紫式部集
First updated 11/24/2003
Last updated 08/18/2008(ver.2-2)
渋谷栄一訳(C)

紫式部集

      【一】
     早くから童友だちであった人に、長年経て行き逢ったが、ほんの少しの時間で、十月十日のころに、月と競って帰ってしまったので、
0001 久しぶりに出逢ってお会いしたのに、昔のままのあなたであったかどうであったか見分けのつかないうちに
   急いで姿を隠してしまった夜半の月影のようなあなたでしたね

      【二】
     その人は、遠い国へ下って行くというのであった。秋の終わりの日が来た、その早暁に、虫の声がしみじみと鳴いていた。
0002 鳴き弱った垣根の虫も行く秋を止めがたいようにわたしもあなたが遠い国へ下って行くのを止められません
   秋の別れは何と悲しいことなのでしょう

      【三】
     「箏の琴をしばらくお借りしたい」と文に書いて寄こした人が、「参上して、あなたから直接に習いたい」と言ってきた返事に、
0003 露がしとどにおいた草深い庭の虫の音のようなわたしの琴の奏法を
   並み大抵の人は訪ねて来ないでしょう、まことにご熱心なこと

      【四】
     方違えのためにやって来た人が、何となくはっきりしないことがあるといった格好をして、帰って行ったその朝早くに、こちらから朝顔の花を送ろうと思って、
0004 はっきりしませんね。そうであったのか、そうではなかったのか、まだ朝暗いうちに
   ぼんやりと咲いている朝顔のような、今朝の顔は

      【五】
     返歌は、筆跡を見分けることができなかったのであろうか、
0005 どちらからの筆跡かと見分けているうちに、朝顔の花のように
   萎れてしまいそうになるのが辛いことです

      【六】
     筑紫へ行く人の娘が、
0006 西の海を思ひやりながら月を見ていると
   ただ泣けてくる今日このごろです

      【七】
     返歌、
0007 西へ行くあなたへの手紙は毎月のように
   けっして書き絶えることはしません、空の通路を通して

      【八】
     「遥か遠い任国に、行こうか、行くまいか」と、思い煩っていた人が、山里から紅葉を手折って寄越した歌、
0008 露が深く置いている奥山里のもみぢ葉に
   似かよった袖の色をお見せしたいですね

      【九】
     返歌、
0009 烈しい風が吹く遠くの山里のもみぢ葉は
   露を少しの間でも留まらせることが難しいように、あなたも都に留まることは難しいのでしょうね

      【一〇】
     再び、その人が、
0010 もみぢ葉を誘う嵐は疾いけれど
   木の下でなくては散り行く気持ちにもなれません

      【一一】
     もの思いして悩んでいた人が、嘆き訴えてきた返事に、霜月ごろに、
0011 霜や氷りが閉ざしているころの筆は
   十分に書ききれない気持ちばかりがしています

      【一二】
     返歌、
0012 たとい筆が進まなくても今まで同様に便りを書き集めて送ってくださいね、霜や氷に閉ざされたわたしの心も
   あなたの便りによってもの思いを流せましょうから

      【一三】
     上賀茂神社に参詣した時に、「ほととぎすが鳴いてほしい」という明け方に、片岡の森の木末が趣き深く見えたことであった。
0013 ほととぎすの鳴く声を待つ間は、車の外に立って、片岡の
   森の雫に濡れましょうかしら

      【一四】
     三月の朔日に、賀茂の河原に出た時に、隣の牛車に法師が紙の冠をつけて、陰陽博士めいた格好をしているのを憎らしく思ったので、
0014 祓へどの神の前に飾った御幣に
   いやに似通った紙冠ですこと

      【一五】
     わたしの姉だった人が亡くなり、一方で、妹を亡くした人が、お互いに出あって、「亡くなった姉妹の代わりに思い合いましょう」と言ったのだった。手紙の上書きに姉君と書き、また中の君と書き通わしていたのだが、それぞれ遠い国へ行き別れるので、それぞれ別の所から別れを惜しんで、
0015 北へ飛んで行く雁の翼に便りを言伝てください
   雁が雲の上を羽掻きするように、手紙を書き絶やさないで

      【一六】
     返歌は、西の海へ行った人である。
0016 遠くへ行っても廻って都に、鹿蒜山ではありませんが、帰ってきますが
   また五幡ではありませんが、何時のことかと聞くだけでもはるか先に思われます

      【一七】
     摂津国という所から寄越したのであった。
0017 難波潟に群れている水鳥のようにあなたと一緒に
   暮らしていられるものと思えたらいいのですが

      【欠】
     返歌、
(二行空白)

      【一八】
     筑紫にある肥前国というところから、手紙を寄越したのだが、とてもはるかなところで見たのであった。その返事に、
0018 あなたにお逢いしたいと思うわたしの心は、松浦に鎮座する
   鏡の神が空からお見通しくださることでしょう

      【一九】
     返歌は、翌年に持って来た。
0019 めぐり逢うことを待つという、松浦の鏡の神に対して
   誰を心にかけつつ祈っているとあなたはお分かりでしょうか

      【二〇】
     近江の湖で、三尾が崎という所に、網を引いているのを見て、
0020 三尾の海で漁民がせわしなく網を引いて働いている
   その立ち居を見るにつけても都が恋しいことよ

      【二一】
     又、磯の浜に、鶴が声々に鳴くのを聞いて、
0021 磯の隠れた所でわたしと同じ気持ちで鶴が鳴いているが
   何を思い出し誰を思ってなのだろうか

      【二二】
     夕立ちが来そうだと言って、空がかき曇って稲妻がひらめくので、
0022 空がかき曇って夕立ちのために波が荒くなったので
   浮いている舟の上で落ち着いていられない

      【二三】
     塩津山という道がたいそう草木が繁っているので、下男が粗末な身なりをして、「やはりつらい道だな」と言うのを聞いて、
0023 知っているのだろう、行き来に慣れた塩津山の
   古くからある世渡りの道は辛く塩辛いものだと

      【二四】
     琵琶湖で、おいつ島という洲崎に向かって、わらわべの浦という入り海がおもしろいので、口すさみに、
0024 おいつ島を守る神様は静かになさいと諌めるのでしょう
   波も騒がないわらわべの浦ですこと

      【二五】
     暦に「初雪降る」と書いてある日、目近に見える日野岳という山の雪が、たいそう深く積もっているように眺められるので、
0025 ここ越前の国府にこのように日野山の杉むらを埋める雪は
   都で見た小塩山の松に今日は見まちがえることです

      【二六】
     返歌、
0026 小塩山の松の上葉に今日はおっしゃるように
   雪が降って、その峯の薄雪は花と見えるのでしょう

      【二七】
     雪が降り積もって、たいそうやっかいな雪をかき捨てて、山のようにした所に、人びとが登って、「雪は嫌だと言っても、やはり、ここへ出て来て御覧なさい」と言うので、
0027 故郷に帰るという鹿蒜山の雪ならば
   気も晴れるかと出て見ましょうが

      【二八】
     新年となって、「唐人を見に行こう」と言っていた人が、「春は早く来るものと、何とかしてお知らせ申そう」と言ったので、
0028 春とはなりましたが、白山の深雪はますます降り積もって
   いつ雪解けとなるかは分かりませんわ

      【二九】
     近江守の娘に、求婚しているという評判の人が、「あなた以外に、二心ありません」などと、いつも言い続けていたので、わずらわしくなって、
0029 湖の友を呼ぶ千鳥よ、同じことならば
   たくさんの湊に声をかけなさい

      【三〇】
     歌絵に海人が塩を焼いている絵を描いて、木を切って積み上げた薪の側に書いて、返歌をやる。
0030 あちこちの海で塩を焼く海人のように自分から
   焦がれているとはこのような嘆きを重ねているのでしょうか

      【三一】
     手紙の紙面に朱というものを点々とふりかけて、「わたしの涙の色です」などと書き送ってきた人への返事に、
0031 紅の涙がますます疎ましく思われます
   心変わりする色に見えますので
     もともと妻のいる人なのであった。

      【三二】
     「わたしの送った手紙を他人に見せた」と聞いたので、「いままでのわたしの手紙を、すべて集めて返さなければ、もう返事は書きません」と、使者に口上で言わせたところ、「すべてお返しします」と言って、ひどく恨んでいたので、それは睦月十日ころのことであった。
0032 春になって閉ざされていた谷川の薄氷もせっかく解け出したというのに
   それでは川の水のように絶えてしまえとおっしゃるのですか

      【三三】
     気持ちがなだめられて、たいそう暗くなったころに寄越した歌、
0033 春の東風で解けるくらいの氷ならば
   石間の水は絶えるなら絶えればいいのだ

      【三四】
     「もう何も言いません」と言って、腹を立てているので、笑って返歌。
0034 絶交するならばおっしゃるとおり絶交しましょう、なんでその
   みはらの池の堤ではありませんが、腹立ちを包んでいられましょう

      【三五】
     夜半ごろに、再び、
0035 立派でもなく人数にも入らぬわたしは、沸き返らせて、
   みはらの池の腹を立てましたが、あなたには負けましたよ

      【三六】
     桜を花瓶に挿して見ていると、すぐに散ってしまったので、桃の花を眺めて、
0036 手折ったら近まさりしてください、桃の花
   わたしの気持ちを理解しない桜など惜しみません

      【三七】
     返歌、ある人が、
0037 桃という名があるのですもの、わずかの間に
   散ってしまう桜より思ひ落とすまい

      【三八】
     桜の花の散るころ、梨の花といっても、桜も夕暮れ時の風の騒ぎで、どちらとも見分けられない色なので、
0038 花といったら桜と梨とどちらが色つやがないと見ようか
   散りかう色はどちらも違わないのだから

      【三九】
     遠い所へ行った友人が亡くなってしまったことを、親や兄妹などが京に帰ってきて、悲しいことを言ったので、
0039 どちらの雲路へ行ったと聞いたなら、訪ねもしましょうものを
   一羽だけ列を離れて行った雁の行方を

      【四〇】
     去年から薄鈍の喪服を着ている人に、女院(東三条院)がお崩れになった春、たいそう霞んでいる夕暮れに、ある人が持たせて置いていった歌。
0040 宮中でも悲しみに沈んでいる諒闇の春は薄鈍色に
   霞んでいる空までがしみじみと思われます

      【四一】
     返歌、
0041 どうして取るに足りないわたしごときが夫の死を悲しんで泣いていられましょうか
   国母が崩御されて国中が薄鈍色の喪に服しているときに

      【四二】
     亡くなった夫の娘が、父親の筆跡で書きつけてあったものを見て、詠んで寄越した歌。
0042 夕霧のために島蔭に隠れた鴛鴦の子のように
   父の筆跡を見ながら悲嘆に暮れています

      【四三】
     同じ人が、「荒れた我が家の桜の花が美しいこと」と言って、折って寄越したので、
0043 散る花を嘆いていたのは散った後の木のもとの
   寂しいことをかねて御存じでいたのでしょうか
     「心配が絶えない」と、あの亡くなった方が言っていたことを思い出したのである。

      【四四】
     絵に、もののけの憑いた女の醜い姿を描いた背景に、死んで鬼になった先妻を、小法師が縛った姿を描いて、夫は経を読んで、もののけを退散させようとしているところを見て、
0044 もののけにかこつけて手こずっているというが
   実は自分の心の鬼に責められているのではないでしょうか

      【四五】
     返歌、
0045 ごもっともですね、夫君の心が迷っているので
   心の鬼の影をはっきりと見えるのでしょう

      【四六】
     絵に、梅の花を見ようとして、女が妻戸を押し開けて、二三人座っているが、他の人々は皆寝ている様子を描いている中に、たいそう年取った身分ある女房が、頬杖をついてもの思いに耽っている姿が描いてあるところ、
0046 春の夜の闇に梅の花の色は見えないが
   心のうちに花の香を染めたことである

      【四七】
     同じ絵に、嵯峨野で花を見ている女車がある。もの慣れたる童女が、萩の花の側に立ち寄って手折ったところ、
0047 雄鹿がいつもそのように慣らしている萩なのでしょうか
   童女が近付くと同時に自然と萩が折れ伏すことよ

      【四八】
     世の中のはかないことを嘆いていたころ、陸奥国の名所をあれこれ描いた絵を見て、塩釜、
0048 連れ添った人が火葬の煙となった夕べから
   その名前が親しく思われる、塩釜の浦よ

      【四九】
     わたしの家の門を叩きあぐねて帰っていった人が、翌朝、
0049 いつも荒い風が吹く西の海にも
   その磯辺に波の寄せないことがありましょうか

      【五〇】
     と恨んで寄越した返事に、
0050 お帰りになってわたしの思いがお分かりになったでしょうか、岩角に
   浮わついて打ち寄せた岸のあだ波のあなたには

      【五一】
     年が明けて、「門は開きましたか」と言ってきたので、
0051 どなたの春の里を訪れたついでに、鴬は
   霞に閉ざされたわたしの宿を訪ねるのでしょうか

      【五二】
     世の中の騒然としていたころ、朝顔を人のもとへ贈るとして、
0052 死なない間のわが身を知りつつ朝顔のように
   はかない露と先を競う世を嘆くことよ

      【五三】
     世の中を無常だなどと思う人が、幼い子が病気になったので、唐竹というものを、花瓶に挿した女房が祈ったのを見て、
0053 若竹が成長してゆく先を祈っていることよ
   わたしはこの世を厭わしく思っているのに

      【五四】
     わが身を思うにまかせない不遇だと嘆くことが、だんだんと常のことになり、一途なありさまになっていくのを思った歌。
0054 人数にも入らないようなわたしの心のままに身の境遇を合わせることはできないが
   身の境遇に従って変わるのは心なのであったわ

      【五五】
0055 せめて心だけでもどのような身の上に満足するのだろうか
   分ってはいるけれどもなかなか悟ることができないことよ

      【五六】
     初めて宮仕えして宮中のあたりを見るにつけても、しみじみと感慨深く思われるので、
0056 身の嫌なことは、心の中では宮中を慕ってきたが
   いま宮中を見て、幾重にも物思いに心が乱れることよ

      【五七】
     まだ宮仕えにたいそう物慣れない状態で、実家に帰って後、わずかに話し合った人に、
0057 閉ざしていた岩間の氷がわずかに解け出すように春になったら
   途絶えていた水も姿を現さないでしょうか、わたしもきっとまた出仕しましょうよ

      【五八】
     返歌、
0058 深山のあたりの花が散りまがう谷風には
   凍っていた川も解けないでしょうか、解けましょう

      【五九】
     正月十日のころに、「春の歌を奉るように」とあったので、まだ出仕もしてない実家で、
0059 み吉野は春の景色に霞んでいるけれども
   依然としてかじかんでいる雪の下草です

      【六〇】
     三月のころに宮の弁のおもとが、「いつ参上なさいますか」などと書いて、
0060 嫌なことに思い悩まれて青柳のように
   たいそう久しくなってしまいましたね

      【六一】
     返歌、
0061 所在なく長雨が降るのを眺めながら送る日は青柳のように
   ますます嫌な世の中に悩まされて日を送っています

      【六二】
     これほどふさぎこんでしまいそうなわが身を、「とてもひどく上臈ぶっていらっしゃるわ」と言った人がいるとを聞いて、
0062 しかたないことだわ、あの人たちはわたしを一人前の人と思わないでしょうが
   自分自身からわが身を見捨てることができましょうか

      【六三】
     薬玉を贈りますといって、
0063 隠れていた根が引かれて現れ出たように今日は菖蒲の節供にちなんでわたしの心根を表します
   何も言わないうちに朽ちて終わってしまいそうなので

      【六四】
     返歌、
0064 今日はこのように菖蒲草を引き抜いてお言葉をかけてくださったのに
   わが身は水隠れに家に籠って涙に濡れています

      【六五】
     土御門殿で法華経三十講の五巻が、五月五日に当たっていたので、
0065 素晴しく尊いことだわ、今日は五月五日に
   第五巻が重なったこの御法会よ

      【六六】
     その夜、池の篝火に御灯明が光り合って、昼よりも水底まで鮮明な上に、菖蒲の香りまでがはなやかに匂って来るので、
0066 篝火の影も騒がない池の水に
   いく千代までも澄んで宿ることでしょう、御法会の光は

      【六七】
     型通りに言い紛らわしたのを、向かい合っていらっしゃる方は、それほどにも物思いがおありでないような容姿、有様、年齢のほどなのに、たいそう深刻に思い悩んで、
0067 澄んでいる池の底まで照らす篝火が
   まぶしく恥ずかしい嫌なわが身ですこと

      【六八】
     だんだんと夜が明けて行くころに、渡殿に来て、局の下から湧き出ている遣水を、高欄を押さえて、暫く見ていると、空の様子は、春秋の霞や霧にも劣らない時節である。小少将の君の局の隅の格子をちょっと叩くと、半蔀を上げ放って下格子を外しなさった。一緒に庭に下りて眺めていた。
0068 遣水に映る姿を見ても嫌なわたしの涙が落ち加わって
   恨みがましい滝の音ですこと

      【六九】
     返歌、
0069 一人で涙ぐんでいらっしゃった遣水の面に
   映り加わっている姿はあなたとわたしのどちらでしょうか

      【七〇】
     明るくなったので室内に入った。長い菖蒲の根を包んで、
0070 世間一般の嫌さに涙ぐまれる菖蒲草
   今日までこのような長い根はどうして見たことがありましょうか

      【七一】
     返歌、
0071 どのようなことと、菖蒲ではないが、ものの条理は分かりませんで、今日もやはり
   袂にあまる長い根の泣く音が絶えません

      【七二】
     宮中で水鶏が鳴くのを聞いて、七八日の夕月夜に、小少将の君から、
0072 宮中の通路は閉ざしてないのに
   どちらで戸を叩く水鶏なのでしょうか

      【七三】
     返歌、
0073 槙の戸も閉ざさないで休んでいる月光のもと
   何を開かないで不満だといって鳴く水鶏なのでしょうか

      【七四】
     夜が更けて局の戸を叩いた人が、翌朝に、
0074 一晩中水鶏よりもはっきりと泣きながら
   槙の戸口を叩きあぐねました

      【七五】
     返歌、
0075 ただ事では済まないことと、戸ばかりを叩く水鶏ゆえに
   戸を開けたらどんなに悔しい思いをしたことでしょう

      【七六】
     朝霧が美しい時分に、前栽の花どもが色とりどりに咲き乱れている中に、女郎花がたいそう花盛りであるのを、殿が御覧になって、一枝折らせなさって、几帳の上から、「これをむだには返すな」とおっしゃって、お与えなさった。
0076 女郎花の花盛りの色を見ると同時に
   露が分け隔てしているようにわが身の上が思われます

      【七七】
     と書いたのを、とても素早く、
0077 白露は分け隔てをしないでしょう、女郎花は
   自分から色を染めたのではないでしょうか

      【七八】
     久しく訪れなかった人を思い出した折、
0078 人を忘れることは嫌な世の常と思うにつけても
   わが身のやり場がないのが寂しく泣き暮らしています
(四行空白)

      【七九】
     返歌、
0079 誰の邸にも訪れ来るのだろうかと、ほととぎすを
   心のかぎりを尽くして待ち侘びていました

      【八〇】
     都の方へ帰るというので、鹿蒜山を越えた時に、呼坂という所のとてもひどく険しい路で、輿もかき難じているのを、恐いと思っていると、猿が木々の葉の中から、たいそうたくさん出て来たので、
0080 猿よ、おまえもやはり遠方人として声を掛け合えよ
   わたしが越えかねているたごの呼坂で

      【八一】
     琵琶湖で伊吹山の雪がたいそう白く見えるのを、
0081 名高い越の白山に行き、その雪を見慣れているので
   伊吹山の雪は何とも思わないことだ

      【八二】
     卒塔婆の年を経て古くなったのが、転び倒れているのが人に踏まれるのを、
0082 あて推量に、ああ畏れ多い、苔のむした
   仏の御顔を卒塔婆に、それとは見えないけれども

      【八三】
     あの人が、
0083 近しくなってお互いに心は見えたでしょう
   人伝てでない仲となりたいものですね

      【八四】
     返歌、
0084 わたしは隔て心を持ちませんと常に思っているのに、「人伝てでなく」とおっしゃるとは、夏衣のような
   あなたの薄い心がまっ先に知られました

      【八五】
0085 今は峯が寒いので岩間で凍っている谷水のように浅い水ですが
   行く末は水嵩も増して深くなっていくでしょう

      【八六】
     若宮の御産屋の五日目の夜、月の光までが格別に明るく遣水の上の渡殿の橋にさして、上達部や殿をはじめ申して、酔い乱れて、大騒ぎなさる。酒盃の折にさし出した歌、
0086 新しい光がさし加わった盃は
   持ちながら満月のまま千年もめぐっていくことでしょう

      【八七】
     次の夜、月が明るいので若い女房たちが、舟に乗って遊ぶのを眺める。中島の松の根もとに舟が漕ぎ廻るところが、趣き深く見えるので、
0087 翳りなく千年も澄んでいる水の面に
   宿っている月の光ものどかなこと

      【八八】
     御五十日の夜、殿が「歌を詠め」とおっしゃったので、
0088 五十日のお祝に、いかにしていかほどと数えやった  らよいのでしょうか、八千年もの
   あまりに久しい若君の御寿命を

      【八九】
     殿の御歌、
0089 鶴のような長寿があったならば若君の年齢の
   千年の数も数え取ることができよう

      【九〇】
     時たまに返事をした人が、後に再び書かなかったところ、男が、
0090 折々に返事を書くとは見えたが、ささがにのように
   どのように思えば絶えることになるのでしょう

      【九一】
     返歌は、九月晦日になってしまった。
0091 霜枯れの浅茅に見まぎれるささがにの
   蜘蛛の巣はどのような折に掛くと見えたのでしょうか

      【九二】
     何の折であったか、あの人への返事に、
0092 月の入る方角ははっきりしていた月光を
   ぼうっと上の空で待っていた夕べでしたわ

      【九三】
     返歌、
0093 目指して行く山の端もみなすっかり曇って
   心も上の空に消えてしまった月光です

      【九四】
     再び、同じ心持ちを、九月の月の明るい夜に、
0094 世間一般の秋の情趣を思いやってください
   月に誘われて心は浮かれ出たとしても

      【九五】
     六月ころに、撫子の花を見て、
0095 垣根は荒れて寂しさがまさる常夏に
   露が置き加わる秋までは見ることができないでしょう

      【九六】
     「何か悩み事がおありなのですか」と、ある方がお尋ねなさった返事に、九月の晦日に、
0096 花薄の葉ごとに分けて置く露はどうしてこのように
   枯れて行く野辺に消え止まっているのでしょう

      【九七】
     病気をしているころのことであった。「貝沼の池という所がある」と、人の不思議な歌語りをするのを聞いて、「試みに歌を詠もう」と言う歌。
0097 世の中に生きているなかでどうして貝沼ではないが、生きる甲斐がないと
   思い沈むことだ、どこそこと池の底は知らないけれど

      【九八】
     今度は、気持ちよさそうに詠んでみようとして、
0098 心が晴れ晴れとする水の様子は今日見ました
   これがこの世に生きる甲斐があると伝わった貝沼の池でしょうか

      【九九】
     侍従の宰相(藤原実成)が奉った五節の舞姫の部屋は、中宮(彰子)の御前にたいそう近いのに、弘徽殿女御の右京が、先夜はっきり目立った様子でいたことなどを、女房たちが言い立てて、日蔭の鬘を贈る。顔を隠すための扇などを添えて、
0099 大勢の豊の明りの節会に参集した宮人の中から取り分けて
   はっきりと日蔭の鬘を着けたあなたをしみじみと見ました

      【一〇〇】
     中将の君や少将の君などと呼び名を持った女房たちが、同じ細殿に住んでいて、わたしが少将の君と毎晩逢って親しく語るのを聞いて、隣の中将の君が、
0100 三笠山の同じ麓なのに区別して
   霞が谷を隔てるように分け隔てしていますね

      【一〇一】
     返歌、
0101 谷を越えて入ることが難しいので三笠山の
   霞を吹き晴らす風を待っているのです

      【一〇二】
     紅梅を折って里から差し上げようとして、
0102 埋もれ木のように目立たずに咲いている梅の花よ
   せめて薫りだけでも散らしておくれ宮中までも

      【一〇三】
     四月に八重に咲いた桜の花を、宮中で見て、
0103 八重桜が九重の宮中で咲いているのを見ると、桜のもとに
   重ねてやって来た春の盛りでしょうか

      【一〇四】
     桜の花が賀茂祭の日まで散り残っていたのを、勅使の近衛少将の挿頭に中宮から賜るというので、その葉に書く。
0104 神代には有ったのでしょうか山桜を
   今日の祭の挿頭のために折り取った例は

      【一〇五】
     正月三日に、宮中から退出して、実家がただわずかのうちにすっかり塵が積もって荒れ方がひどくなってしまったのを、不吉な言葉を慎しむこともしきれず、
0104 新年になった今日、何となく悲しい気持ちがするのは
   わが身の嫌さがまた様変わりしたのであろうか

      【一〇六】
     五節のころに参上しないのを、残念ですなどと、弁の宰相の君がおっしゃっていたので、
0106 素晴しいとお思いになりますならば、摺衣を着てお目にかかりましょう
   五節のころは過ぎたとしましても

      【一〇七】
     返歌、
0107 それではあなた山藍の摺衣を着る時期は過ぎたとしましても
   恋しいと思っているうちにそれを着てお見せください

      【一〇八】
     あの人が寄越した歌、
0108 ため息をつきながら一夜を明かすと、明け方になっても
   はっきりとあなたの夢を見ることができませんでした

      【一〇九】
     七月上旬ころの、夜明け方の事であった
       返歌、
0109 明け方の空が霧りわたっており、早くも
   秋の様子に世の中は、あなたもわたしに飽きておしまいになったようですわ

      【一一〇】
     七日、
0110 普通に思うと縁起でもないが、天の川の
   年に一度の今日の逢う瀬は羨ましく思われます

      【一一一】
     返歌、
0111 天の川の逢う瀬は他人の雲井のことです
   絶えないあなたとの夫婦の仲は世々に褪せなければ永遠です

      【一一二】
     門の前を通るので、「うちとけている様子を見たい」と寄越したので、それに書いて返した歌。
0112 何でもない折に訪ねようという人の言葉に
   うちとけた様子はけっして見せまいと思っています

      【一一三】
     月を見ていた翌朝、どのように言って来たのであったか、
0113 他の女性に関心を寄せることなどけっしてしませんと言ったのは誰でしょうか
   昨夜の秋の月見もどのようにして見たのでしょうか

      【一一四】
     九月九日の重陽の節に、菊の綿を殿の奥方から賜ったので、
0114 菊の露で若返るほどに袖を拭って
   この花の主人に千代の齢はお譲り申し上げましょう

      【一一五】
     時雨の降る日、小少将の君が実家から、
0115 物思いに雲の切れ間なく眺める空もわたしの心同様にかき曇って
   どのように堪えて降る時雨なのでしょうか

      【一一六】
     返歌、
0116 ごもっともな時雨の降る空は雲間はありますが
   眺めているわたしの袖は乾く間もありません

      【一一七】
     実家に退出していて、大納言の君が、手紙を下さった折に、
0117 浮き寝をした水の上ばかりが恋しく思われて
   鴨の上毛の冷たさにも負けない侘しさです

      【一一八】
     返歌、
0118 上毛の霜をうち払い合う友のいないころの夜半の寝覚めには
   つがいのように親しく過ごしたあなたを恋しく思われます

      【一一九】
     又、どのような折であったか、
0119 どれほどの物思いを尽くして眺めたわけではないが
   見ていたうちに涙に暮れてしまった秋の月であった

      【一二〇】
     相撲を御覧になる日、宮中で、
0120 よるべない旅の空のようなわたしの住まいを
   雨の中を訪ねて来る人もいないでしょうね

      【一二一】
     返歌、
0121 相撲に挑む人が大勢いると聞こえた宮中の
   相撲が中止になって、どんなに残念なことかと分っていただけるでしょうか、宮仕え生活の辛さも思い知られましょう
     雨が降って、当日は帝の御覧が中止になってしまった。つまらい公事であったわ。

      【一二二】
     初雪が降った夕暮れに、ある人が、
0122 あなたを恋しく思っている折に降って来た初雪は
   積もる間もなく消えてしまわぬかと心配されました

      【一二三】
     返歌、
0123 生きているとこのように辛さばかりが増える世の中なのを知らずに
   荒れたわが庭に積もる初雪よ

      【一二四】
     小少将の君が生前にお書きになった心を許した手紙が、何かの中にあったのを見つけて、加賀の少納言のもとに、
0124 日が暮れない間のはかない身であることを考えないで、人の寿命の
   悲哀を知るとは一方では悲しいことです

      【一二五】
0125 いったい誰が世に永らえて見るのでしょう、書き留めた
   筆跡は消えない故人の形見ではありますが

      【一二六】
     返歌、
0126 亡くなった人を悲しみ慕うこともいつまででしょう
   今日の無常は明日のわが身の上でしょうよ

      本に云ふ
       京極黄門定家卿筆跡本を以て、一字違はず、行賦・字賦・隻紙勢分に至るまで、本の如く、今之を書写す。時に、延徳二年(一四九〇)十一月十日、之を記す。
           癲老比丘判
       天文廿五年(一五五六)夾鐘(二月)上澣(上旬)之を書写す。