紫式部日記
First updated 05/01/2004
Last updated 12/01/2008(ver.2-3)
渋谷栄一訳(C)

紫式部日記(黒川本)

第一部 敦成親王誕生記
《第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記》
【一 土御門殿邸の初秋の様子】

 秋の風情が現れ立ってくるにつれて、土御門邸の様子は、何とも言い表わしようもないほどに趣がある。池の周辺の梢どもや、遣水のほとりの草むらは、それぞれに一面に色づいて、おしなべて空の様子も優美なことに引き立てられて、不断の御読経の声々に、しみじみとした情趣が深まっていった。だんだんと凉しくなっていく風の感じにつけても、いつもの絶え間のない遣水の音が、それに一晩中混じり合って聞こえてくる。

 中宮の御前においても、側近くお仕えする女房たちがとりとめのない話をしているのをお聞きあそばしながら、大儀そうでいらっしゃるらしいのに、平静をよそおってお隠しあそばしていらっしゃるご様子などが、まことに今さらお誉め申し上げるまでもないことだが、嫌なこの世の心の慰めには、このようなお方を、探し出してでもお仕えすべきであったのだと、ふだんの考えとはうって変わって、たとえようもなくすべての憂えが自然と忘れられるのも、一方では不思議である。

【二 五壇の御修法】

 まだ夜明けまでには遠い、夜の深いうちの月がすこし陰って、木の下が小暗い感じがするころなのに、

 「御格子を上げたいものですね。」
 「女官は、この時分までは起きていますまい。」
 「女蔵人が上げなさい。」

などと言い合っているうちに、後夜の鉦を打つ音が響きわたって、五壇の御修法の定時の勤行を始めた。われもわれもと、競い声を上げている伴僧の声々が、遠くからまた近くから、絶え間なく聞こえてくるのは、まことに荘厳で尊い。

 観音院の僧正が、東の対から寝殿へと、二十人の伴僧を率いて、中宮の御加持に参上なさる足音が、渡殿の橋をずしんずしんと踏み鳴らされる音までが、他の行事のときとは違った感じである。法住寺の座主は馬場の御殿へ、浄土寺の僧都は文殿などにと、お揃いの浄衣姿で、立派ないくつもの唐橋を渡りながら、木々の間をわけ入って帰っていく様子も、遠くまで眺めやっていたい感じがしてしみじみと感慨深い。さいさ阿闍梨も、大威徳明王を敬って、腰をかがめて礼拝している。やがて女官たちが出仕してくると、夜もすっかり明けた。

【三 道長との女郎花の歌の贈答】

 渡殿の戸口にある部屋から外を眺めていると、うっすらと霧が立ちこめている朝の草木の露もまだ落ちない時分に、道長殿が庭をお歩きあそばして、御隨身を呼び寄せて、遣水の手入れをさせなさる。橋の南に咲いている女郎花がたいそう花盛りであるのを、一枝折らせなさって、わたしの几帳の上からちょっとお覗かせになるご様子が、とても気後れするほど立派なのに対して、自分の朝の寝起きの顏が恥ずかしく思わずにはいられないので、

 「これに対しての返歌が、遅くなっては具合悪いことでしょう。」

と殿が仰せになったのを言い訳にして、硯のもとに身を寄せた。

  女郎花の朝露を置いた盛りの美しい色を見るとすぐに
  露が分け隔てして恩恵を受けないわが身が思い知られます(一)

 「ああ、何と早いことよ」

と、殿はにっこりなさって、硯を取り寄せなさる。

  白露は花に分け隔てをして置いているのではないでしょう、女郎花が
  自分から美しい色に染まって咲いているのでしょう(二)

【四 殿の子息三位の君頼通の姿】

 しっとりとした夕暮れ時に、宰相の君と二人して、話をしていたところに、殿の御子息頼通の三位の君が、御簾の端を引き上げて局の前にお座りになる。年齢のわりにはとても大人っぽく、奥ゆかしい態度で、

 「女性は何といっても気立てが大切ですが、やはりめったにいないもののようですね。」

などと、世間話を、しんみりとしていらっしゃる感じが、まだ若いとあなどり申し上げるのは間違っていると、こちらが恥ずかしくなるほど立派に見える。まだすっかりうちとけた感じにならないところで、

 「たくさん女郎花が咲いている野辺で」

とちょっと口ずさみなさって、お立ちになったご様子は、物語の中でほめたたえている男性の気持ちがしたことであった。

 このような事で、ちょっと思い出されるものがあって、その時はおもしろかったことでも、時がたつと忘れてしまうこともあるのは、どうしたことであろうか。

【五 碁の負わざ】

 播磨守藤原有国が負碁の饗応をした日に、ちょっと里に退出していたので、後日に碁盤の様子などを拝見しましたら、碁盤の花形の脚などがいかにも風流に作られていて、洲浜の波打ち際の水に下のように書きまぜてあった。

  紀伊の国の白良の浜で拾うという
  この碁石こそは大きな巌ともなるでしょう(三)

 桧扇などでも、趣向を凝らしたのを、そのころは女房たちは持っていた。

【六 八月二十日過ぎの宿直の様子】

 八月二十日過ぎのころからは、上達部や殿上人たちで、しかるべき方々はみな宿直することが多くなって、橋廊の上や対の屋の簀子などに、みな仮寝をしながら、とりとめもない遊び事をして夜を明かす。琴や笛の演奏などは、未熟な若い人たちが行い、一方で僧たちの読経の競い合い、また今様歌の朗唱なども、場所が場所だけに興趣があった。

 中宮大夫藤原斉信、左宰相中将源経房、兵衛督源憲定、美濃少将源済政などが一緒になって、演奏なさる夜もある。しかし特別の演奏会は、殿に何かお考えがあるのか、おさせにならない。

 ここ数年の間、里下りしていた女房たちが、しばらく御無沙汰していたのを思い起こし思い起こして、參り集まってくる様子が騒がしくて、そのころは落ち着いた感じもない。

【七 八月二十六日、弁宰相の君の昼寝姿】

 八月二十六日、中宮様の薫物の調合が終わって、女房たちにもお分け与えなさる。練香を丸めた女房たちが、大勢集まって座っていた。

 中宮様の御前から下りる途中に、弁の宰相の君の局の戸口をちょっと覗き込むと、昼寝をなさっていた時であった。萩や紫苑などの色とりどりの衣の上に、濃い紅の打ち目が、格別に美しい小袿を上に掛けて、顏は衣の中に引っ込めて、硯の筥を枕にして臥せっていらっしゃる額つきは、とても可愛らしげで優美である。まるで絵に描いた物語の姫君のような感じがするので、口元をおおっている衣を引きのけて、

 「物語の中の女君の感じでいらっしゃいますね。」

と言うと、わたしの顔を見上げて、

 「気が変な人のなさりかたですよ。寝ている人を思いやりもなく起こすなんて。」

と言って、すこし起き上がりなさった顏が、思わず赤らんでいらっしゃったのなどは、実に上品で美しゅうございました。

 普段からも美しい人が、折が折だけに、さらにこの上なく優れて見えることなのであった。

【八 九月九日、菊の綿の歌】

 九月九日に、菊の綿を兵部のおもとが持って来て、

 「これを、殿の北の方倫子様が、特別にあなたに。『たいそう念入りに、老いを拭い捨てなさい』と、仰せになりました。」

と言うので、

  菊の露にわたしはちょっと若返るくらいに袖を触れることにして
  この花の持ち主であるあなた様に千年の寿命はお譲り申し上げましょう(四)

と詠んで、ご返礼申し上げようとしているうちに、「北の方様はあちらにお還りになられました」ということなので、差し上げる用が無くなったので手許にとどめ置いた。

【九 九月九日の夜、御前にて】

 その日の夜に、中宮様の御前に参上しましたところ、月が美しい時分なので、簀子の端近に、御簾の下から女房たちの裳の裾などが、こぼれ出ているあたりに、小少将の君や大納言の君などが伺候していらっしゃる。中宮様は御香炉で、先日の薫物を取り出して、聞香をさせていらっしゃる。お庭先の趣き深い様子や、蔦がまだ色づかないじれったさなどを、女房たちが口々に申し上げていると、いつもよりも苦しそうなご様子でいらっしゃるので、ちょうど御加持などをなさる時刻であり、落ち着かない感じがして加持なさる部屋に入った。

 朋輩が呼ぶので自分の部屋に下がって、少しの間横になろうと思ったのだが眠ってしまった。夜中ごろから人びとが騒ぎ出して大声を出している。

【一〇 九月十日、産室に移る】

 九月十日の、まだ夜明けがほのぼのと明けそめるころに、御座所のしつらいが浄白に模様替えになる。白木の御帳台にお入りになる。殿をおはじめ申して、御子息たちや、他の四位や五位たちが慌ただしく働いて、御帳台に垂絹を掛けたり、御寝具類を次々と持ち運んだりしている間は、とても落ち着かない。

 中宮様は一日中、とても不安そうに起きたり臥したりなさりながらお過ごしなさった。中宮様についているもののけどもを憑坐に駆り移し、調伏しようとこの上なく声を上げて祈り立てる。ここ数月来、大勢仕えていた邸内の僧侶たちは、言うまでもなく、山々や寺々を尋ね求めて、修験者という修験者は一人残らず参集して、三世の仏様もどんなに空を翔け回っていらっしゃろうかと思わずにはいられない。陰陽師とても、ありとあらゆる者たちを呼び集めて、八百万の神々も、耳をふり立てて聞かないことはないとお見受け申した。御誦経の使者が、一日中次々と出立する騒ぎのうちに、その夜も明けた。

 御帳台の東面の間には、主上付きの女房たちが参集して伺候する。西面の間では、中宮様のもののけが移った憑坐たちが、御屏風一具をもって引き囲み、その囲みの入口には几帳を立てて、修験者たちが憑坐一人ひとりを担当して祈祷の声を上げていた。南面の間には、高僧の僧正や僧都たちが、重なるように並みいて、不動明王の生きておられる容貌を呼び出してしまいそうなまでに、祈願したりまた恨んだりして、みな一様に声を涸らしているのが、たいそう尊く聞こえる。

 北の御障子と御帳台との間の、とても狹いところに、女房四十人余りが、後から数えてわかったのだが、詰めていたのであった。少しも身動きできず、のぼせあがって何も考えることができないありさまであったことよ。今ごろ、里から参上した女房たちは、せっかく上がったのにかえって邪魔者扱いで、室内に入ることもできなかった。裳の裾や衣の袖などがどこに行ったのかもわからず、しかるべき年輩の女房などは、中宮様の身を案じて忍び泣きして、おろおろしている。

【一一 九月十一日の暁、加持祈祷の様子】

 十一日の明け方に、北側の御障子を二間取りはなって、中宮様は廂の間にお移りあそばす。御簾なども十分に掛けることができないので、御几帳を幾重にも重ね並べておいでになる。雅慶僧正や定澄僧都、法務僧都の済信などが伺候して御加持申し上げる。院源僧都は、殿が昨日お書きあそばしたご安産の願文に対して、さらにたいそう尊い文言を書き加えて、読み上げ続けている文言が実に尊く聞こえ、頼もしそうなことはこの上ないうえに、殿が一緒になって、仏を念じ申し上げていらっしゃる様子が心強くて、いくら何でもとは思いながらも、ひどく悲しいので、居あわせた女房たちはみな涙をこらえることができず、

 「縁起でもありません、そうお泣きなさるな。」

などと、お互いに言いながらも、涙を抑えることができないのであった。

 人が大勢混んでいては、ますます中宮様の御気分も苦しくいらっしゃるだろうということで、殿は女房たちを南面や東面にお出だしになって、しかるべき女房だけが、中宮様のいらっしゃる二間の側に伺候する。殿の北の方と讃岐の宰相の君、内蔵の命婦は、御几帳の内側におり、さらに仁和寺の僧都の君と三井寺の内供の君も中に呼び入れた。殿が万事につけ指図なさる大きなお声に、僧侶たちの読経の声も圧倒されて聞こえないくらいである。

 もう一間に控えていた女房たちは、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、弁の内侍、中務の君、大輔の命婦、大式部のおもと、この人は殿の宣旨ですよ。たいそう長年中宮様にお仕えしてきた女房たちばかりが、心配で心配でたまらないでいる様子などは、まことにもっともであるが、わたしなどは中宮様にお馴染み申し上げてまだ日も浅いけれど、又となく大変なことだと、心中はっきりと思われた。

 また一方で、わたしたちのいる後ろの境目に立ててある几帳の外側には、中宮様の妹君たちの乳母の尚侍研子様付きの中務の乳母、姫君威子様付きの少納言の乳母、幼い姫君嬉子様付きの小式部の乳母などが入り込んで来て、二つの御帳台の後ろの狭い通路は、人も通ることがでない。行き来したり身動きする女房たちは、顏なども見分けられない。

 殿の御子息の頼通・教通たち、宰相中将藤原兼隆、四位少将源雅通などは言うまでもなく、左宰相中将源経房、中宮大夫藤原斉信などは、いつもはあまり親しくない方々までが、御几帳の上からともすれば顔を覗き込んだりして、わたしたちの泣き腫らした目を見られていたのも、すべて恥ずかしさを忘れていた。頭の上には魔よけの散米が雪のやうに降りかかっており、涙でくしゃくしゃになっている衣装がどんなに見苦しかったことであろうと、後になって考えるとおかしかった。

【一二 無事出産】

 中宮様の御頭頂のお髪を形ばかりお削ぎ申し上げて、御忌戒をお受けさせ申し上げる間、途方に暮れるほどの気分で、これはどうなることかと、驚きあきれるほど悲しいと思っているうちに、無事に御出産なさって、後産のことがまだの間に、あれほど広い母屋から、南面の廂の間、外の簀子の高欄の際まで立て混んでいた僧侶たちも俗人たちも、いま一段と大きな声を上げて礼拝した。

 東面にいる女房たちは、殿上人にまじって控えている格好で、小中将の君が、左の頭中将源頼定とぱったり顔を合わせて、茫然とした様子などを、後になってそれぞれが話し出して笑った。化粧などが行き届いて、優美な人で、明け方に化粧をしていたのだが、泣き腫らして、涙でところどころ化粧くずれして、驚きあきれるくらいで、小少将の君とも見えなかった。

 宰相の君が、涙で顏変わりなさった様子などは、とても珍しいことでございました。それ以上に、わたしの顔などはどう見えたことであろうか。けれども、その際に見た女房の様子が、お互いに覚えていないというのも、幸いなことであった。

 いよいよ御出産あそばすというときに、御もののけが妬み声や大きな声を出すことなどの何とも気味の悪かったことよ。憑坐らの源の蔵人には心誉阿闍梨を、兵衛の蔵人には妙尊という僧侶を、右近の蔵人には法住寺の律師を、宮の内侍の局には千算阿闍梨を担当させていたところ、阿闍梨たちがもののけに引き倒されて、ひどく気の毒だったので、念覚阿闍梨を呼び寄せ加えて大声で祈祷した。

 阿闍梨たちの効験が薄いのではない、御もののけがひどく手強いのであった。宰相の君担当の招祷人に叡効阿闍梨を付き添わしたところ、一晩中、叡効阿闍梨は大声を上げ続けて、声も涸れてしまった。御もののけを移らそうと呼び出した憑坐たちも、すべては移らないので大騒ぎしたことであった。

【一三 午後、安堵と男御子誕生の慶び】

 午の時刻に、空が晴れて朝日がさし出したような気持ちがする。御安産でいらっしゃるうれしさが類もないうえに、男御子でさえいらっしゃるお慶びは、どうして並一通りのことであろうか。昨日は心配で泣き濡れて過ごし、今朝のうちは、秋霧にむせび泣いていた女房などが、みなそれぞれ局に引き下がって休む。中宮様の御前には、年輩の女房たちで、このような折にふさわしい人たちが付き添う。

 殿も北の方様も、あちらのお部屋にお移りあそばして、ここ数か月来、御修法や読経に奉仕し、また昨日今日の呼び寄せに参集した僧侶たちに布施を賜い、医師や陰陽師などで、それぞれの方面で効験を現した者たちに、禄を賜わり、また一方、内部では御湯殿の儀式などを、前もって御準備をおさせになるのであろう。

 女房の部屋部屋では、見るからに大きな衣装袋や、いくつもの包を運び込む人たちが出入りし、唐衣の刺繍や、裳のひき結びの螺鈿や刺繍の飾りをあまりにと思われるまでして、またそれをひき隠したりして、「桧扇をまだ持って来ないですね」などと、女房どうしで言い交わしながら、化粧をし身づくろいをする。

【一四 外祖父道長の満足げな様子】

 いつものように、渡殿の部屋から寝殿の方を見やると、その妻戸の前に、中宮大夫藤原斉信や春宮大夫藤原懐平など、その他の上達部たちも大勢伺候していらっしゃる。

 殿がお出ましになって、この数日来、落ち葉などで被われていた遣水の手入れを命じさせなさる。殿上人たちの御様子も気分さげである。心の内には悩みがあるだろう人も、この時ばかりはそれを忘れてしまうほどの雰囲気である中でも、中宮大夫が、格別に得意げな笑みを浮かべていらっしゃるわけではないが、誰よりまさるうれしさが、自然と顔に現れているのがもっともである。右宰相中将兼隆は権中納言隆家と冗談を言い交わして、東の対の簀子に座っていらっしゃった。

【一五 内裏より御佩刀参る】

 内裏から御佩刀を持って参上した頭中将源頼定は、今日は伊勢神宮への奉幣使が出立する日なので、頼定は土御門殿邸から内裏に帰参した時に出産の触穢によって昇殿することはできないだろうから、殿は清涼殿の東庭に立ったままで、母子ともに御健康でいらっしゃることを奏上させなさる。禄なども賜わったが、そのことは見ていない。

 御臍の緒を切る役は殿の北の方である。御乳付け役は橘三位徳子である。御乳母は、以前からお仕えしていて、親しく気立ての良い人として、大左衛門のおもとがお就き申す。備中守橘道時朝臣の娘で、蔵人弁藤原広業の妻である。

【一六 御湯殿の儀式】

 御湯殿の儀式は酉の時であるとか。灯火をともして、中宮職の下級役人が、緑色の袍の上に下賜の白の袍を着てお湯をお運び申し上げる。その桶や据えた台などは、みな白い被いがしてある。尾張守藤原知光や、中宮職の侍長である身人部仲信がかついで、御簾の側まで運び参る。お水取り役の二人、清子命婦と播磨の君が、お湯を取り次いで、それに水を加えて湯加減を見ながら、女房二人、すなわち大木工の君と右馬の君が、お湯を御瓮の十六壺に順々に汲み込んで、余ったお湯は湯舟に入れる。女房たちは薄物の表着に、かとりの裳を付け、唐衣を着て、釵子を頭にさして、白い元結をしている。髪の様子が引き立って趣き深く見える。御湯殿の役は、宰相の君が、また御介添え役は、大納言の君源廉子が務める。二人は湯巻姿で、普段と違っていかにも風情がある。

 若宮は殿がお抱き申し上げなさって、御佩刀を小少将の君が持ち、虎の頭を宮の内侍が持って若宮のお先導を努める。宮の内侍の唐衣は松笠の紋様で、裳は海賦の刺繍を織り出して大海の摺目をかたどっている。腰の裳は薄物で唐草の刺繍がしてある。小少将の君の裳は、秋の草むらに蝶や鳥などの模様を銀糸で刺繍して輝いている。織物は身分上の制限があって、誰も思いのままにもいかなかったので、腰裳だけを通例のものには違えているようだ。

 殿の御子息お二人や源少将雅通などが、散米を大声してうち撒きして、自分こそ音高く鳴り響かそうと騒いで競争をする。浄土寺の僧都が護身の法を行うために伺候なさているが、その頭にも目にも当たりそうなので、それを避けようと扇をかざして、若き女房たちに笑われる。

 読書に奉仕する博士は蔵人弁藤原広業で、高欄の側に立って、『史記』の第一巻を読む。弦打ちは二十人で、五位が十人、六位が十人で、二列に立ち並んでいた。

 夕刻の御湯殿の儀といっても、形式的に繰り返して奉仕する。儀式は前と同じである。読書の博士だけが交替したのであろうか。伊勢守中原致時の博士であったとか。恒例によって『孝経』であろう。又大江挙周は『史記』文帝の巻を読むようであった。七日の間、この三人が交替でおこなった。

【一七 九月十二日、女房たちの服装】

 すべての物が一点の曇りもなく真白な中宮様の御前で、女房たちの容姿や容貌などまでが、はっきりと現れているのを見わたすと、まるで上手な墨絵に黒髮を描き生やしたように見える。ますますきまりが悪くて、まぶしい気持ちがするので、昼間はほとんど御前に顔も出さないでいる。のんびりとした気分で、東の対の各自の部屋から参上する上房たちを見みると、禁色を聴された女房は、織物の唐衣に、同じく白地の袿を着ているので、かえって一様に端麗に見えて、めいめいの趣向が分からない。禁色を聴されない女房でも、少し年のいった人は、はた目におかしなことはするまいと思って、ただ何とも美しい三重襲ね、あるいは五重襲ねの袿の上に、表着は織物で無紋の唐衣をきちんと着て、襲ねには綾や薄物を用いている人もいる。

 桧扇なども、見た目にはぎょうぎょうしく派手にはしないものの、風情あるさまにしてあった。祝意を表わした詩歌などを扇に書き付けたりして、それが申し合わせたように同じようなのも、各自思い思いのものをと思っていたが、年齢が同じくらいの者は同じようなものになってしまうのは、おかしなものだと扇を見比べていた。女房たちの思いの、人に負けまいとの様子がはっきりと見えたのであった。

 裳や唐衣の刺繍はいうまでもなく、袖口に装飾をし、裳の縫い目には銀の糸を伏せ縫いにして組紐のようにし、銀箔を飾って白綾の紋様を押し付け、桧扇の様子などは、まるで雪の深く積もった山を、月が明るく照らしわたしている感じがし、きらきらと輝いて眩しくて、はっきりそれと見わたされないで、ちょうど鏡を掛け並べてあるようだ。

【一八 九月十三日夜、三日の中宮職主催の御産養】

 御誕生三日目におなりあそばす夜は、中宮職の官人が中宮大夫を始めとして御産養に奉仕する。中宮大夫の右衛門督が中宮様の御祝膳の事にあたったが、沈の懸盤や白銀の御皿などについては、詳しくは見ていない。

 源中納言と藤宰相は若宮の御衣や御襁褓、衣筥の折立、入帷子、包み、覆い、下机など、通例のことで、同じ白一色であるが、その作り方に、女房たちは各自の趣向がうかがえて念入りになされていた。近江守源高雅は、その他全般的な事柄を担当したのだろうか。

 東の対の西の廂の間は上達部の座席で、北を上座として二列に並び、南の廂の間の殿上人の座席は西が上座である。白い綾の御屏風を、母屋の御簾に沿って、外向きに立て並べていた。

【一九 九月十五日夜、五日の道長主催の御産養】

 御誕生五日目の夜は、殿主催の御産養である。十五日の望月が曇りなく美しいので、池の汀近くに、いくつもの篝火を木の下に灯しながら、屯食などを立て並べてある。身分卑しい男たちが何やらしゃべりながら歩いている様子までが、晴れがましげな顔である。

 主殿寮の役人が立ち並んで松明を持っている様子もかいがいしく、昼のように明るいので、あちらこちらの岩の陰や木の下陰に参集しながら、上達部の随身たちなどのような者までが、めいめいが話し合っているらしいことは、このように世の中の光ともいうべき男御子が御誕生されたことを、陰ながら心待ちしていたことも、自分たちの力で願い事が叶ったような手柄顔をして、どこそことなくにっこりして、気持ちよさそうなことよ。ましてこの土御門殿邸の人たちは、ものの数にも入らない五位たちなども、どこそことなく腰もうちかがめて会釈しながら行ったり来たりして、忙しそうな格好をして、まさに慶時にめぐり合わせた顔つきである。

 中宮様に御膳を差し上げるということで、女房が八人、みな白一色の装束で、髪を上げ、白い元結をして、白銀の御盤を取り、一列になって参上する。今夜の御給仕役は、宮の内侍で、たいそう堂々として、きわだった美しい容姿、白の元結に一段と引き立つ美しい髪の垂れぐあいは、いつもよりも好ましい様子で、桧扇からこぼれて見える横顔などは、まことに美しゅうございましたわ。

 髪上げした女房は、源式部(加賀守源重文の娘)、小左衛門(故備中守橘道時の娘)、小兵衛(左京大夫源明理の娘と言った)、大輔(伊勢斎主大中臣輔親の娘)、大馬(左衛門大輔藤原頼信の娘)、小馬(左衛門佐高階道順の娘)、小兵部(蔵人である藤原庶政の娘)、小木工(木工允平文義と言います人の娘である)、容貌など美しい若い女房たちばかりで、向かい合って座って並んでいたのは、たいそう見ごたえがございました。

 いつもは、中宮様に御食膳を差し上げる際に、髪を上げることをするが、このような晴れがましい時なので、殿がしかるべき女房たちをお選びになったのに、つらい、大変だわと、嫌がって泣いたりなどして、不吉なまでに見えました。

 御帳台の東面の二間ほどに、三十人余り並んで座っていた女房たちの様子が見ものであった。威儀の御食膳は、采女たちが差し上げる。戸口の方に、御湯殿を隔てていくつも御屏風を並べ立て、また南向きにも立てて、白い御厨子一具に威儀の御食膳が置かれていた。

 夜が更けていくにつれて、月が曇りなく照らして、采女や水司、御髪上げの女房たち、主殿司や掃司の女官などは、顔も見知らない者もいる。[門+韋]司(みかどづかさ)などといった女官たちであろうか、粗雑に装束を付け化粧したりして、仰々しく挿した簪も、いかにも儀式ばった様子で、寝殿の東の渡廊や渡殿の戸口まで、隙間もなく無理に入り込んで座っていたので、誰も行き来することができない。

 御食膳を差し上げることがすっかり終わって、女房が御簾の側に出て来て座った。灯火の光に一面明るく見える中でも、大式部のおもとの裳や唐衣に、小塩山の小松原を刺繍した様子はたいそう趣がある。大式部は陸奥守の妻で、殿の宣旨の女房ですよ。大輔の命婦は、唐衣には何の趣向も凝らさず、裳を白銀の泥で、たいそうあざやかに大海の模様を摺り出しているのは、目立ったものではないが見た感じがよい。弁の内侍が、裳に銀泥の洲浜に鶴が立っている趣向は珍しい。裳の刺繍も、松が枝が鶴と長寿を競い合っている趣向は才気がある。少将のおもとが、これらの人たちには見劣りする白銀の箔押しなので、女房たちはつつき合って笑っている。少将のおもとという人は、信濃守藤原佐光の姉妹で、殿の古参の女房である。

 その夜の中宮様の御前の様子が、とても人にも見せたいくらい素晴らしいので、夜居の僧侶が伺候している御屏風を押し開けて、

 「この世では、このようにとてもめでたいことは、まだ御覧にならないでしょう。」

と、言いましたところ、

 「ああ、もったいない。ああ、もったいない。」

と本尊様をそっちのけにして、手を摺り合わせて喜んでおりました。

 上達部たちは席を立って、御橋の上においでになる。殿をお始めとして、皆で攤を打って興じなさる。高貴な方々の賭物の紙の争いは、とても見苦しい。その折、和歌などもある。

 「女房よ、盃を受けよ。」

などとある折に、どのように詠んだらいいでしょうなどと、めいめい作ってみる。

  若宮御誕生の祝宴の盃は
  手に持ちながら満月のように欠けることなく人々の手から手へと千年もめぐり続けるでしょう(五)

 「四条大納言に和歌をさし出すときは、和歌の出来はもちろんのこと、詠み上げる声の具合まで、気をくばるべきでしょう。」

などと言って、ひそひそと言い合っているうちに、何かとことが多くて、夜がたいそう更けてしまったからであろうか、特別に指名することもなくて御退出になる。禄などは、上達部には女の装束に若宮の御衣と御襁褓が加わっていたのであろうか。殿上人で四位の人へは、袷一襲と袴、五位の人へは袿一襲、六位の人へは袴一具と見えた。

【二〇 九月十六日夜、若い女房たちの舟遊び】

 翌日の夜、月がたいそう美しい。時候までが風情あるころなので、若い女房たちは舟に乗って遊ぶ。色とりどりの衣装を着ている普段よりも、皆同じ白一色に装束している容姿や髪の具合などが、はっきりと見える。

 小大輔の君や源式部の君、宮城の侍従の君、五節の弁の君、右近の君、小兵衛の君、小衛門の君、馬の君、やすらい、伊勢人などが、端近くに座っているのを、左宰相中将(源経房)と殿の中将の君(教通)がお誘い出しになって、右宰相中将(兼隆)に棹をささせて、池の舟に乗せなさる。一部の女房はするりと抜けて後に残ったが、やはり誘われた人たちをうらやましく思ったのであろうか、眺めやりながら座っていた。たいそう白い庭の上に、月の光が照り返して、舟中の人々の容姿や容貌も風情ある様子である。

 北の陣に牛車がたくさんとまっているというのは、主上付きの女房たちがお祝いに来た車なのであった。藤三位の君を始めとして、侍従の命婦の君、藤少将の命婦の君、馬の命婦の君、左近の命婦の君、筑前の命婦の君、少輔の命婦の君、近江の命婦の君などであると聞きました。詳しくは見知らない人びとなので、間違いがあるかも知れません。

 舟に乗っていた女房たちもあわてて室内に入った。殿がお出ましになって、何のくったくもない御機嫌で、主上付きの女房たちを歓待し冗談をおっしゃたりなさる。贈物など、身分に応じてお与えになる。

【二一 九月十七日夜、朝廷主催の御産養】

 御誕生七日目の夜は、朝廷主催の御産養である。蔵人少将藤原道雅を勅使として、御下賜の品々を書きたる目録を柳筥に入れて参上した。中宮様は目を通されるとそのまま中宮職の役人にお返しになる。勧学院の学生たちが行列を作ってお祝いに参上したが、その参上者の名簿を中宮様に御覧に入れる。それもお目を通されて職の役人にお返しになる。禄などもお与えになったようだ。今夜の儀式は、格別に一段と盛大で仰々しく騒ぎ立てている。

 御帳台の内側をおのぞき申したところ、このように国母として持ち上げられなさるが、御機嫌の良い様子にもお見えあそばさず、すこし苦しそうで面やせなさって休んでいらっしゃる御様子は、普段よりも弱々しそうで若く可愛らしげである。小さい灯籠を御帳台の内側に掛けていたので、隅々まで明るいので、ただでさえ美しいお顔が、どこまでも清らかに美しいうえに、たくさんあるお髪は結い上げなさると一段とお見事になるものだなあと思われる。口に出して申し上げるのも今さらめいているので、これ以上書き続けることは致しません。

 大体の儀式の内容は、先夜と同様の事である。上達部への禄は、御簾の内側から、女装束と若宮の御衣などを添えて差し出す。殿上人と蔵人頭の二人を始めとする禄は、順次側に寄って受け取る。朝廷からの禄は、大袿や衾、腰差などで、いつもの公的なもののようである。御乳付け役をご奉仕申した橘三位への贈物は、いつもの女の装束に、織物の細長を添えて、白銀の衣筥、包なども同じく白いものであったか。また包んだ品物を添えて賜ったなどと後から聞きました。詳しくは見ておりません。

 八日目の日には、女房たちは色とりどりの装束に着替えていた。

【二二 九月十九日夜、春宮権大夫頼通主催の御産養】

 九日目の夜は、春宮権大夫が御産養を奉仕なさる。白い御厨子一具にお祝の品々が載せてあった。その儀式はまことに格別で今風である。白銀の御衣筥は、海の模様をうち出してあり、蓬莱山の図柄などは常のことであるが、今風で精巧にできており興趣あるが、一つひとつ取り上げては、言葉で言い表せないのが残念なことだ。

 今夜は、表面に朽木形の模様のある几帳を普段と同じようにして、女房たちは濃い紅の打衣を上に着ている。目新しくて、奥ゆかしく優美に見える。透けて見える唐衣などの下から、打衣がつややかに一面に見えるが、また女房たちの姿の個性もはっきりと見られるのであった。こまのおもとという人が宴席で恥をかいた夜である。

《第二章 寛弘五年(一〇〇八)冬の記》
【一 道長、初孫を抱く】

 十月十日過ぎまでも、中宮様は御帳台からお出でましにならない。わたしたちは東の母屋の西側の御座所の側に夜も昼も伺候している。殿が、夜中にも早朝にも参上なさっては、乳母の懐にいる若宮を探していらっしゃるが、乳母が気をゆるして眠っているときなどは、無心に眠っていてはっと目を覚ますなども、とても気の毒に見える。まだ何もお分かりでないころなのに、ご自分だけは良い気持ちになって抱き上げて可愛がりなさるのも、ごもっともなことで素晴らしい。

 ある時には、若宮が困ったことをおしかけなさったのを、殿は直衣の紐を解いて、御几帳の後ろで火にあぶってお乾かしになる。

 「ああ、若宮の御尿に濡れるのは、うれしいことだなあ。この濡れたのをあぶっていると、思いが叶った気分になることだ。」

と言って、お喜びなさる。殿は中務宮具平親王家の御事について御熱心で、わたしをその宮家に縁故のある者とお思いになって、親しく話し掛けてくださるのも、ほんとうは心中では思案にくれることが多かった。

【二 土御門殿邸への行幸近づく】

 行幸が近くなったということで、殿は邸内をますます手入れさせ立派にさせなさる。世にも美しい菊の根株を探しては掘り出して持ってくる。色とりどりに色変わりしているのも、また黄色であるのが見どころあるのも、さまざまに植えてあるのも、朝霧の絶え間から見わたされるのは、なるほど老いも取り除ける心地がするので、どうしてか、まして悩みごとがすこしでも普通の人程度であったならば、一緒に風流めかして若やいで振る舞って、無常の世をも過ごすことができようものを、おめでたいことや興趣あることを見たり聞いたりすることにつけても、ただ心に掛けてきた方面の事柄に心ひかれることばかりが強くて憂鬱なので、思いの外に嘆かわしいことが多くなるのが、とても苦しいのだ。何とかして今はやはりすべて忘れてしまおう、考えても意味がないし、罪障も深いことだなどと、夜が明ければぼおっと物思いに耽って、池の水鳥たちが何の思い悩むこともなさそうに遊びあっているのを見る。

  あの水鳥たちをただ水の上で遊んでいる鳥だと他人事と思われようか
  わたしも同じように浮いたような嫌な人生を過ごしているのだから(六)

 あの水鳥たちもあれほど満足げに遊んでいると見えても、内心ではとても苦しいのだろうと、ついわが身に思いひき比べられてしまう。

【三 時雨れのころ 小少将の君と文通】

 小少将の君が手紙をおよこしになった返事を書いていると、時雨がさっと降ってきて空も暗くなったので、使者も返事を催促する。

 「わたし同様に空の状態も気分が落ち着かない様子でして。」

と書いて、拙い歌を書き添えたのであろうか。暗くなったころに、折り返し、たいそう濃くぼかした紫色の紙に、

  絶え間なく物思いに耽って眺めている空も曇ってきて雨が降り出しました
  時雨は何を恋い忍んで降るのでしょう、実はあなたを思ってなのですよ(七)

 書き贈った歌も思い出せず、

  季節どおりに降る時雨れの空には雲間もあるが
  物思いに耽っているわたしは袖の乾く間もありません(八)

【四 十月十六日 土御門殿邸行幸の日】

 行幸の当日、殿は新しく造られた二艘の舟を池辺に漕ぎ寄せて御覧になる。龍頭や鷁首の生きた姿が想像されて、際立って美しい。行幸は辰の時(午前八時頃)ということで、まだ早朝から女房たちは化粧をし準備をする。上達部の御座席は西の対なので、こちらの東の対はいつものように騒がしくはない。内侍督の御殿では、女房たちの衣装などが、かえってこちら以上にたいそう念入りに支度なさると聞く。

 早朝に小少将の君が里から帰参なさった。一緒に髪を梳ったりなどする。例によって、辰の時とはいっても日中になってしまうだろうと、わたしたちの怠け心はついのんびりして、桧扇がたいそう平凡なので、他の人に言って持って来てもらおうと待っているうちに、合図の鼓の音を聞きつけて急いで参上するが、その体裁の悪いこと。

 御輿をお迎え申し上げる船楽がたいそう興趣深い。御輿を階に寄せるのを見ると、駕輿丁があのような卑しい身分ながら、階から担ぎ昇って、たいそう苦しそうに伏せっている姿は、何の違いがあろうか、高貴な人々に交じっての宮仕えも身分には限度があることだから、ほんとうに安らかな気持ちがしないことだ思いながら見ている。

 御帳台の西面に帝の御座所を設けて、南廂の東の間に御椅子を立ててあるが、そこから一間を隔てて、東に当たる境に北と南との端に御簾を掛けて仕切って、女房たちが控えているが、その南の柱のもとから簾をすこし引き上げて、内侍が二人出て来る。

 その日の髪上げした端麗な姿は、唐絵に美しく描いたようである。左衛門の内侍が御剣を捧持する。青色の無紋の唐衣で、裾濃の裳を付け、領巾や裙帯は浮線綾を櫨[糸+炎](はじだん)に染めていた。上着は菊の五重襲に、掻練は紅色で、姿形や振る舞いに、扇からすこし外れて見える横顔は明るく清楚である。

 弁の内侍は御璽の御筥を捧持する。紅の掻練に葡萄染めの織物の袿、裳と唐衣は、前の左衛門の内侍と同じである。とても小柄で美しい人が、恥ずかしそうにやや固くなっているのが気の毒そうに見えた。桧扇を始めとして、趣向が左衛門の内侍よりまさっているように見える。領巾は楝[糸+炎](おうちだん)である。夢のやうにうねり歩くさまや衣装は、昔天降ったという天女の姿もこんなであったろうかとまで思われる。

 近衛司の役人がたいそう似つかわしい服装をして、御輿のことなどに奉仕しているが、とてもまぶしい。藤中将兼隆が御剣などを受け取って、左衛門の内侍に伝え渡す。

【五 行幸当日の女房たちの装束】

 御簾の中を見わたすと、禁色を聴された女房たちは、いつものように青色や赤色の唐衣に地摺の裳を付け、上着はみな一様に蘇芳色の織物である。ただ馬の中将の君だけは葡萄染めの上着を着ておりました。打衣などは、濃いあるいは薄い紅葉を取り混ぜたようにして、内側に着ている袿などは、いつもの梔子襲の濃いあるいは薄いのや、紫苑色や、裏を青にした菊襲を、もしくは三重襲など、それぞれ思い思いである。

 綾織物を聴されていない女房で、例の年輩の女房たちは、無紋の青色、もしくは蘇芳色など、みな五重襲で、ふせの襲ねなどはみな綾織である。大海の摺模様の裳の水色は、華やかでくっきりとして、裳の腰などは固紋を多くの人はしていた。袿は菊の三重五重襲で、織物は用いていない。若い女房は、菊の五重襲の袿の上に唐衣を思い思いに着ていた。ふきの襲の表は白色で、青色の上を蘇芳色にして、下の単衣は青色の者もいる。また表は薄蘇芳色で、次々と下に濃い蘇芳色を着て、その下に白色を混ぜているのも、総じて配色に趣きがあるのだけが才気が見える。何とも言いようもなく珍しく、仰々しい桧扇などが見える。

 くつろいでいる時は、整っていない容貌の人が混じっているのも見分けられるが、皆が一生懸命に着飾り化粧して、人に負けまいと競い合っているのは、女絵の美しいのにたいそうよく似て、年齢の具合が年輩者とごく若い者との違いだけが、髪がすこし衰えている様子やまだ盛りでたくさんある違いぐらいが見わたされる。それによって、桧扇の上から現れている額つきが、妙に人の容貌を上品にも下品にもして見せるもののようである。このような中にあって優れていると見えるのはこの上なく美しい人なのであろう。

 行幸の前から、主上付きの女房で、中宮様付きも兼ねて仕えている五人は、こちらに参集して伺候している。内侍が二人、命婦が二人、御給仕役が一人である。主上に御膳物を差し上げるということで、筑前の命婦と左京の命婦が、一髻の髪上げをして、内侍が出入りする隅の柱のもとから出て来る。これはちょっとした天女である。左京の命婦は青色の柳襲の上に無紋の唐衣、筑前の命婦は菊の五重襲の上に唐衣で、裳は例によって共に摺裳である。御給仕役は、橘三位徳子である。青色の唐衣に、唐綾の黄菊襲の袿が表着のようである。この人も一髻を髪上げしていた。柱の陰のために十分には見えない。

 殿が若宮をお抱き申し上げなさって、御前にお連れ申し上げなさる。主上がお抱き取りになる時に、若宮のすこしお泣きなさるお声がとても可愛いらしい。弁宰相の君が若宮の御佩刀を捧持して伺候している。母屋の中戸から西の方の、殿の北の方がいらっしゃる方に、若宮はお連れ申し上げなさる。主上が御簾の外にお出ましになってから、宰相の君はこちらに戻って、

 「とても目立ってしまって、きまりの悪いをしました。」

と言って、ほんとうに頬を赤らめて座っている顔は、端正で美しい感じがする。衣装の色合いも、他の人よりは一段と引き立って着こなしていらっしゃった。

【六 御前の管弦・舞楽の御遊】

 日が暮れてゆくにつれて、いろいろな楽の音がとても興趣深い。上達部が帝の御前に伺候なさっている。万歳楽や太平楽、賀殿などという舞なども、長慶子を退出音声として演奏して、楽船が築山の向こうの水路を漕ぎめぐって行く時、遠くへ行くにつれて、笛の音も鼓の音も、それに松風も木立の奥から吹き合わせて、たいそう素晴らしい。

 とてもよく手入れされた遣水がさらさらと流れて、池の水波がさざなみを作り、何となく肌寒いのに、主上は御袙をただ二枚だけをお召しになっている。左京の命婦は自分が寒いものだから、帝にご御同情申し上げているのを、女房たちはひそひそと笑う。筑前の命婦は、

 「亡き女院(詮子)様がご在世中でした時、この邸への行幸は、とても度々あったことでした。その折は……、かの折は……。」

などと、思い出して言うのを、縁起でもない涙を流すことにもなってしまいそうなので、厄介なことだと思って、ことさらに相手にせず、几帳を隔てているようである。

 「ああ、その時はどんなだったのしょうか。」

などとでも言う人がいたならば、ほろりと泣き出してしまいそうである。

 帝の御前における管弦の御遊が始まって、たいそう興趣深い時分に、若宮の泣き声が可愛らしく聞こえなさる。右大臣(藤原顕光)が、

 「万歳楽が、若宮のお声によく合って聞こえます。」

と言って、お褒め申し上げなさる。左衛門督などは、

 「万歳、千秋」

と声を合わせて朗詠して、ご主人の大殿は、

 「ああ、これまでの行幸を、どうして名誉なことだと思っていたのであろうか。こんなにもめでたく素晴らしい行幸もあったのに。」

と、酔い泣きなさる。いうまでもないことだが、ご自身でもお感じ入っている様子が、まことに素晴らしいことであった。

 殿は、あちら(西の対)へお出ましになる。主上は御簾の内側にお入りあそばして、右大臣を御前に呼び寄せて、筆をとってお書きになる。中宮職の役人や、殿の家司のしかるべき者すべてに、位階を上げる。頭弁に命じて加階の手続きは奏上させなさるようだ。

 新たな若宮の親王宣下の慶祝のために、藤原氏の上達部たちが連れ立って、お祝いの拝礼をなさる。同じ藤原であるが門流の分かれた人たちは、その列にお加わりにならなかった。次に、親王家の別当になった右衛門督は、中宮大夫ですよ、中宮権亮は、加階した侍従の宰相で、続いて次々の人びとが、お礼の拝舞をする。

 帝は中宮様の御帳台にお入りになって、間もないうちに、

 「夜がたいそう更けました。御輿を寄せます。」

と、大声で言うので、帝は御帳台からお出ましになった。

【七 十月十七日 行幸翌日の中宮の御前】

 翌日の朝に、内裏からの勅使が朝霧もまだ晴れないうちに参上した。寝過ごして見ないで終わってしまった。今日、初めて若宮のお髪を剃り申し上げなさる。特に行幸の後にということでこうした。

 また一方、その日に若宮家の家司の別当や侍人などの職員が決まった。前もって聞いていないで、悔しいことが多かった。

 日ごろの中宮様の部屋のしつらいは、普段と違って質素にしていたが、平常に改まって、御前の様子はとても素晴らしい。何年もの間、待ち遠しくお思いになっていた若宮誕生が叶って、夜が明けると殿の北の方も参上なさって、若宮をお世話申し上げなさる、その華やかさはとても格別である。

【八 宰相の君たちと月を眺める】

 日が暮れて月がたいそう美しい時分に、中宮亮が女房に会って、特別な加階のお礼を啓上してもらおうとでもいうのであろうか、妻戸のあたりも御湯殿の湯気に濡れて、女房のいる物音もしなかったので、こちらの渡殿の東の端にいる宮の内侍の部屋に立ち寄って、

 「こちらでしょうか。」

と伺いなさる。宰相(中宮亮)は、また中の間に寄って、まだ鈎を鎖さない格子の上を押し上げて、

 「いらっしゃいますか。」

などと言うが、返事をしないでいると、中宮大夫が、

 「こちらでしょうか。」

とおっしゃるのに対してさえ、聞こえぬふりをしているのも仰々しいようなので、ちょっとした返事などをする。二人ともまことに満足のいったご様子である。

 「わたしへのお返事はしないで、中宮大夫を特別にお扱い申し上げる。もっともであるが感心しない。このような所で、上下の身分の差をひどく区別するなんて。」

と非難なさる。

 「今日の尊とさ」

などと、催馬楽を声美しく謡う。

 夜が更けて行くにつれて、月がとても明るい。

 「格子の下半分を取り外しなさいよ。」

と要めなさるが、ひどく品格を下げて上達部が入り込むようなのも、このような里第とは言いながらも、やはり見苦しいし、若い女房ならば、物事の分別を知らないように戯れるのも大目に見られようが、どうしてそんなふざけたことができようかと思うと、格子を外さない。

【九 十一月一日 誕生五十日の祝儀】

 若宮のご誕生五十日の祝いは、霜月一日の日である。例のごとく女房たちが着飾って参集している中宮様の御前の様子は、絵に描いた物合せの場面に大変によく似ておりました。

 御帳台の東の御座所の際に、御几帳を奥の御障子から廂の間の柱まで隙もなく立て続けて、南面の廂の間に中宮様と若宮の御膳はお供えしてあった。その西側寄りに中宮様の御膳は例によって沈の折敷に何とかの台であったろう。そちらのことは見ていない。

 お給仕役の宰相の君讃岐で、取り次ぎ役の女房も、釵子や元結などをしていた。若宮のお給仕役は大納言の君で、東側寄りにお供えしてあった。小さい御膳台やお皿など、御箸の台や洲浜なども、まるで雛遊びの道具のように見える。そこから東の間の廂の御簾をすこし巻き上げて、弁の内侍や中務の命婦、小中将の君など、しかるべき女房だけが、順次取り次ぎながら差し上げる。奥の方にいたので、詳しくは見ておりません。

 今夜、少輔の乳母が禁色を聴される。おっとりした様子をしていた。若宮をお抱き申して、御帳台の中で、殿の北の方がお抱き取り申し上げられて、膝行しながら出ていらっしゃる灯火に照らされたお姿は、まことに立派な感じである。赤色の唐衣に、地摺の御裳を付け、きちんとお召しになっているのも、もったいなくも素晴らしくも見える。中宮様は葡萄染めの五重襲の袿に、蘇芳の御小袿をお召しになっている。殿がお餅は差し上げなさる。

 上達部のお座席は、例によって東の対の西の廂の間である。もうお二方の大臣も参上なさった。渡殿の橋の上に参って、また酔い乱れて大声を出しなさる。折櫃に入れた物や、いくつもの籠に入れた物などを、殿の所から、家司たちが次々と運んできて、高欄に沿って並べて置いてあった。松明の明かりが心もとないので、四位少将などを呼び寄せて、紙燭をささせて、人びとはそれらを見る。内裏の台盤所に持参すべきものだが、明日からは御物忌みということで、今夜みな急いで取り片付けた。

 中宮大夫が、御簾のもとに参って、

 「上達部を、御前に召しましょう。」

と啓上なさる。

 「お聞きとどけになりました。」

と、取り次ぎの女房が言うので、殿をお始め申して、みな参上なさる。正面の階の東の間を上座として、東の妻戸の前までお座りになっていた。女房たちが、二列あるいは三列ずつにずらりと座って、御簾などを、その間にあたりに座っていらっしゃる女房たちが、寄り合って巻き上げなさる。

 大納言の君や宰相の君、小少将の君、宮の内侍という順に座っていらっしゃると、右大臣が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れなさる。

 「いいお年をして。」

と非難しているのも知らずに、女房の扇を取って、みっともない冗談をたくさん言っていた。中宮大夫が、盃を取りて、右大臣の方へお出になった。催馬楽の「美濃山」を謡って、管弦の御遊も形ばかりだがたいそう興趣ある。

 その次の間の東の柱もとに、右大将(実資)が寄り掛かって、女房の衣の褄や袖口を数えていらっしゃる様子は、誰よりも格別である。酔い乱れた席であることをよいことにして、また誰であるかも分かるまいと思いまして、右大将にちょっと言葉をかけてみると、ひどく今風にしゃれた人よりも、実にたいそう立派な方でいらっしゃるようであった。盃が順に廻って来るのを、右大将は恐れていらっしゃるが、例によって無難な「千年も万代も」の祝い文句で済ました。

 左衛門督(公任)が、

 「失礼ですが、この辺に若紫さんはおりませんか。」

と、お探しになる。光源氏に似ていそうな人もお見えにならないのに、あの紫の上が、どうしてここにいらっしゃろうかと、聞き流していた。

 「三位の亮(実成)、盃を受けよ。」

などと、殿がおっしゃるので、侍従宰相(三位亮)は立ち上って、父の内大臣(公季)がいらっしゃるので、下手から出て来たのを見て、内大臣は感激のあまり酔い泣きなさる。権中納言(隆家)が、隅の間の柱もとに寄って、兵部のおもとの袖を無理やり引っ張って、聞くに耐えない冗談を言っているのに、殿は何ともおっしゃらない。

【一〇 五十日祝いの夜の酒宴】

 何か恐ろしいことになりそうな今夜のご酔態ぶりだと見てとって、祝宴が終わるとすぐに、宰相の君と示し合わせて、どこかに隠れようとすると、東面の間に殿の御子息たちや宰相中将など入って来て、騒がしいので、二人とも御帳の後ろに隠れていたのを、殿は、それをお取り払いになって、二人とも捕まえ側に座らせなさった。

 「和歌を一首お詠みいたせ。そうすれば許そう。」

とおっしゃる。とても困ってまた恐ろしいので、お詠み申し上げる。

  いったいいかように数えあげたらよいのでしょう幾千年もの
  あまりにも久しい若宮様のお齢を(九)

 「ああ、よく詠んだものよ。」

と、二度ほど声に出して詠みなさって、とても早くお詠みになった、殿の歌、

  わたしにも千年の寿命を保つ鶴ほどの齢があったならば、若宮の御代の
  千年の数もかぞえとることができるだろうよ(一○)

 あれほど酔っていらっしゃる御心地でも、お心に掛けていらっしゃることの趣旨なので、まことにご立派なのも、もっともなことである。なるほどこのように若宮を大切にお扱い申していらっしゃるからこそ、すべての栄光もおまさりになるのであろう。千年でもまだ満足できそうにない御将来が、わたしのような人数に入らない気持ちでさえ思い続けられる。

 「中宮様よ、お聞きあそばしましたか。よくお詠み申しました。」

と、ご自賛なさって、

 「中宮の御父君として、わたしは悪くはありませんし、またわたしの娘君として中宮も悪くはいらっしゃいません。母君もまた幸運であると思って、笑っていらっしゃるようだ。良い夫君を持ったことだと、思っているであろう。」

と、ご冗談を申し上げなさるのも、この上ない御酔態によるしわざであると見える。それほどの御酔態でもないので、中宮様は落ち着かない気持ちはしながらも素晴らしいとばかり聞いていらっしゃる。殿の北の方は、聞きにくいとお思いになってであろうか、お渡りになろうとする様子なので、殿は、

 「お見送りをしないと言って、母はお恨みなさるでしょう。」

とおっしゃって、急いで御帳台の中をお通り抜けなさる。

 「中宮様は失礼なとお思いになるでしょう。親がいればこそ子も立派というものです。」

と、殿がつぶやきなさるのを、女房たちはお笑い申し上げる。

【一一 内裏還御の準備 御冊子作り】

 中宮様が内裏に還御なさるはずのことも近づいたが、女房たちは行事が次ぐ次と続きのんびりとしていられないのに、中宮様には物語の御冊子をお作りになろうということで、夜が明けると、まっさきに御前に伺候して、色とりどりの紙を選び調えて、それに物語の元本を添えては、あちこちに清書を依頼する手紙を書いて配る。その一方では清書された物語を綴じ集めて製本するのを仕事として毎日を過ごす。

 「どうして子持ちの方が、こんな冷たい時分に、このようなことをなさいますか。」

と、殿は申し上げなさるものの、上等の薄様の紙や筆、墨などを持っていらっしゃっては、さらに御硯までを持っていらっしゃったのを、中宮様がわたしにお与えになったので、殿はそのことを大袈裟に惜しがりなさって、

 「奥まったところに隠れて伺候して、このようなことをしている。」

とおっしゃって責める。けれども、上等な墨挟みや墨、筆などを下さった。

 自分の局に源氏物語の草稿本などを取りにやって隠して置いたのを、わたしが中宮様の所にいる間に、殿がこっそりいらっしゃって、お探しになって、それらをすべて内侍督研子様に差し上げておしまいになった。まずまずに書き直したのは既にみな分散してしまったし、手直ししてない本が研子様に差し上げられて、きっと気掛かりでならない悪い評判を取ったことでございましょうよ。

 若宮は片言のおしゃべりなどをなさる。主上におかれても待ち遠しくお思いになられるのも、ごもっともなことである。

【一二 里下がりしての述懐】

 土御門邸の庭の池に、水鳥たちが日々に多くなって行くのを見ながら、「ご還御なさらない前に雪が降ってほしいなあ。このお庭先の様子は、どんなに趣きのあることであろうか」と思っているときに、ちょっと里に退出した間に、二日ほどしてなんと雪が降るではないか。見所もない実家の庭の木立ちを見るにつけても、なんとも気がふさぎ込んで思い乱れて、長年所在ないままに物思いしながら日を明かし暮らしながら、花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと意識する程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもないものの、一方でとりとめもないわたしの源氏物語などについて、話を交わす人の中で、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙を書き交わし、少し疎遠な縁故を頼ってでも文通したものだが、ただこの物語についてさまざまに応答しあい、とりとめのない話に無聊を慰めながら、わたしなどこの世に生きている価値のある人だとも思わないものの、さしあたっては恥ずかしい、つらいと思い知らされることだけは逃れて来たのだが、宮仕えする身となって、こんなにまで、恥ずかしい、つらいという思いのありったけを思い知るとは、なんとも辛い身であることよ。

 ためしに物語を手に取って見ても、かつてのような感興も起こらず、興醒めがして、かつて親しかった人で物語について語り合った人でも、今ではわたしをどんなに臆面なく思慮の浅いものよと軽蔑していることだろうかと、推量すると、それだけでさえとても恥ずかしくて、手紙をやることもできない。奥ゆかしくありたいと思っている人は、いい加減な宮仕えしていては手紙をとり散らすだろうなどと、きっと疑うにちがいないので、どうして、わたしの心のうちの、あるさまをも、深く推察してくれようかと、それも道理なので、まことに意味ないことなので、仲が絶えるというのではないが、自然と手紙を書き交わさなくなった人も大勢いる。わたしの居所も定まらなくなったと想像しては、訪れて来る人も難しくなってきたりして、万事ちょっとしたことにつけても、別世界に来たような心地がして、実家に帰って一層強く感じられ、しみじみと悲しいのだった。

 今はただ宮仕え上、やむをえず話を交わし、わずかに心にとめて思う人や、情愛こまやかに言葉を交わしあう人、仕事上の自然と親しく相談する人だけが、わずかに懐かしく思われるのは、何とも頼りないことよ。

 大納言の君が、毎夜、中宮様のお側近くにお休みになりながら、お話してくださった様子が恋しく思われるのも、やはり世間の習わしに順応した心であろうか。

  ご一緒に仮寝をした宮仕え生活が恋しく思い出されて
  独り寝の夜の冷たさは霜の置く鴨の上毛にも劣りません(一一)

 大納言の君の返歌、

  鴨の上毛に置く霜を互いに払う友もいないころの夜半の寝覚めには
  いつも一緒にいた鴛鴦のようにあなたのことが恋しく思われてなりません(一二)

 書き様などまでがまことに興趣深いのを、ほんとうに申し分のない方でいらっしゃるなあと思って見る。

 「中宮様が雪を御覧になって、よりによってあなたが里に退出したことを、ひどく残念がっていらっしゃいます。」

と、他の女房たちも手紙でおっしゃっていた。殿の北の方からのお手紙には、

 「わたしが引き止めた里下がりなので、格別に急いで退出して、『早く帰参します』と言ったのも嘘で、長く里にいるようですね。」

と、おっしゃっているので、たとい冗談にしても、早く帰参しますと申し上げており、手紙も頂戴したことなので、恐れ多くて帰参した。

【一三 十一月十七日、中宮還御】

 宮中へ還御される日は十七日である。戌の時(午後八時頃)などと聞いたが、だんだんと夜が更けてしまった。みな髪上げをしいしい控えていた女房たち三十人余りは、その顔などは見分けがつかない。母屋の東面の間や東の廂の間に内裏の女房たちも十人余りが、南の廂の間の妻戸を隔てて控えていた。

 中宮様の御輿には宮の宣旨が一緒に乗る。糸毛の御車に殿の北の方と少輔の乳母が若宮をお抱き申して乗る。大納言の君と宰相の君は黄金造りの車に、次の車には小少将の君と宮の内侍、次の車にわたしが馬の中将の君と乗ったのを、馬の中将の君が嫌な人と乗り合わせたと思っているのは、まあ何と大袈裟なことかと、ますますこのような宮仕えが鬱陶しく思われました。殿司の侍従の君と弁の内侍、次に左衛門の内侍と殿の宣旨の式部とまでは乗車順が決まっていて、以下は例によって思い思いに乗ったのだった。

 月が明るく照っているので、ひどくきまりの悪いことだと思いながら、足も地に着かない感じである。馬の中将の君を先に立てて歩かせたので、どこへ行くのかも分からない足取りで付いて行くのは、わたしの後ろ姿を見る人はどう思うかと、ほんとうに恥ずかしく思い知られた。

 細殿の三の口から局に入って臥せっていると、小少将の君もいらっしゃって、やはりこのような宮仕え生活のつらいことを語り合いながら、寒さでこわばった衣類などを脱いで隅へ押しやり、厚ぼったい衣装を着重ねて、香炉に火を熾して、身体もすっかり冷えきってしまったわと、体裁の悪いことを言っているところに、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将などが、次々と立ち寄っては挨拶するのも、かえって煩わしい。今夜はいない者と思われて過ごしたい思っているのに、誰かにお聞きになったのであろう。

 「明朝早く参上いたしましょう。今夜はがまんできないほど、寒さで身もすくんでおりますから。」

などと、当たり障りのない挨拶をしながら、こちらの詰所の方から出て行く。それぞれが家路へと急ぐのも、どれほどの家人が待っているというのかと思いながら送る。わが身の上に引き寄せて言うのではありません、世間一般の様子で、小少将の君が、とても上品で美しい様子で、世の中をつらいと思いつめていらっしゃるのを見ているからです。父君から不幸が始まって、その人柄のわりには幸せがひどく薄くいらっしゃっるようなのですよ。

【一四 中宮還御の翌日、道長から中宮への贈物】

 昨夜の殿からの御贈物を、中宮様は今朝つぶさに御覧になる。御櫛箱の内の道具類などは、何とも言い表わしようがなく素晴らしい。手箱が一対あって、その一方には白い色紙を綴じて作ったお冊子本など、『古今集』、『後撰集』、『拾遺抄』、その歌集類はそれぞれ五帖ずつに仕立てられ、侍従の中納言(行成その時は左大弁)と、源延幹とに、それぞれ冊子一帖に対し四巻を割り当ててお書かせになっていた。表紙は羅、紐も同じ唐の組紐で、懸子の上段に入れてある。下段には大中臣能宣や清原元輔のような、今や昔の歌詠みたちの家々の集を書写して入れていた。源延幹と近澄の君とが書写したのは、もとより素晴らしいもので、これらはただ身近においてお使いになるべきものとして、見たこともないようなみごとな装丁がなされているのは、当世風で様子が格別である。

【一五 十一月二十日丑の日、五節の舞姫、帳台の試み】

 五節の舞姫は二十日に参入する。中宮様は侍従の宰相に舞姫の装束などをお与えになる。右の宰相中将が五節の舞姫に日陰の鬘のご下賜をお願い申し上げたのを、中宮様からお与えになる折に、箱一具に薫物を入れて、心葉として、梅の枝を作って、張り合うようにして差し上げた。

 急に準備する例年よりも一段と競い合っているという評判なので、東の対の御座所の向かいにある立蔀に、隙間もなくずらりと並べともしている灯火が、昼よりも明るくきまりが悪いほどなので、舞姫が歩いて入って来る様子なども、驚くほど平然としていることよ、とばかり思われるが、他人の身の上とばかりも思われない。ただかのように、殿上人が直接顔を合わせたり、紙燭で照らし出されないだけだ。幔幕をひいて、人目を遮っているとしても、大体の様子は、同じように見えるだろうと思い出すにつけても、まずは胸のふさがる思いがする。

 高階業遠朝臣の舞姫の介添役は、錦の唐衣で、闇の夜でも他のものと紛れず、珍しく立派に見える。衣装を幾重にも重ね着して、身動きも不自由に見える。殿上人が、格別に世話をしている。こちらに主上もお渡りあそばして御覧になる。殿もこっそりと遣戸から北側の方にいらっしゃっているので、気ままにもできず煩わしい。

 藤原中清の舞姫の介添役は、「背丈が同じくらいに揃っていて、とても優雅に奥ゆかしい感じは、他の舞姫に勝るとも劣らない」と評定される。右の宰相の中将の舞姫の介添役は、できることはみな準備していた。樋洗童の二人のきちんと身繕いした様子が鄙びていると、人びとはほほ笑んで見ているようであった。最後に、藤宰相の舞姫の介添役は、思いなしか当世風で格別である。介添役が十人いる。孫廂の御簾を下ろして、こぼれ出ている衣装の褄なども、得意顔に思って見せている様子よりは、一段と見栄えがして、灯火の光の中に見わたされる。

【一六 二十一日寅の日、五節の舞姫、御前の試み】

 寅の日の朝、殿上人が参上する。例年のことだが、ここ数か月の間に里住まいに慣れてしまったものか、若い女房たちはそれを珍しく思っている様子である。それにしては、青摺の衣装も見えないことだ。

 その夜に、中宮様は春宮の亮をお召しになって、薫物を賜る。大きめの箱一つに、高く盛ってお入れになっていた。尾張守へは、殿の北の方がお与えになった。その夜は帝御前の試みとかで、中宮様は中(清涼)殿にお渡りあそばして御覧になる。若宮がいらっしゃるので、散米をして大声を上げる。例年と異なった気持ちがする。

 何となく気が進まないので少しの間休んで、状況に従って参上しようと思っていたところ、小兵衛の君や小兵部の君なども、炭櫃の側に座って、

 「とても狭いので、思うようにも見えません。」

などと言っているところに、殿がおいでになって、

 「どうして、かうして見ないで過ごしているのですか。さあ、一緒に。」

と、せき立てさせなさるので、不本意ながら参上した。舞姫たちが、どんなに辛いだろうかと思って見ていると、尾張守の舞姫が、気分を悪がって下がっていくのが、まるで夢のように見えることよ。御前の試みの儀が終わって、中宮様はお下がりあそばした。

 この時分の公達は、もっぱら五節所の興趣深かったことを話題にしている。

 「簾の端の、帽額までがそれぞれに趣向が変わっていて、出仕している介添役の女房たちの髪の具合や、立ち居振る舞いなどまでが、全然違っていて、それぞれに趣がある。」

と、聞きにくいことを話している。

【一七 二十二日卯の日、五節の舞姫、童女御覧】

 このように舞姫が美しさを競い合わないような年でさえ、帝の童女御覧の日の童女たちの気持ちは、並大抵の気持ちではないのに、まして今年はどんなであろうなどと、気にかかって早く見たいと思っていると、介添え役の女房たちと並んで次々と歩み出て来た様子には、無性に胸がしめつけられて、気の毒な感じがする。とはいえ、特別に深く好意を寄せなければならない人もいないのであった。われもわれもと、あれほど人びとが思ってさし出した童女たちであるからか、目移りがして、優劣のけじめもはっきりとは見分けがつかない。当世風の人の目には、すぐに優劣のけじめもつくであろう。ただこのように明るい日中に、桧扇もきちんと持たせないで、大勢の公達が混じっている中で、それ相当の身分や心構えを持っていながら、人に負けまいと競い合う気持ちも、どんなに気後れするだろうと、無性に気がかりに思われるのは、堅苦しい考えであることよ。

 丹波守の童女の青色の白橡の汗衫を美しいと思っていると、藤宰相の童女には赤色の白橡の汗衫を着せて、その下仕えの童女に唐衣に青色の白橡の汗衫を対照的に着せているのは、妬ましいほどに気が利いている。童女の容貌も、丹波守の童女の一人はたいして整っているとも見えない。宰相の中将のは、童女の姿態がとてもすらりとして、髪なども美しい。もの馴れしすぎた童女一人については、どんなものかしら、あまり感心しないと、人びとが言っていた。みな濃い紅色の衵を着て、表着はそれぞれ思い思いの物を着ている。汗衫は五重襲である中で、尾張守のはただ葡萄染めを着せていた。かえって奥ゆかしく趣きのある様子で、色合いや光沢などが、とても優れていた。下仕えの中でとても容貌の優れているのがいて、その桧扇を取ろうとして六位の蔵人たちが近寄ると、自らすすんで投げ寄越したのは、殊勝なこととは思うが、あまりに女らしからぬことではないかと思われる。わたしたち女房らに、あの童女たちのように人前に出なさいと言われたならば、やはりあのようにただうろうろ歩き回るだけであろうよ。

 このようにまで人前に出ることを思ったことだろうか。けれど、目にはっきり見えて、あきれるほどに変わっていくものは、人の心なので、今から後の恥知らずさは、ただ宮仕えに慣れに慣れすぎて、直に顔を見せることも平気になるのだろうと、わが身のありさまが夢のように思い続けられて、それはとんでもないことだとまで気にかかって、不吉に思われたので、眼前の儀式に目が止まることも例によってなくなってしまった。

【一八 二十三日辰の日、豊明節会】

 侍従の宰相の舞姫の局は、中宮様のお部屋からすぐ見渡されるほどの近さである。立蔀の上から、評判の高い簾の端(出だし衣)も見える。人の何か話す声もほのかに聞こえる。

 「あの(侍従宰相の姉の)弘徽殿女御様の所で、左京の馬という人が、たいそうもの馴れた態度でまじっています。」

と、宰相中将が、かつてその女性を見知っていてお話しなさるのを、

 「先夜、あの介添役として座っていたうちの、東側にいた人が左京ですよ。」

と、源少将も見知っていたのを、何かの縁があって伝え聞いていた女房たちは、

 「それはおもしろいことでしたわ。」

と、言いながら、さあ知らない顔をしているわけにはいかない、以前はお上品ぶって自在に振る舞っていたであろう宮中に、このような介添役の格好で出て来てよいものであろうか。人目を忍んでいるらしいが、暴き出してやろうという魂胆で、中宮様の御前に桧扇などがたくさんある中で、蓬莱山を描いたのを特に選び出しているのは、きっと趣向があるにちがいないが、それを理解できたであろうか。硯箱の蓋に扇を広げて、日蔭の鬘をまるめて載せ、反りをつけた櫛などを、白い物忌みで、両端を結び添えていた。

 「すこしお年を召した方なので、櫛の反った様子が、平凡すぎますな。」

と、公達がおっしゃるので、当世風の不格好なほどに端と端を合わせた反らし具合にして、それに黒方をおし丸めて、ぞんざいに両端を切って、白い紙二枚を一重ねにして、立文の形にした。大輔のおもとに書きつけさせた。

  大勢奉仕した豊明節会の人々の中でひときわ目立って
  はっきり見えた日蔭の鬘のあなたをしみじみと拝見しました(一三)

 中宮様におかれては、

 「同じ贈るというのなら、もっと趣きのあるさまに作って、桧扇などもたくさんにしたら。」

と、おっしゃるが、

 「あまり大袈裟になりますのも、事の趣旨に合わないでしょう。特別にご下賜なさるというのならば、こっそりわけありげにお与えになるべきではありません。これはこのような私的な事柄です。」

と申し上げて、顔の知られていないはずの局の女房を使って、

 「これは、中納言の君からの御手紙で、女御様から左京の君に差し上げたい、とのことです。」

と声高らかに言って置いてきた。引き止められるようなことになったらみっともないことになろうと思っていたところ、走って戻って来た。女の声で、

 「どこから入って来たのですか。」

と尋ねていたらしかったが、女御様からのお手紙と、疑うことなく思っているようである。

【一九 五節過ぎの寂寥の日々】

 格別に耳をとめるようなこともなかったこの数日であるが、もう五節が終わってしまったと思う宮中の様子は急にもの寂しい感じがするが、巳の日の夜の調楽は、さすがに興趣深かった。若々しい殿上人たちは、どんなにか名残惜しく所在ない思いをしていることだろう。
 高松殿の小さな若君までが、この度、中宮様が宮中に御還啓なさった夜からは、女房たちの部屋に入ることを許されて、ひきりなしに通り歩きなさるので、ますますきまりの悪い思いをすることよ。年をとりすぎているのを頼み所にして隠れてばかりいる。五節が恋しいなどとも、特に思ってはおらず、やすらいや小兵衛の君などの、その裳の裾や汗衫にまつわりつかれて、まるで小鳥のようにさえずりながらふざけあっていらっしゃるようだ。

【二〇 十一月二十八日下酉の日、臨時の祭】

 賀茂の臨時の祭の使者は殿のご子息の権中将(教通)の君である。当日は宮中の御物忌みなので、殿は、御宿直をなさっていた。上達部も舞人を務める公達も一緒に泊まり込んで、一晩中、細殿のあたりは、とても何やら賑やかな様子がしていた。

 当日の早朝、内大臣(公季)の御隨身が、こちらの殿の御随身に贈物を手渡していったが、先日の硯箱の蓋に白銀の冊子箱を載せていた。その箱の中に鏡をおし入れて、沈の櫛や白銀の笄など、使者の若君が鬢を整えさせなさるようにとの格好にしてあった。箱の蓋に葦手書きに浮き出ているのは日蔭の鬘の返事のようである。文字が二つ欠け落ちていて、変にことの趣旨に違っているわと見えたのは、あの内大臣が、中宮様からの贈物と思い込まれて、このように仰々しくなさったのだと、聞きました。ほんのちょっとした戯れ事を、お気の毒にも、こんな大袈裟なことになるとは。

 殿の北の方も、参上なさって奉幣使の出立を御覧になる。使者の若君が藤の造花を冠に挿して、たいそう堂々と大人びていらっしゃるのを、内蔵の命婦は、舞人には目もくれないで、じっと見つめては見つめて涙にむせんでいた。

 宮中の御物忌み中なので、賀茂の御社から丑の時(午前二時頃)に帰参すると、還立の御神楽などもほんの形ばかりである。尾張兼時が去年までは舞人としてたいそうふさわしい感じであったが、すっかり老い衰えた動作は、関係のない人の身の上のことであるが、しみじみとわが身に思いよそえられることが多くあります。

【二一 十二月二十九日、参内、初出仕時に思いをはせる】

 十二月の二十九日に帰参する。初めて参内したのも今夜のことであった。あの時はひどく夢の中をさまよい歩いていたような感じであったわと思い出されると、今ではすっかり馴れてしまっているのも、うとましいわが身の上であるよと思われる。

 夜もたいそう更けてしまった。中宮様は宮中の御物忌みでいらっしゃったので、御前にも帰参の挨拶に参上しないで、心細い気持ちで横になっていると、同室の女房たちが、

 「宮中あたりは、やはりとても様子が違っていますわ。里では今ごろはもう寝てしまっていましょうものを。それにしても目を覚まさせる沓音の頻繁さですね。」

と好色がましく言っているのを聞く。

  今年も暮れてわたしの齢もまた一つ加わっていくが、夜更けの風の音を聞くにつけても
  わが心の中をなんと寒々としたものが吹き抜けていくことか(一四)

と、つい独りつぶやかれた。

【二二 十二月三十日の夜、追儺の儀の後】

 大晦日の夜、追儺の行事はとても早く終わってしまったので、お歯黒を付けたりなどして、ちょっとしたお化粧などもしようとして、くつろいでいたところに、弁の内侍の君がやって来て、世間話をしてそのまま眠っておしまいになった。内匠の蔵人は長押の下座の方に座っていて、あてきが縫い物の、重ねやひねりを教えたりなどして、しんみりとしていたところに、中宮様の方でひどく大声を立てている。弁の内侍を起こしたが、すぐにも起きない。女房の泣き騒ぐ声が聞こえるので、たいそう気味が悪く、どうしてよいか分からない。火事かと思ったが、そうではない。

 「内匠の君、さあ、さあ。」

と、前に押し立てて、

 「ともかくも、中宮様は下の部屋にいらっしゃいます。まずは参上して拝顔致しましょう。」

と、弁の内侍を手荒につき起こして、三人で震えながら、足も地につかない有様で参上したところ、裸になった女房が二人うずくまっていた。靫負の君と小兵部の君であった。あの騒ぎはこういうことであったのだと分かると、ますます気味が悪い。

 御厨子所の人びともみな退出してしまっていて、中宮様付きの侍も滝口も追儺の行事が終わるやいなや、みな退出してしまっていた。手をたたいて大声を出したが、応答する者もいない。御膳宿りの刀自を呼び出して、

 「殿上の間にいる兵部丞という蔵人を、呼びなさい、呼びなさい。」

と、恥も忘れて自分から言ったところ、探しに行ったが、そのまま退出してしまっていた。情けないことこの上ない。

 式部丞藤原資業が参上して、あちこちの灯台のさし油などを、ただ一人で注いでまわる。女房たちはただ茫然として、向かい合ってうずくまったままの者もいる。主上からもお見舞いのお使いなどがある。ひどく恐ろしゅうございました。納殿にある御物の衣装を取り出させて、この女房たちにご下賜なさる。元日用の装束は盗っていかなかったので、何事もなかったようにしているものの、裸姿は忘れられず、恐ろしくはあったが、滑稽だったと言うことはできない。

《第三章 寛弘六年(一〇〇九)春の記》
【一 正月三日 若宮の御戴餅の儀】

 正月一日、不吉なことは言忌みすべきなのに、昨夜の事件があって、ついそれもできない。坎日であったので、若宮の御戴餅の儀式は、停止となった。若宮は三日の日に清涼殿に参上なさる。

 今年の若宮の御給仕役は大納言の君である。装束は、元日の日は紅色の袿、葡萄染めの表着、唐衣は赤色で、地摺の裳である。二日は、紅梅の織物の表着に、掻練は濃い紅色で、青色の唐衣に、色摺の裳である。三日は、唐綾の桜襲に、唐衣は蘇芳の織物である。掻練は濃い紅を着る日は紅を中に着て、紅を着る日は濃い紅を中に着るなど、いつものとおりである。女房たちは、萌黄襲、蘇芳襲、山吹襲の濃いの、薄いの、紅梅襲、薄色襲など、普段の色目を一度に六種ほどと、これに表着を重ね合わせて、とても体裁のよい着こなしをしています。

 宰相の君が御守刀を持って、殿が若宮をお抱き申し上げなさっているのに続いて、清涼殿に参上なさる。紅の三重襲五重襲、また三重襲五重襲と交ぜながら、同じ紅色の打って艶出しした七重襲に、単衣を縫い重ね、それを重ね交ぜながら、その上に同じ紅色の固紋の五重襲を着て、袿は、葡萄染の浮紋で、固木の紋様を織り出している、その仕立て方までが気が利いている。三重襲の裳に、赤色の唐衣は、菱型の紋様を織り出して、その仕立て方もたいそう唐風であった。とても興趣深く、髪形などもいつもより整えて、その姿態や身のこなしが、洗練されていいて素晴らしい。背丈もちょうどよいほどで、ふっくらとした人で、顔はとても上品で、色つやがあり美しい。

 大納言の君は、とても小柄で、小さいといってよいほどの人で、色白く可愛らしげで、まるまると太っているのが、見た目にはとてもすらりとして、髪は背丈より三寸ほど余っている毛先の様子や、髪の生え具合などは、総じて誰も匹敵する者がなく、きめこまやかに可愛らしい。容貌もとても可愛らしく美しく、物腰なども可愛らしげにもの柔らかである。

 宣旨の君は、小柄の感じの人で、とてもほっそりすらりとして、髪の毛筋は整って美しくて、その垂れ下がっている末は袿の裾から一尺ほど余っていらっしゃった。とても恥ずかしくなるほどに、この上もなく気品のある様子をしていらっしゃった。物陰からふと歩み出されるにも、あれこれと気づかいされる感じがする。高貴な人とはこういう人をいうのだと、その気立てや、物のおっしゃりようにも思われた。

第二部 宮仕女房批評記
《第一章 人物批評》
【一 宰相の君、小少将の君、宮の内侍、式部のおもとの批評】

 このついでに、女房たちの容貌についてお語し申し上げれば、口さがないということになりましょう。それも現在の人々についてではなおさらでしょう。当面の人については、やはり憚りがあるし、さてどんなものでしょうかなどというような、すこしでも欠点のある人については、言いますまい。

 宰相の君は、北野の三位の娘のほうですよ。ふっくらとして、とても容姿が整っていて、才気ばしった理知的な顔かたちをした人で、ちょっと対座している時よりも、何度も対面していくうちに格段と見まさりがし、洗練されていて、口元に気品があり、艶やかな美しさもそなわっている。物腰などとても立派に美しくお見えである。気立てもとても難のない人で、可愛らしい人なのですが、またとても気後れするような気品もそなわっている。

 小少将の君は、どことなく上品で優美で、二月頃のしだり柳の様子といった感じである。姿態はとても可愛らしげで、物腰は奥ゆかしく、気立てなども自分では何も判断しかねるというように遠慮して、とても世間を恥じらい、あまりに見苦しいまでに子供っぽくいらっしゃる。意地の悪い人が、悪しざまに扱ったり、事実と違うことを言ったりする人があったら、すぐにそのことを思いつめて、命も亡くしてしまいそうな、弱々しくどうしようもないところを持っていらっしゃるのは、あまりに気掛かりである。

 宮の内侍は、またとても清楚な人です。背丈はとてもちょうどよいくらいであるが、その座っている様子や姿格好は、とても堂々として、当世風の姿態で、特にとりたてて美しい人とは見えぬものの、とても清楚ですらりとして、中高な顔立ちで、黒髪に映えた色白の美しさなどは、誰よりもすぐれている。頭髪の格好や髪の生え際、額つきなどは、ああ何とも美しいと見えて、はなやかで魅力的である。自然に振る舞って、気立てなども穏やかで、わずかばかりのどの方面につけても不安なことはなく、すべてにつけてそうありたいと思える、人の模範にしたい人柄である。風流ぶったり気取ったりするようなところはない。

 式部のおもとはその妹です。とてもふっくらし過ぎて太った人で、顔はとても色白に艶やかで、顔はとても整っていて美しい。髪もたいそう端麗で、長くはないのであろう、付け髪してつくろって、宮仕えに参りました。その時の太った姿態が、とても美しかったことですよ。目もとや額つきなどは、本当に清楚で、ちょっと微笑んだところなど、愛くるしい感じでいっぱいだった。

【二 小大輔、源式部、小兵衛、少弐、宮木の侍従、五節の弁、小馬の批評】

 若い女房の中で容貌が美しいと思える人では、小大輔の君、源式部の君などです。小大輔の君は小柄な人で、容姿はとても当世風で、髪は端麗で、もとはとても豊かで、背丈に一尺以上も余っていたが、今では抜け落ちて細くなっています。顔も才気があって、ああ美しい人よと見えます。容貌は直さなければならないところはない。源式部の君は、背丈もちょうどよいくらいにすらりとして、顔はよく整っていて、見れば見るほどにとても美しく、可愛らしげな風情で、清楚でこざっぱりした感じで、良家の娘と思われる様子をしている。

 小兵衛の君、少弐の君などもとても美しいです。彼女らは、殿上人たちが見過ごしていることも、稀だということです。どの人も、うっかりすると知れわたってしまうけれど、人目につかないところでも用心しているので、知られていないでいます。

 宮城の侍従の君は、とても整っていて美しかった人です。とても小柄で細身で、依然として童女姿のままでおきたいような様子なのに、自分から老け込んで、尼姿になって宮仕えを辞してしまった。髪が袿よりすこし余っていた末を、たいそうさっぱりと尼削ぎにして挨拶に上がったのが、宮仕えの最後の日であった。顔もとても美しかった。

 五節の弁という人がいます。平中納言養女にして大切に世話していると聞きました人です。絵に描いたような顔をして、額はたいそう広い人で、目尻はとても長く、顔もここはまあと見える難点もなく、色白で、手つき腕さばきは趣きがあって、髪は、初めて見ました春頃は、背丈に一尺ほど余って、豊かにたくさんありましたが、おどろきあきれるほど取り分けたように抜け落ちて、髪の裾も、そうはいっても細くはならず、長さはすこし余っているようです。

 小馬の君という人は、髪がとても長うございました。昔は美しい若い女房でしたが、今では琴柱にを膠で固めたように、里に引きこもっているようです。

 このようにあれこれ批評してきて、気立てというのは難しいものです。それもそれぞれ個性があって、ひどく劣っている人もいない。また、格別に趣きがあって、思慮深く、才気や嗜みも、風流さも、安心さも、すべて具わっていることは難しい。各人各様で、どの点をとったらよいかと思われることが多うございます。それにしても、けしからぬ批評でございましたことよ。

【三 斎院方と中宮方の気風比較】

 賀茂の斎院に中将の君という人が仕えていると聞いておりますが、伝手があって、この人が他の人のもとに書き送った手紙を、ひそかに或人が取り出してわたしに見せてくれました。とても華やかで、自分だけがこの世ではものの由緒を知っており、情趣深い人は誰もいまい、総じて世間の人は、思慮も分別もないもののように思っているように見えましたが、どことなく癪に障って、向かっ腹が立つとか、下賤な者が言うように、憎らしく思われました。手紙の文面にもせよ、

 「和歌などの趣きのあるのは、わが斎院様以外に、誰がお見分けできる方がいらっしゃろうか。世の中に和歌に優れた人が出て来たならば、わが斎院様だけがお見分けなさるでしょう。」
などとあります。

 なるほどもっともなようであるが、自分の側のことをそんなにも褒めたならば、斎院方から出て来た和歌で、格別優れて良いと思われる和歌も特にありません。ただとても趣きがあり、情趣に富んでいらっしゃる所のようです。伺候している女房たちを比較して優劣を競うには、こちらで拝見している中宮様あたりの女房に対して、必ずしもあちらの斎院方が優っているとはいえないでしょうよ。

 斎院方にいつも立ち入って見ている人もいない。趣き深い夕月夜や情趣に富んだ有明方、花の季節、ほととぎす探訪の折などに参上したところ、斎院はとても風雅な心がおありで、御所の様子はとても世離れして神々しい感じです。また俗事にまぎれることも何一つない。清涼殿に参上なさるとか、もしくは、殿がこちらに参上なさるとか、宿直なさるなど、何かと騒がしい折もまじりません。しかも、自然とそのように風雅を好む環境となっていますので、優雅な限りをし尽くそうとする中で、どうして軽薄な和歌の詠みぶりなどしましょうか。

 わたしのようにまるで埋れ木をさらに土中深く折り入れたような引っ込みがちで、あの斎院にお仕えしたならば、そこで見知らない男性に応対して、和歌を詠み交わす場合でも、人が浅薄な女だなどと評判を被せるはずはないなどと、心を奮い立たせて自然と優美に慣れて行きましょうよ。まして若い女房で容貌につけても、年齢につけても、引け目を感じることのない人が、それぞれ本気になって懸想めき、歌を詠もうと趣向を凝らしたならば、そんなにひどくも斎院方の女房に劣る者はありますまい。

 けれども、宮中で毎日顔を合わせ、競い合いなさる女御や后はいらっしゃらず、そちらの御方、あちらの細殿の御方と言っては比較するような御方もなく、殿方も女性たちも、競い合うことないことに気を許して、中宮様の風儀として、好色めいたことは、ひどく軽薄なことだとお思いでいらっしゃるので、すこしでも人並みであろうと思う人は、めったなことでは人前に出るようなことはしません。気やすく、恥ずかしがることなく、ああだこうだという評判を気にかけない女房は、また異なった気立てを見せることもないわけではない。ただそのような女房は、気がおけないままに、殿方が立ち寄って話しかけるので、中宮方の女房は引きこもりがちである、あるいは配慮がないなどとも批判するのでしょう。上臈や中臈くらいの女房たちは、あまりにも引きこもり上品ぶってばかりいるようです。そうしてばかりいて、中宮様のために何の飾りにもならず、見苦しいこととも思われます。

 これらの女房たちをこのように知っているようですが、人はみな各人各様で、そうひどく優劣があるわけではありません。ある点が優れていれば、また別の点では劣っているなどというものです。けれども、若い女房でさえ重々しく真面目に振る舞っているようなときに、みっともなくふざけているように見えますのも、ひどく体裁の悪いことでしょう。ただ全体の様子として、このような風情に乏しい雰囲気ではなくしたいものです。

【四 中宮方の気風】

 というのも実は、中宮様のお気立ては何一つ不足なところはなく、洗練されていて奥ゆかしくいらっしゃるのですが、あまりに控えめでいらっしゃるご性格なので、何も言い出すまい、何か言い出しても安心で恥ずかしい思いをしなくてよい女房はめったにいないものだと、お考えになっていられます。なるほど、何かの折などにしなくともよいことをしでかすのは、出来の良くないのより劣ることです。格別に深い思慮のない人で、この御所において得意顔した女房が、なまじ筋の通らないことどもを、何かの折節に言い出したりしたのを、まだたいそうお若いころでいらっしゃって、ひどく見苦しいこととお聞きになり、お思いこみになられていたので、ただ格別な落ち度もなくて過ごすのを、ただ無難なこととお考えになっている御様子で、いささか子供めいた良家の子女たちが、みなとてもよくその心に適うようにしてお仕え申し上げているうちに、このような気風が習慣になってしまったのだと、考えております。

 今では次第に大人らしくおなりになるにつれて、世の中のあるべき姿も、人の心の善しも悪しも、行き過ぎたことも至らないことも、みなお分かりになって、この中宮御所あたりのことを、殿上人も誰も見馴れて、格別に興趣深いこともないと思ったり言っているようだと、みな御存じでいらっしゃる。そうだからといって、奥ゆかしさばかりで行くわけにもいかず、ややもすれば、とても軽薄なことも出て来るものの、不風流に引きこもっているのは、こうしてありたいとお考えになり、おっしゃたりなさるが、その習慣は改めがたく、また当世風の公達ときたら、主義を曲げて順応して、ここに伺候するかぎりはみな実直な人ばかりです。

 斎院などのような所では、月を観たり、花を賞でたり、一途な風流事は、自然と求めもし、想像して言うことでしょう。朝に夕に出入りして、何のおもしろさもない所では、日常の言葉を興趣深く感じ取ったり、またちょっと何かを言ったり、あるいは、情趣深いことを話しかけられて、返答が恥ずかしくなくできるような女房は、実に稀になってしまったことを、殿上人たちは批評しているようです。自分自身で見聞きしたことではないので、よくは分かりません。

 殿上人が局に立ち寄り、ちょっとした返事をしようとする時に、きっと相手の気持ちを損ねることをしでかすのは困ったことです。とてもよく応対してそれで当然のことなのです。これをさして、すぐれた気立ての女房はめったにいないとは言うのでしょう。どうして必ずしも、見るのもにくい程に引きこもっているのが賢いことでしょうか。また逆に、どうして節度なくあちこちとさし出でるのが良いことでしょうか。ちょうど良いくらいに、その時その場の状況に従って、気配りしていくことがとても難しいことなのでしょう。

 まず例えば、中宮大夫が参上なさって、中宮様に申し上げなさることがあった折に、とても頼りなく子供っぽくいらっしゃる上臈の女房たちは、対面なさることはめったにありません。また応対に出ても、何一つはきはきとおっしゃれそうにも見えません。言葉が足りないのではありません、気配りが足りないというわけでもありませんが、きまりが悪い、恥ずかしいと思うにつけ、つい言い損ないもしそうなのを、みっともない、けっして聞かれまいと思って、少しでも姿を見られまいと思うのでしょう。

 他の所の女房はそうではないのでしょう。このような宮仕え生活に入れば、このうえなく高貴な女房でも、みな世間のしきたりに従うものですのに、相変わらず姫君のままの振る舞いでいらっしゃいます。下臈の女房が応対に出るのを、大納言殿は心よからず思っていらっしゃるようなので、しかるべき女房たちが里に退出していたり、局にいたりしても、やむをえない支障があるような場合には、対応する女房もいなくて、そのまま退出なさる時もあるようです。その他の上達部で、中宮様のもとにいつも参上して、何か取り次ぎ申し上げさせなさるような方は、それぞれ気心の通じた女房が自然と思い思いに懇意になっていて、その人がいない折には、つまらなそうに思って立ち去って行く人たちが、何かにつけて、この中宮様方のことを、「引きこもっている」などと言うらしいのも、もっともなことです。

 斎院方の人も、こうしたことを軽蔑するのでしょう。そうだからといって、自分の方だけが見所があって、他の所の人は物を見る目がないのだろう、聞くべき耳を持たないのだろう、と思って軽蔑するのは、また理不尽なことです。総じて、人を非難するのはたやすく、自分の心を適切に用いることは難しいことですのに、そうは思わないで、まずは自分を賢い者と思って、人をないがしろにし、世間を誹っているうちに、その人の心の程度がはっきりと現れ見えてくるものです。

 とてもお見せしたい手紙の書きぶりでしたね。ある人が隠しておいたのをこっそり見せてくれて、すぐに取り戻してしまったので、お見せできず残念なことです。

【五 和泉式部、赤染衛門、清少納言の批評】

 和泉式部という人は、興趣深い手紙のやり取りをした人です。けれど和泉は感心しない面もありましたが、気を許して手紙をさらさらと書いた時に、その方面の才能のある人は、ちょっとした言葉遣いに色つやが見えるようです。和歌はとても趣きがあります。古歌の知識や和歌の理論などは本格的な歌人とはいえないようですが、口にまかせて詠んだ歌などには、かならず趣きのある一点が目にとまるものとして詠み込まれています。それほどの人でさえ、他人が詠んだ和歌を非難したり批評したりしていますのは、さあ、そこまでは分かっていないで、口をついて自然に詠んでいるようだと思える方面の人です。こちらが恥じ入るほどの歌人だとは思われません。

 丹波守の北の方を、中宮様や殿などのあたりでは、匡衡衛門と呼んでいます。特に優れた歌詠みではないが、本当に風格があって、歌詠みとしてどのような場面にも歌を詠み散らすことはないが、知られている歌はすべてちょっとした折節のことでも、それこそこちらが恥じ入るほどの詠みぶりです。ややもすれば、上句と下句とがばらばらなほど離れた腰折れ歌を詠み出して、また何ともいえぬ由緒ありげなことをして、自分一人悦に入っている人は、憎らしくも気の毒にも思われることです。

 清少納言は、実に得意顔に偉そうにしていた人です。あれほど賢がって、漢字を書き散らしています程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。このように、他人とは違おうとばかり思っている人は、かならず見劣りがし、先行きは悪くなっていくことばかりですから、思わせぶりの振る舞いが身についてしまった人は、ひどく無風流でつまらい時でも、しみじみと情趣にひたったり、また興趣深いことを見過ごすまいとしているうちに、自然とその折に適切ではない軽薄な振る舞いになるものです。そのように実意のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いことがありましょうか。

《第二章 わが身と心を自省》
【一 わが心の内の披瀝】

 このように、あれこれにつけて、何一つ思い出となるようなこともなくて過ごしてきた自分が、格別に行末の頼り所もないのは、慰めに思うすべさえないが、せめて荒んだ気持ちで振る舞うことだけはするまい。そうした思いが依然として消えないからでしょうか、もの思いのまさる秋の夜も、端に出て座って空を眺めていると、ますます、月を昔は賞美していたのだろうかと、照らし出されたわが姿をそのように思わせるのでしょう、世間の人が忌むと言います非難にも、かならず当てはまりましょうと憚られて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いが続けられます。

 風の涼しい夕暮れに、聞きよくもない独奏の琴をかき鳴らしては、わたしの「嘆きが加わる侘び住まい生活」を聞き知る人があろうかと、忌わしくなど思われますのは、われながらばからしくも哀れでもあります。とはいえ実は、不思議と黒ずんで煤けた曹司に、筝の琴や、和琴が調べをととのえたままあって、気をつけて、「雨の降る日は、琴柱を倒しておきなさい」などとも言わないので、そのまま塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立ててあります。

 大きな厨子一具に、隙間もなく積んでありますのは、一つには古歌集や、物語類が何とも言えない虫の巣となってしまったので、気味悪いほどに虫が這い散るので、開いて見る人もいません。もう片方に漢籍類があり、特別に積み重ねた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいません。それらを所在なさが募ってしかたない時に、一冊二冊引き出して見てますのを、女房たちが寄って来て、

 「あなた様はこうしていらっしゃるから、お幸せが少ないのです。どうして女性が漢文を読むのでしょう。昔は経を読むのでさえ人は制止しました。」

と陰口を言うのを聞きますにつけても、縁起をかつぐ人が将来も長寿であるようだとは例の見えないことですと、言いたいけれども、思いやりがないようですし、それもまたもっともなことであります。

【二 わが心のありよう】

 万事につけ、人によってそれぞれです。誇らかに輝いていて心地よさそうに見える人がいます。何事につけ所在なく寂しそうな人が気持ちの紛れることのないままに、古い書き物を探し出して読んだり、勤行がちに口にお経を唱えたり、数珠の音を高く繰ったりなどするのは、傍目にとても気に食わなく見える行為であると思いまして、思いどおりにしてよいようなことまで、ひたすらわたしが使用する女房の目さえ憚り、心の内におさめています。まして他人の中にまじっては、言いたいこともありますが、さあどうかしらと思われ、理解できない人には、言っても無益なことでしょう。人の非難をし、自分こそはと思っている人の前では、煩わしいので何を言うのも億劫です。特にとてもそこまで何もかもできる人というのはめったにいません。ただ、自分の心中に立てた基準をもとにして人を否定したりするもののようです。

 それは、本心とは違った自分の面ざしを恥ずかしいと思うけれど、やむを得ず向かい合って一緒に座っていることさえあります。これこれしかじかだとまで非難されまいと、恥ずかしいことではないが、厄介だと思って、すっかりぼけた人にますますなりきっていますと、

 「このような方だとは想像していませんでした。ひどく思わせぶりで恥ずかしがって、近寄りがたくて、よそよそしい様子をして、物語を好み、風流ぶって、何かと歌を詠み、人を人とも思わず、嫉妬深げに人を見下すような人だと、誰もが言ったり思ったりして憎んでいたのに、お会いしてみたところ、不思議なまでにおっとりとしていて、別人かと思われました。」

と、皆が言いますので、恥ずかしくて、人からこのようにおっとりした者と見下されてしまったと思いますが、ただこれが自分の考えだと、慣れ振る舞ってきました態度は、中宮様におかれても、

 「とても気を許して接することはできない人だと思っていましたが、他の人よりは実に親しくなってしまいましたね。」

と、仰せになる折々もあります。個性が強く優雅に振る舞い、中宮様から一目置かれている上流の女房たちからも、疎外されないようにしたいものです。

【三 人の心のありよう 結論】

 体裁よく、総じて女性は穏やかで、少し心の持ち方がゆったりとして落ち着いていることを基本としてこそ、品格も風情も興趣深く安心です。あるいはまた、好色っぽくて浮薄であるけれども、生来の人柄に欠点がなく、周囲の人に対しても付き合いにくい態度さえとらなければ、憎くはありますまい。

 自分こそは他とは違うと、奇異な振る舞いに慣れて、態度が仰々しくなった女房は、立ち居振る舞いにつけて、自分から注意している時でも、その人には目が留まります。皆が目を留めれば、必ず何か言う言葉の中にも、来て座る態度や座を立って行く後ろ姿にも、必ず欠点は見つけられるものです。言うことが少しちぐはぐになった人と、他人の身の上をすぐにけなしてしまう人とは、ましていっそう耳も目も注目されることになるものです。欠点のない人はみな、何とかしてちょっとした批判的な言葉を申すまいと遠慮し、かりそめの好意でさえ見せてあげたく思います。

 人が進んで憎らしいことをし出かした時はもちろん、悪いことを過ってやった時でも、これを非難して笑うのも、遠慮はないと思われます。とても気立ての良いような人は、他人が自分を憎んでも、自分はやはりその人を思い世話しましょうが、普通の人はそうまではできないことです。

 慈悲深くいらしゃる仏様でさえ、三宝を非難する罪は軽いとお説きになったでしょうか。ましてや、これほど濁り深い世俗の人は、やはりつらく当たる人にはつらく当たり返すことになりましょう。それを、相手以上に自分が言い返してやろうとひどい言葉を投げつけ、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて包み隠して表面では穏やかなのとの違いによって、その人の思慮の程度が分かるものです。

【四 日本紀の御局と少女時代回想】

 左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。

 内裏の主上様が『源氏物語』を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、

 「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」

と、仰せになったのを、ふと当て推量に、

 「たいそう学識を鼻にかけている。」

と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。

 わたしの弟の式部丞という人が、まだ子供で漢籍を読んでいました時に、側で聞き習っていたが、弟は理解するのが遅かったり、すぐに忘れるところがあったりしたのを、わたしは不思議なほど習得が早かったので、漢籍の学問に熱心であった父親は、「残念なことだ。男子でなかったのが不幸なことであった」と、いつも嘆いておられました。

 それなのに、「男性でさえ学識を鼻にかける者は、どのようなものでしょうか。栄達はしないもののようですよ」と、だんだんと人が言うのを耳にするようになってからは、一という漢字さえ書くことをしませんので、まったく無学であきれる様でいます。

 かつて読んだ漢籍などといったものは、目にもとめなくなっていましたのに、ますますこのような渾名を聞きましたので、どんなに人が伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字句をさえ読まない顔をしていましたのに、中宮様の御前で『白氏文集』の所々を読ませなさったりなどして、その方面のことをお知りになりたげなご意向であったので、たいそうこっそりと女房の伺候していない何かの合間合間に、一昨年の夏ごろから、「新楽府」といふ書物二巻を、きちんとではないがお教え申し上げていますが、このことも隠しています。

 中宮様もお隠しになっていましたが、殿も主上も様子をお知りになって、漢籍類を立派に書家にお書かせになって、殿は中宮様に献上なさる。本当にこのようにわたしに読ませなさったりすることは、それでもやはり、あの口うるさい内侍は、まだ聞きつけていないでしょう。これを知ったならば、どんなに悪口を言いましょうかと、総じて世の中というものは煩雑で嫌なものでございますね。

【五 求道への思いと逡巡】

 さあ、今はもう言葉を慎むこともいたすまい。他人がとやかく言っても、ただ阿弥陀仏をひたすら信じて、お経を習いましょう。世の中の厭わしいことは、すべてほんの少しも心もとまらなくなってしまいましたので、出家して尼になっても仏道修業を怠ることはありますまい。ただひたすらに世を背いて出家しても、来迎の雲に乗らないうちの迷うようなことがあるかもしれません。それゆえに、躊躇しているのです。年齢もまた、出家するのに適当な年ごろになってきています。ひどく今より老いぼれては、また目も弱ってお経も読まず、気力もますます弛んでいきますものですから、思慮深い人のまねのようですが、今はただもう、このような仏道方面のことだけを思っております。いったい、わたしのような罪深い人は、また必ずしも極楽往生も叶いますまい。前世の罪業が思い知られることばかり多いものですから、すべてにつけて悲しゅうございます。

【六 宮仕女房批評記の結び】

 お手紙にはうまく書き続けられませぬことを、良い事でも悪い事でも、世間の出来事でも、わが身の上の憂えでも、残さずすっかり申し上げておきとうございます。はなはだ不都合な人を念頭に置いて、申し上げようとしても、こんなにまで書き置いてよいものでございましょうか。けれど、あなた様も所在なくいらっしゃるでしょう、またわたしの所在ない心を御覧ください。そしてまた、お思いになっていることで、とてもこう無益なことが多くなくとも、お書きください。拝見いたしましょう。万が一この手紙が人目に触れるようなことになったら大変なことでしょう。人の耳も多いことです。最近は不要な手紙はみな破って焼却したり、雛遊びなどの家作りに、この春使ってしまって後は、誰の手紙もありませんし、新しい紙にはわざわざ書くまいと思っておりますのも、とても目立たないようにしているのです。特に粗雑な扱い方をしているのではありません、わざとそうしたのですよ。御覧になりましたら、早くお返しください。読みにくい所々や、文字を落とした所もありましょう。それはお構いなく、お読み飛ばしください。このように世間の人の口を気にかけながら、最後に結びとしますと、わが身を思い捨てきれない執着心が、何とも深いことでございます。どうしようというものでしょうか。

第三部 宮仕生活備忘記
《第一章 寛弘五年五月二十二日、土御門殿邸の法華三十講》

 二十二日の明け方に、中宮様は御堂へお渡りになる。御車には殿の北の方が同乗され、女房たちは舟に乗って向こう岸に渡った。それには遅れて夜になってから参った。教化を行うところで、比叡山や三井寺の作法をそのまま行って大懺悔を行う。白い百万塔などをたくさん絵に描いて、遊び興じていらっしゃる。上達部の多くは退出なさって、わずかの人びとが残っていらっしゃった。後夜の御導師は、教化の仕方や説教がみなそれぞれ異なっていて、二十人の僧侶がみな中宮様がこのように身重でいらっしゃる趣旨を、一生懸命に祈って、言葉につまって、笑われることもたびたびあった。

 法会が終わって、殿上人は舟に乗って、みな次々と漕ぎ出して管弦の遊びをする。御堂の東の端の、北向きに押し開けてある妻戸の前に、池に面して造り下ろしてある階段の高欄に手で押さえて、中宮の大夫は座っていらっしゃった。殿がちょっと中宮様のもとへ参上なさる間に、大夫は宰相の君などとお話するが、中宮様の御前なので、その緊張している様子は、御簾の内側も外側も興趣深いものである。

 月が雲間から朧に顔を出して、若々しい公達が、今様を歌うにつけても、舟にうまく乗り込んだので、若々しく楽しく聞こえるのだが、大蔵卿が、年がいもなく彼らに混じって、さすがにやはり声を一緒に出すのも遠慮されるのか、ひっそりと座っていた後ろ姿が滑稽に見えるので、御簾の内側の女房たちもひそひそ笑う。

 「舟の中で老いを嘆いているのでしょうか。」

と、言ったのを聞きつけなさったのか、中宮大夫が、

 「徐福文成は誑誕が多い。」

と、朗唱なさる声も様子もよこの上なく華やかに見える。

「池の浮き草」

などと謡って、笛などを吹き合わせているが、その暁方の風の様子までが格別な感じがする。ちょっとしたことも場所柄、時節柄によるのであった。

《第二章 寛弘五年土御門邸にて 道長と和歌贈答》
【一 源氏物語について】

 『源氏物語』が、中宮様の御前にあったのを、殿が御覧になって、いつものように冗談を言い出された折に、梅の実の下に敷かれている紙にお書きになった歌。

 「あなたは好色者との評判が高いので、見かけた人は
  口説かずに放っておく人はいないと思います」(一五)

 と詠んで、お与えになったので、

 「誰にもまだ靡いてことはないのに、いったい誰がわたしを
  好色者だと言いふらしたのでしょうか(一六)
心外なことですわ。」

と申し上げる。

【二 渡殿に寝た夜の事】

 渡殿に寝た夜、局の戸をたたいている人がいると聞ききつけたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした、その翌朝に、

  一晩中水鶏以上に泣く泣く開けてほしいと
  槙の戸口をたたき続けて思い嘆きました(一七)

 返歌、

  ただごとではないとばかりに、戸をたたくあなた様ゆえに
  戸を開けてはどんなに後悔をしたことでしょう(一八)

《第三章 寛弘七年正月 若宮たちの御戴餅》
【一 正月元日 敦成・敦良親王たちの御戴餅】

 今年は正月三日まで、若宮たちが御戴餅の儀式のために毎日清涼殿に参上なさる、その御供に、みな上臈女房たちも参る。左衛門督(頼通)がお抱き申し上げなさって、殿が、お餅は取り次いで、主上に差し上げなさる。二間の東の戸に向かった所で、主上が若宮たちの頭上に戴かせなさるのである。若宮たちが参上したり退下したりなさる儀式は見物である。母宮様は参上なさらない。

 今年の元日は、御陪膳役は宰相の君である。例によって衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。女蔵人としては、内匠の君や兵庫の君がお仕え申す。髪上げした容貌などは、御陪膳役の方がとても格別にお見えであるが、しかたがないことである。御薬の儀の女官として、文室の博士が賢ぶって振る舞っていた。膏薬を配ることは例年のとおりである。

【二 正月二日初子の日 臨時客】

 二日、中宮様の大饗はとりやめになって、臨時客が東面をとり払って、例年のとおり行われた。上達部は、傅大納言(道綱)、右大将(実資)、中宮大夫(斉信)、四条大納言(公任)、権中納言(隆家)、侍従の中納言(行成)、左衛門督(頼通)、有国の宰相、大蔵卿(正光)、左兵衛督(実成)、源宰相(頼定)らが、向かい合ってお座りになった。源中納言(俊賢)、右衛門督(懐平)、左右の宰相の中将(源経房・藤原兼隆)は長押の下手で、殿上人の上座にお着きになった。

 殿が若宮をお抱き申してお出ましになって、いつものご挨拶を若宮に言わせ申し上げて、お可愛がりになって、北の方に、

 「弟宮をお抱き申し上げよう。」

と、殿がおっしゃるのを、若宮はとてもやきもちをお焼きになって、

 「いやあ。」

といやがるので、また若宮をお可愛がりなさって、あれこれなだめ申し上げなさると、右大将などはおもしろがり申し上げなさる。

 その後、清涼殿に参上なさって、主上が殿上間にお出ましになって、管弦の御遊があった。殿は、例によってお酔いになられた。厄介だと思って、隠れていると、

 「どうして、あなたの御父殿は御前の御遊にお召しになったのに、伺候もしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれているね。」

などと、文句をおっしゃる。

 「それが許されるほどの和歌を一首詠め。父親の代わりに。今日は初子の日である。詠め、詠め。」

と催促なさる。すぐに詠み出すのも、とても不体裁なことだろう。とてもひどい御酔態ではないようなので、ますますお顔の色合いも美しく、火影に輝き映えて素晴らしいお姿で、

 「ここ数年来、中宮様が寂しそうな様子で、一人でいらっしゃったのを、お寂しいことと拝見して来ましたが、このように煩わしいまでに、左に右に若宮たちを拝見するのは嬉しいことだ。」

 とおっしゃって、お休みになっている若宮たちを、御帳台の垂絹を何度もひき開けては拝見なさっている。

 「野辺に小松がなかったならば」

と口ずさみなさる。新しい和歌を詠むよりも、折節に適った殿の御様子は、素晴らしく思われなさる。

 その翌日の夕方、早くも霞みわたる空を、幾棟も列ねたの殿舎の軒の隙間もない様子なので、ただ渡殿の上方の隙間をわずかに眺めて、中務の乳母と昨夜の殿の口ずさみをお褒め申し上げる。この命婦は、ものの道理を弁えていて、才気のある人なのです。

【三 正月十五日 敦良親王御五十日の祝い】

 ほんのちょっと里に退出して、二の宮の御五十日のお祝いは正月十五日なので、その明け方に参上したところ、小少将の君は、夜がすっかり明けて体裁の悪い時分に帰参なさった。いつものように同じ局にいた。二人の局を一つに合わせて、お互いに里にいる間もそこに住んでいる。同時に参上している時は、几帳だけを中仕切りにしている。殿はそれをお笑いになる。

 「お互いに知らない男性を誘い入れた場合は、どうするのですか。」

などと聞きにくいことをおっしゃるが、けれどもどちらもそのようなよそよしいことはないので、安心です。

 日が高くなって中宮様のもとに参上する。あの小少将の君は、桜襲の織物の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳を付けていらっしゃった。わたしは紅梅と萌黄襲、柳の唐衣を着て、裳の摺目などは華やかなので、取り替えたほうがよいくらい、若々しいものである。主上付きの女房たち十七人が、中宮様の御方に参上している。弟宮の御陪膳役は橘三位である。取り次ぎ役は、端には小大輔の君と源式部の君、内側では小少将の君がお仕える。

 帝と皇后様が、御帳台の中にお二方ともいらっしゃる。朝日のように光り輝いて、まぶしいほど立派な御前の様子である。主上は御直衣に、小口の袴をお召しになり、中宮様はいつもの紅色の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿をお重ねになり、表着には葡萄染めの織物をお召しになり、柳の上白の御小袿、紋も色も珍しく当世風なのをお召しになっていた。あちらはとてもあらわなので、こちらの奥にそっと入り込んで控えていた。

 中務の乳母が、弟宮をお抱き申し上げて、御帳台の隙間から南面の方にお率れ申し上げる。よく整っていてすらりとしたほどではない容姿で、ただゆったりと、堂々とした態度で、さるかたに人教へつべく、才気に富んだ雰囲気をしている。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着に、桜襲の唐衣を着ていた。

 その日の女房の服装は、誰も皆華美を尽くしていたが、袖口の配色を具合悪く重ねている女房が、あいにく御前の物をとり入れようとして、大勢の上達部や殿上人たちに、前に出てまじまじと見られてしまったことを、のちに宰相の君などは、残念がっていらっしゃったようだ。とはいうものの悪いというほどでもありませんでした。ただ重ねの配色が引き立たなかっただけである。小大輔の君は紅色の単衣襲に、表着には紅梅襲の袿で濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲である。源式部の君は濃い紅梅襲に、さらに紅梅の綾織物の表着を着ているようであった。唐衣が織物でないのを具合が悪いとでもいうのだろうか。それは禁色だから無理というものである。公的儀式の晴れの場であったら、過失が傍目にもちらっと見えた場合なら、指摘なさるのもよいでしょうが、今回は衣装の優劣は言うべきことでない。

 弟宮にお餅を進上なさる儀式が終わって、御食膳などを下げて、廂の間の御簾を巻き上げる際に、主上付きの女房たちは御帳台の西側の昼の御座のあたりに重なるようにして並んでいた。橘三位の君をはじめとして典侍たちも大勢参上していた。

 中宮様方の女房たちは、若い女房は長押の下手に、東の廂の間の南側の障子を開け放って、御簾をかけていた所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙間が、わずかに少しある所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる所に、探して行ってそこで儀式を拝見した。

 主上は、平敷の御座におつきになり、御食膳が差し上げられ並べられた。御前の御食膳や、盛り付けの様子の立派さは、何とも言い表わしようがない。南の簀子に北向きに西を上座にして、上達部のお席である。左大臣(道長)、右大臣(顕光)、内大臣(公季)殿、そして春宮傅(道綱)、中宮大夫(斉信)、四条大納言(公任)。それより下座は見えませんでした。

 管弦の御遊がある。殿上人は東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下人の席は決まっていた。藤原景斉朝臣、藤原惟風朝臣、平行義、藤原遠理などといった人びとである。殿上では、四条大納言が拍子をとり、頭弁が琵琶、琴は□□(不明)、左宰相中将が笙の笛という。双調の声で、「安名尊」、次に「席田」「此殿」などを謡う。楽曲のものは、迦陵頻 の破と急を演奏する。屋外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたのは、伊勢守であった。右大臣が、

 「和琴が、とても素晴らしい。」

などと、褒めそやしなさる。はじめ戯れなさっていたようだが、その終わりに、大変な失態をした気の毒さは、それを見ていた人の身体までが冷えきってしまうほどあった。

 殿からの帝への献上物として、笛「歯二」で、箱に納められて献上されたと拝見した。

寛弘五年
 左大臣道長  右大臣顕光  内大臣公季<左大将>
 大納言道綱<傅>  権大納言実資<右大将 按察>
 大納言懐忠<民部卿>  権中納言斉信<中宮大夫 右衛門督 十月十六日 正二位>
 中納言公任<皇太后宮大夫 左衛門督>  中納言隆家
 権中納言俊賢<治部卿 中宮権大夫 十月従二位>  中納言時光<弾正尹>
 権中納言忠輔<兵部卿>
 参議有国<勘解由長宮 播磨権守>  行成<左大弁 侍従 皇太后宮権大夫>
   懐平<春宮大夫 左兵衛督 伊予権守>  輔正<式部大輔 八十五>
   兼隆<右近中将如元>  正光<大蔵卿>
   経房<左近中将 近江権守>  実成<右中将 侍従>
 前帥伊周<准大臣 給封戸>
 正三位頼通<春宮権大夫>
 従三位兼定<右兵衛督>
 蔵人頭左中弁通方  左中将頼定
 左中将経房  頼親
 少将 重尹  兼綱
    忠経  頼宗
    公信  教通
   源雅通  済政
    道政

寛弘七年十一月廿八日遷新造一条院中宮同行啓

  寛弘七年
 左大臣道長  右大臣顕光 内大臣公季左大将
 前内大臣伊周<正月廿八日薨三十七>
 大納言道綱<傅>  実資<右大将按察>  権大納言斉信<中宮大夫>
 公任<皇太后宮大夫>
 権中納言俊賢<治部卿中宮権大夫十二月十七日正二位>  中納言隆家
 権中 行成<皇太后宮権大夫侍従>  頼通<左衛門督春宮権大夫>
 中納言 時光<年>  権中  忠輔<兵部卿>
 参議 有国<勘解由長官三月十六日修理大夫>  懐平<右衛門督春宮大夫>
    兼高<右中将>  正光<大蔵卿>  経房<左中将>
    実成<右兵衛督>  頼定
 左中将 経房<参議>  公信<蔵人従四上内蔵頭>
     教通<従四位上十一月二十八日従三位行幸如元十五>
 少将 済政<十一月廿五日右中将>  兼綱<従四位下>
    忠経<蔵人正五位下正月二十七日従四下>  定頼<二月十六日元右十二月二十日正五下>
    朝任<蔵人従五位下十一月二十五日才任元右>
 右中将兼澄  公任<任左> 頼宗<十一月二十八日正四下>
    済政<十一月二十五日任>
 少将 雅通<二月三十日兼木工頭>  道雅<従四下>
    好親<正月七日従五上>  定頼<任左>
    朝任<二月十六日任元少納言任左>  経親<二月二十五日任元左衛門佐>