婿の時に乗物に入て遣せし也」(切臨「源義弁引抄」6869所引)

なお、「一華堂」とは切臨の師である一華堂乗阿だが、「即ち乗阿の見た青表紙本は、桐壺・花宴・橋姫の三冊が定家自筆本そのもので、他は別筆であつた。」(69頁)とする。

本稿では、現存する源氏物語(四半本型)の「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」4帖)グループ(ツレ)を中心に考えていくが、それらが鎌倉室町期の人々が使用している「青表紙本」及び「証本」の概念と内容と定家自身における源氏物語の「証本」の意識は、また別の問題であること、それらを一緒にしてはならないことを言っておこう。

(2)定家本原本「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」の本文様態とその性格

池田亀鑑氏は、以上の「青表紙本」の記事に続けて、現存する「青表紙本」4帖について、次のようにいう。すなわち、

「その資料として今日伝へられてゐるのは花散里・柏木・行幸・早蕨の四帖である。

花散里・柏木の二帖は前田家現蔵、これを納めた箱に加賀三代の首微妙公の自筆で、

 花散里/柏 木定家卿筆

とある。古筆了佐の添状(寛永四暦五月十六日)一通が存し、外題は後柏原天皇の宸筆といふ。本文中に伊行釈の引歌を記した附箋があり、これも同天皇の宸筆なる由、了佐の添状に見える。但しこの外題ならびに附箋の筆者については異説がある。これについては後に言及する。

次に早蕨の巻一帖は、昭和十年五月、野崎・木村両家所蔵品入札目録に、「定家歌書梨子地箱入」と見えるもので、保坂家の現蔵である。これも国宝で、定家自筆と認められる。

次に行幸の巻一帖は、名古屋市某家の入札目録に掲載されたもので、現在の所持者は不明である。「定家卿見遊幾帖」とあり、定家が家中の小女等をして書かしめたものの一類であらうか。

右四帖はその形態・性質・伝来等からして、青表紙本の原本と認め得るものである。これを基準として青表紙本の形態・性格を探る試みは手続上不当ではない。

これらの四帖は形態上次の諸点において一致する。

一、竪七寸二分五厘(21.8p)横四寸七分(13.9p)の胡蝶装(綴葉装)であること。

二、原表紙は無色無地の厚様鳥の子であること。

三、中央に巻名を記した仮の小紙片を貼つてあること。

四、料紙は強靭な楮紙であること。

五、行数・字詰等は必ずしも一様ではないこと。

六、和歌は二字ばかり下げて別行とし、次の地の文は直ちに和歌に続くこと。

七、伊行の源氏釈その他の旧注を本文当該箇所に小紙片を以て掲げてゐること。

八、句読点・声点等の朱筆は全く加へてゐないこと。

九、帖末に勘物が存すること。(但し花散里・早蕨にはこれがない)

以上は青表紙本原本と考へられ、しかも現存するものの形態に共通するである。この特色はまた他の各帖にも及ぶものと思はれる。花散里・早蕨の両帖には末尾に勘物がないが、そのことは他にも同様にこれを欠く帖の存在したことを示唆する。」(6566頁)

 現存「青表紙本」4帖に関する解説としてはあまりにも簡略にすぎる。もっと詳細な解説が欲しいところである。次にそれら4帖に関する形態上の特徴として9項目を挙げているが、形態に関する記述であって、本文内容に関するものでないことが問題である。そして、これらの特徴が、古注釈書資料から必ずしも保証されたものでもない点である。

古注釈書資料に現れた「青表紙」「定家本」に関する資料批判やそれらを直ちに現存の「青表紙本」に結び付けて考える手続き上の問題はさて置き、現存の「青表紙本」4帖の形態について指摘している項目の中にさえ誤認しているものがある。さらに詳細な分析が求められるところであろう。まして「青表紙本」の臨模本である「明融臨模本」が出現したからには、それら諸帖をも含めて「青表紙本」の形態について改めて根本的な再考が迫られているのである。

太田晶二郎氏は、前田育徳会尊経閣文庫所蔵の「花散里」「柏木」について詳細な書誌を書き著しているが(注10、中でもその本文の筆跡に関して、

「此の源氏物語、亦、かしハ木の帖、前部と後部とでは筆蹟相同じくないことが感知され、前は定家の親筆と認められるが、後の方は、他筆、《家中ノ少女》といつたやうなひとの書写なのであらう。(略)此の影印かしハ木を繙かるゝ者、よく心を用ゐて之を看読し行かば、某葉某面某行に至つて、忽然として書風の変換を覚え、筆蹟鑑定に於て聊か頓悟するところも有るであらう。」(3頁)

石田穣二は「原本十一丁裏五行目まで、すなわち本書十ページ五行目「いかめしうおどろ/\し」まで、定家自筆、以下は別筆である。奥入も別筆である。」(注11と具体的にその境界を指摘している。

書写者の違いによって本文内容が相異しているのである。

大野晋は国語学の立場から、「定家筆と伝えられる源氏物語柏木巻は、『校異源氏物語』によると、巻頭から一二三四頁までは定家の仮名遣に合致するが、一二三四頁十四行に「をほそう」とあり、その先へ進むと一二三五頁八行には「おろそか」、一二三八頁六行「をまし」、一二三九頁四行「おしへ」などと、定家の仮名遣に一致しない例が散見するようになる。そこで、その辺以後は定家自筆ではあるまいと私は推定した。ところが、その後、柏木巻の臨模本を一見すると、『校異源氏物語』一二三四頁七行の、「おとろ々々々し」までが定家の筆であり、予想通りそれ以後は別筆であった。」(注12と述べていた。

なお阿部秋生は「尊経閣文庫本(柏木)は、最初から一二丁オ一行目までは定家の自筆とみられ」(注13と捉えているが、誤認である。

石田・大野の両説(定家本原本「柏木」11丁裏5行目・「校異源氏」12347行目の「おとろ/\し」まで定家筆、原本11丁裏6行目・「校異源氏」7行目の「御かた/\」以降は別筆・非定家筆)に従うべきである。

大野晋氏は、また定家本原本「早蕨」の仮名遣いについても疑問を抱き、次のように述べている。「源氏物語さわらびの巻は、『校異源氏物語』に定家筆として取扱われているが、その仮名遣を調べると、「おのが」(己が)、「をり」(折)、「とほき」(遠)、いだしすゑたまへる」(据)などのように、定家の仮名遣と相違したものがある。そこで、この原本は定家自筆ではあるまいと私は考えていたが、池田亀鑑博士の直話によると、源氏物語さわらびの巻は、伝定家筆というべきものである由だった。」(注14と、池田亀鑑氏が「大成研究資料篇」とは違ったことを述べたことを記している。

「大成研究資料篇」所収の「青表紙原本柏木巻巻頭」と「青表紙原本早蕨巻巻頭」の写真(67頁)を比較すれば、一瞥してその筆跡の相違が窺えるものである。大野晋氏が指摘するとおり、定家本原本「早蕨」は「定家自筆」ではなく、「別筆(非定家筆)」と改めるべきである。

仮名遣いの問題以外にも定家筆と別筆・非定家とでは違いがあるのである。例えば、和歌の書写様式である。池田亀鑑氏は、その形態上の特徴として、「六、和歌は二字ばかり下げて別行とし、次の地の文は直ちに和歌に続くこと。」と述べていたが、それは正確な表現ではない。

太田晶二郎は「花散里」の和歌の書写様式について、「和歌の書式は、行を改め、一字半相当程度低めて書き出し、上の句一行・下の句一行(頂を上の句に揃へて)、歌のあと、次の地の文との続きは、歌と地の文との融合の具合などによるか、歌にすぐ地の文を続けることも・少しく(半字相当程度)空けて続けることも有り、或いは、又、行を換へて行頭から地の文を書いたことも見られる。」(注15と詳述している。

また、「柏木」の和歌の書写様式については、「和歌の書式は、行を改め二字相当程度低めて書し、上の句一行、下の句は又行を改めるが低めずに行頭から書く。(花ちるさとと異なる。)歌のあとの地の文は、続け書く(文を別行にしない、といふこと。歌と地の文との間、一字程度空けたのも有る)。但し、一例だけ、地の文を別行(別面)にする。」(注16と、ここでも詳述している。ただしかしながら、太田氏は定家筆部における和歌の書写様式と非定家筆部における和歌の書写様式の相違までは言及されなかった。

定家本原本「柏木」には11首の和歌が存在するが、その和歌の書写様式は、実は3通り存在するのである。

定家筆部(1オ〜115)は、A型(上句と下句で改行し地の文を続ける…@AB)のみである。しかし、非定家筆部(11650ウ)は、A型(上句と下句で改行し地の文を続ける…DEIJ)、B型(上句と下句で改行し下余白…CH)、C型(上句と下句で改行し1字余白を設けて地の文を続ける…FG)の3通りが見られるのである。

そして、非定家筆の「花散里」はさらに相違した和歌の書写様式をとっており、D型(上句と下句で行頭揃えて改行し下余白…@)とE型(上句と下句で行頭揃えて改行し地の文を続ける…ABC)となっているのである。

池田亀鑑氏が「大成研究資料篇」で述べていたことは定家本原本「花散里」「柏木」の実態に即していないのである。

定家本原本「柏木」においては、定家筆と非定家筆とでは明瞭に和歌の書写様式が別れるのであるが、では定家本原本における定家の和歌の書写様式はA型(上句と下句で改行し地の文を続ける)のみか、となると、そうでもないのである。明融臨模本から全文が定家筆かと推測される「桐壺」「花宴」「橋姫」などにもA型以外にB型、C型、D型の和歌の書写様式が見出せるからである(定家筆と非定家筆の寄合書と推測される「浮舟」の定家筆部はA1首のみ)。定家の和歌の書写様式は、上句と下句とで改行することは一致しているが、下句の行頭の位置や下句の下に直接地の文を続けるか、あるいは1字余白を設けて続けるか、さらには地の文を続けずに下を余白のままとするかは、一定していないのである。よって、和歌の書写様式の中からA型をもって定家筆の根拠とすることはできないのである。

最後に定家本原本「行幸」について、玉上琢弥氏「関戸家蔵「定家筆見遊幾帖」について」(注17から本文に関する箇所を引用しよう。

「本文は、家中の子女をして写さしめたものであろう。二十数か所にわたり別筆の太字で訂正があるのだが、定家の業と見るべきであろう。その訂正は筆写者の字がよみにくいとき同字を大きく上に書いたものが多い。なお行数は、はじめ八行、のち九行をまじえ、終わりは十行十一行のところもある」。玉上琢弥氏は、「行幸」の和歌の書写様式については言及されなかった。ただ、非定家筆本における定家の本文訂正の在り方が明らかにされている。

「校異源氏」「大成校異篇」では、その校異欄に底本とした定家本原本「柏木」自体の校異として51例を掲出しているが、太田晶二郎氏は「使用上の注意」(注18と題した小冊子に実に詳細な記述をしているが、その中には「校異源氏」「大成校異篇」掲出の「柏木」訂正跡と重なるものもあればそうでないものもある。よって、その数はさらに増えるものである。

石田穣二氏は「原本には、書写に際しての訂正が五十箇所ほど数えられる。その形式は、ある字を削去して書き直した場合、ミセケチないしは塗抹、またミセケチないしは塗抹を施した右傍に訂正本文を書いた場合、脱した字を小さく右傍に書いた場合(注略)、ある字の上にうちつけに筆を下して字を訂した場合、以上である」といって、続けて「これらの訂正の中には、仮名遣を訂した場合、三例がある。(本書二七ページ2行目「のこい」も「い」は「ひ」を削ったうえに書く。同三八ページ4行目「おやこ」の「お」は「を」の上にうちつけ書き。同四五ページ10行目「おまへ」の「お」は「を」の上にうちつけ書き。後者二例は定家の筆と思われる。)」と言い、また続けて「塗抹、ミセケチ、うちつけ書きの中には定家の筆と思われるものが多い。」(注19と述べているが、それ以上どの訂正跡が定家筆によるものだという指摘はしていない。

一方、大野晋氏は定家の非定家筆部における訂正態度について、別筆(非定家筆)の部分をさして、「その中で二箇所だけ、定家の筆と覚しい特徴のある字体で、「お」を塗抹して「を」に訂正したところがある。恐らく、定家は、通読の際、「お」と「を」との仮名の違いに気づき、その箇所を訂正したものと思われる。しかし、別筆の部分の仮名の違いはその二箇所に限られるものであなく、他にも、もっと多くある。定家はその全部を訂正したのではなかった。」(注20と述べている。「「お」を塗抹して「を」に訂正したところがある」はあるいは「「を」を塗抹して「お」に訂正したところがある」の誤記であろうか、それならば石田氏が指摘していたものと重なるのであるが、それよりも、「定家はその全部を訂正したのではなかった。」また「定家は、自分の仮名遣を、自分自身では厳守しているが、他人に対しては必ずしもこれを厳重にもとめてはいなかったらしいことが分る。」(注21と述べていることである。

定家本原本における定家筆部と別人・非定家筆部との仮名遣い例やその訂正跡例などを考える上で重要な指摘であるといえよう。

 

(3)定家本原本の臨模本「明融臨模本「源氏物語」」(8帖)の親本の本文様態とその性格

次に、明融臨模本「源氏物語」(8帖)について述べよう。明融臨模本が出現した時期について、石田穣二氏は「池田(亀鑑)博士が明融本九帖を入手されたのは、筆者の記憶も今は定かではないが、昭和二十六年のことであったかと思う。私の記憶では柏林社の主人が直接博士の自宅に九帖をもたらし、博士は即決で購入された。」(注22と記している。そしてそれは、「大成校異篇」の底本としての組み換えるのには間に合わなかったが「校異篇」の巻末に「補正」としてその本文異同が掲載された。

池田亀鑑氏は「大成研究資料篇」に「最近に至り明融(上冷泉為和の子)が原本を臨模した桐壺・帚木・花宴・花散里・若菜上・同下・柏木・橋姫・浮舟の九帖が発見された。これらは多少の相異はあるにしても、前記原本の諸条件を具備してゐる。特に柏木の巻を前田家蔵の原本と比較すると、殆ど寸分違はぬのみならず、原本の虫損不明の箇所が明らかにされる程、忠実な複本である。これより推して他の諸帖も同様原本に準ずべきものと考へられる。(但し花散里にはなほ研究の余地がある。)」(注23と述べ、石田氏も「明融本「柏木」と原本とを比較すると、明融本は明らかに原本の忠実な臨模本と認められ、池田博士が明融本の価値を確認する決め手となったものである。ただ、「花散里」は原本と比較すると、その忠実な再現とは言いがたく、原本の臨模本としてのいわゆる明融本九帖からは除外すべきである。」と賛同を表し、また「桃園文庫旧蔵の九帖(厳密には、「花散里」を除く八帖)と山岸文庫の四十四帖とはツレではあるけれども、その本文の性格はまったく次元の異なるものであること、両氏(池田利夫・上野英子)の報告によっても明らかである。」(注24とされて、今日では実践女子大学蔵山岸文庫の44帖のツレと東海大学桃園文庫蔵の「花散里」帖は、明融臨模本とは切り離されて考えられている。

石田穣二氏には東海大学蔵明融臨模本「源氏物語」諸帖に関する論考もあるが(注25、その本文様態に関するものは、『源氏物語(明融本)U』「解題」における記述である。特に、その筆跡について触れているのは、爾後の本文研究上の指針として有益である。

石田氏は、「桐壺」「帚木」「若菜上」「若菜下」については特に触れられていないが、「花宴」については「臨模本からの推定は危険ではあるが、原本は一帖すべてが定家自身による筆写であったかという印象がある」、「若菜下」については「巻頭一丁表は、定家の自筆であったであろう。一丁裏からは別筆であったと思われる」、「柏木」については既述したので省略に従い、「橋姫」については「本文の字体、ほぼ一貫して大ぶりな印象のある点、「花宴」に似る。(略)「花宴」と同じように、原文は全体が定家の自筆であったかという印象がある」、「浮舟」について「原本は、本文墨付九丁裏あたりまで、書写が大ぶりで、定家自筆であったかと思われる」(注26と記していることである。定家の筆跡、大ぶりの字体、一面の行数等、すべて印象論的ではあるが、これを改めて別の視点から実証できれば定家本原本「源氏物語」の本文様態がさらに明らかになることである。

 

  二 伊井春樹「大島本源氏物語の本文」とその周辺

 

(1)定家本原本の最善本「大島本「源氏物語」」(53帖)とその親本

 ところで、池田亀鑑氏は、いわゆる大島本「源氏物語」(53帖)を得て、それまでの「校本源氏物語」で底本としてしていた河内本から青表紙本に切り替えたことは既に述べたが、では大島本のどこにその価値を見出したのか。

池田亀鑑氏は「大成研究資料篇」に「先づ青表紙本一般の形態として、先に示した九条項のうち特に重要な点を列挙するならば、次の如くである。

一、和歌は二字ばかり下げて別行とし、次の地の文は直ちに和歌に続くこと。

二、伊行の源氏釈その他の旧注が本文当該箇所に小紙片を以て掲げられてゐること。

三、帖末に勘物が存すること。但し本来これがない帖もある。」というように、青表紙本の形態的特徴と同じ条件を挙げて、さらに「右の三つの条件を充たす伝本でまとまつた帖数を保有してゐるものは、全国各地にわたる多年の捜査にもかかはらず遭遇することはできなかつた。ただわづかに吉見正頼旧蔵の古写本に邂逅したことは、実に幸運といふほかはない。昭和五・六年の間であつた。」(注27と述べていることである。

また「大島本の本文を一々の字句にわたつて、国宝数帖及び明融臨模の数帖について比較検証するに、転写の誤りは避けられないにしても、総体的判断において期待を裏切るものではない。」(注28とも述べている。

要するに、池田亀鑑氏が青表紙本系統の諸本の中でも、特に大島本を重視したのは、後人が批判するようなその本文形態からの事由のみならず、本文内容からしても青表紙本原本に最も近似した伝本は、明融臨模本が出現するまでは大島本の他に無かったからであったからである。そして明融臨模本(8帖)が出現して、そのことがますます確信されたのである。

 

(2)大島本「源氏物語」(53帖)の本文様態とその扱い

問題は、池田亀鑑氏が「桐壺」「初音」「夢浮橋」の3帖において、大島本を採用しなかったことと、大島本の本文様態の処理に関わることである。

池田亀鑑氏は「校異源氏」「大成校異篇」の「凡例」で次のように記している。「前記ノ諸本(青表紙本24本・河内本20本・別本16本)ノ異文ヲ標記スルタメニ、ソノ中カラ底本トスベキモノヲ選択スルに当ツテハ、厳密ナ考証ヲ重ネタ結果、藤原定家ノ青表紙本ヲ以テ之ニ当テルコトトシ、花散里・柏木・早蕨ノ三帖ハ現存スル定家本ヲ用ヰタ。ソノ他ノ諸帖ニ於テハ、現存諸本中定家本ノ形態ヲ最モ忠実ニ伝ヘテヰルト考ヘラレル大島本ヲ用ヰタ。但シ、桐壺・夢浮橋ノ二帖ハ大島本ガ補写デアリ、初音ハ大島本が別本系統デアリ、浮舟ハ大島本ガ之ヲ闕イデヰルカラ、コレラノ諸帖ハ大島本ニ次グベキ地位ヲ有スル池田本ヲ用ヰタ。」(注29(「凡例」5頁)

すなわち、問題の第1は、「桐壺・夢浮橋ノ二帖ハ大島本ガ補写デアリ」と言い切ってしまっていることである。たしかに、「桐壺」帖は後に聖護院道増が書写し、「夢浮橋」帖も後に聖護院道澄が書写したものである。しかし「補写」であることが、それほどに致命的な欠陥なのであろうか。

大島本の書写は「文明十三年(1481)九月十八日」(「関屋」奥書)である。そして「桐壺」「夢浮橋」の補写は「永禄七年(1564)七月八日」(「桐壺」「夢浮橋」奥書)である。その間約80年余である。それでは、大内政弘は首巻「桐壺」と末巻「夢浮橋」そして途中の「浮舟」帖の3巻が欠けた「源氏物語」(51帖)の書写を飛鳥井雅康に依頼したものか。けっしてそうではあるまい。

伊井春樹氏は、大島本「桐壺」と「夢浮橋」の4条の奥書からその間の経緯を詳細に追っているが、その中で「文明十三年(一四八一)に雅康が大内政弘のために『源氏物語』を書写し、その後六十年ばかり大内家に伝えられ、やがて吉見家に帰属したことになる。正頼が入手して十三年ばかり後の永禄六年頃、彼は架蔵本の権威を高めるためであろうか、あえて道増・道澄に書写を求め、その二巻を差し替え加えることによって五十四帖の揃い本とし、永禄七年七月八日にそれぞれの巻末にその旨を記したのである。」(注30と述べている。

実は、池田亀鑑氏も同じことを「大成研究資料篇」では述べていたのである。「右の正頼旧蔵源氏物語において、桐壺・夢浮橋の両帖が別筆であるのはいかなる理由によるであらうか。この両帖は源氏一部の首尾に位置し、本来欠脱してゐたとは思はれない。或ひは正頼が既に存するものの上に新たに首尾二帖の書写を他に請うて、家本を重からしめたのではなからうか」といい、そしてまた「ここで問題となるのはこの両人がいかなる本を書写したかといふことである。おもふに、もと雅康自筆の五十四帖があつて、その最初の一帖と最後の一帖との書写を依頼し、以て家本を重からしめたのではあるまいか。この際、奥入を写さなかつたために、一見別系統の本のやうに見えるが、明融臨模本桐壺の巻と比校するに殆ど差違を認め得ない。夢浮橋の巻も亦これに准ずるものと判定される。即ちこの首尾二帖も系統的に雅康自筆本と異なるものではなかつたと言へよう。」(注31と述べているのである。

それでは、なぜこれら両帖を「校異源氏」「大成校異篇」の底本に採用しなかったのかというのが疑問である。それは、いみじくも「奥入を写さなかつた」と言っていたように、池田亀鑑氏は、その時点では「桐壺」「夢浮橋」が後補の別筆である上に、「奥入」のないことに目を惑わされたのである。言い換えれば、阿部秋生氏が指摘していたように、奥入りの有無という「形態的特徴によって、内容ともいうべき本文の系統を篩い分け」(注32るという過ちを犯したのである。後年(昭和26年)に、明融臨模本(8帖)が出現して、それを基準に、改めて大島本の本文の素性のよいことが再確認されたのである。「大成研究資料篇」の記述は実はそれを踏まえたものとなっているのである。つまり、池田亀鑑氏の大島本に対する認識は、明融臨模本の出現以前と以後とでは大きく違っているのだ。したがって、「校異源氏」と「大成校異篇」の「凡例」は同じものだが、「大成研究資料篇」では違った考えを述べている。もし時間的余裕さえ許せば、「大成校異篇」では、「桐壺」「夢浮橋」2帖も大島本に差し戻した可能性さえ考えられるのである。

ところで、問題の第二は、大島本の本文様態の処理に関わることである。

伊井春樹氏が、前述の奥書4条からの追跡で、「(吉見)正頼は雅康本のほかに良鎮本も手にしていたと知られる。大内正弘は文明十三年に雅康本を、九年後の延徳二年には良鎮本を入手していたが、この揃いの両本とも吉見正頼の架蔵となり、後に述べるように彼は全面的に雅康本に良賃鎮の注記を吸収していった。」と述べて、それらの事例を挙げて実証的に証明していき、実は、池田亀鑑氏もそのことを「源氏研究を中心とする大内氏の学問的業績」(「文学」昭和911月、のち『物語文学U』収録、至文堂 昭和4310月)において指摘しておりながら、「雅康自身の訂正と良鎮本による校異との判別ができないにしても、補入語句をすべて大成本に採用したことは、むしろ混態本を生み出す結果になっているのではないか。池田博士が大島本の発見当初は良鎮本との「本文の校合」があると指摘されながら、大成本の底本作成にはそれらを青表紙本として用いたことは矛盾してくるはずである。」(注33と批判したことである。

次に、池田亀鑑氏は「校異源氏」「大成校異篇」では「初音」を別本として底本に採用しなかったが、伊井春樹氏は「雅康が依拠した本文は別本であったにしても、校合して訂正した結果の本文は、明らかに青表紙本になっているのだから、他の巻と同じ扱いにすべきではないだろうか。」「一貫していたはずの方針がこの初音巻ではまったく適用されず、補訂以前の本文を尊重するという態度に変更されているのである。」「やや無原則な感じがしないでもない。」(注34と、大島本の本文様態に対する処理方法について、巻によって一貫性がない、別本としてして扱った「初音」も他と同様に処理すれば、青表紙本ではないかという、疑問を呈していることだ。

 以上、池田亀鑑氏が「校異源氏」「大成校異篇」の底本に「青表紙本」を選び、定家本原本(4帖)を基軸にしてその臨模本の明融臨模本(8帖)そしてそのグループの最善本の大島本(53帖)を選定した学術的業績と、その一方で方法論的問題点について見て来た。その問題点は今後に乗り越えられていくべき課題――本文処理方法の問題――として残るが、しかしその学術的業績、すなわち池田亀鑑氏が源氏物語のテキストに定家本を選んだということは、このテキストが紫式部と藤原定家のコラボレーションによって出来た最高の文学テキストであるということで、それは不朽の意義を持つであろう。

 

おわりに

 

 以下、池田亀鑑編著『校異源氏物語』『源氏物語大成』の底本の問題点について整理する。

問題点1.「青表紙本」の概念規定と現存「定家本原本」(四半本型4帖)の問題

古注釈書に云う「青表紙御本」「青表紙」(定家本・京極中納言定家本)は、現存「定家本原本」(四半本型4帖)と同一か。

「明月記」嘉禄元年1225215日記事は、現存「定家本原本」(四半本型4帖)を指すか。

問題点2.「青表紙本原本」(定家本原本「柏木」)に対する本文批判は、十分であったか。

石田穣二氏による約50か所の本文校勘跡の分析について。

大野晋氏による定家仮名遣いとその例外について。

「定家本」とは「定家筆本」ではなく、定家筆と非定家筆の寄合書(柏木)また別筆(花散里、行幸、早蕨)等であることの認識について。

定家本4帖)だけでなく、明融臨模本(8帖)を含めて「定家本原本」の本文様態について再検討すべきことについて。

問題点3.「校異源氏」「大成校異篇」における「定家本原本」(四半本型)「明融臨模本」「大島本」その他「青表紙本(定家本)」の本文処理上の問題について。

伊井春樹氏による「校異源氏」「大成校異篇」における底本の評価(桐壺・初音・夢浮橋)と本文の処理方法は適切であったか。

「明融臨模本」「大島本」における本文一筆と後人の校訂とが峻別されずに「青表紙本(定家本)」の再建がなされていることについて。

 

   注

 

(1)『校異源氏物語』(巻一「序」昭和十六年四月 芳賀矢一博士記念会実行委員)。『源氏物語大成』(巻一「序」昭和二十八年五月 池田亀鑑、巻七「「源氏物語大成」の経過について」昭和三十一年八月)に詳しい。

(2)田坂憲二「『校異源氏物語』成立前後のこと」『もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」第1集』所収、新典社 20115月)

(3)東京帝国大学文学部国文学研究室編『源氏物語に関する展観書目録』岩波書店 昭和711月)

(4)論文の末尾に「昭和71210日稿」とあり、岩波講座『日本文学』(昭和81月)に掲載された。

(5)田坂憲二「大島本源氏物語の転変――展覧会目録を中心に――」(『むらさき』35輯 平成1012月、『源氏物語享受史論考』(所収、風間書房 200910月)

(6)池田亀鑑編著『源氏物語大成巻七 研究資料篇』(「第一章 青表紙本の形態と性格」中央公論社 昭和311月初版)

(7)注6同書、59頁。

(8)『日本古典籍書誌学辞典』(片桐洋一筆 岩波書店 19933月)

(9)片桐洋一「もう一つの定家本『源氏物語』」(『源氏物語以前』所収 笠間書院 2001年(平成13年)10月)

10)太田晶二郎「源氏物語(青表紙本)解題」(原装影印古典籍覆製叢刊 前田育徳会尊経閣文庫 昭和5311月)

11)石田穣二『柏木(源氏物語)』(「校訂私言」51頁 桜楓社 昭和345月)

12)大野晋『仮名遣と上代語』(「仮名遣いの起源について」『国語と国文学』195012月、「仮名遣いの起源についての研究」19頁 岩波書店 昭和572月)

13)阿部秋生『源氏物語の本文』(「源氏物語諸本分類の基準」91頁 岩波書店 1986年(昭和61年)6月)

14)注12同書、20頁。

15)注10同書、7頁。

16)注10同書、9頁。

17)玉上琢弥『源氏物語評釈 第6巻』(「関戸家蔵「定家筆見遊幾帖」について」19頁 角川書店 昭和416月)

18)太田晶二郎「古典籍覆製叢刊 源氏物語(青表紙本)使用上の注意」(前田育徳会尊経閣文庫 昭和547月)

19)注11同書、52頁。

20)注12同書、1920頁。

21)注12同書、20頁。

22)石田穣二『源氏物語(明融本)U』(「解題」707708頁 東海大学出版会 1990年(平成2年)7月)

23)注6同書、66頁。

24)注22同書、707708頁。

25)石田穣二『源氏物語論集』(桜楓社 昭和4611月)に「明融本の本文について」と題してかつて『文学論藻』に発表された「帚木」「橋姫」「浮舟」3帖に関する論考が収録されている。

26)注22同書、710716頁。

27)注6同書、6970頁。

28)注6同書、73頁。

29)注1同書、5頁。

30)伊井春樹『源氏物語論とその研究世界』(「大島本『源氏物語』書き入れ注記の性格」461頁 風間書房 200211月)

31)注1同書、7172頁。

32)注13同書、77頁。

33)注30同書、464478479頁。

34)注30同書(「大島本『源氏物語』の本文――『源氏物語大成』底本の問題点――」529頁)